24
幻は目を覚ました。
強烈な光に思わず瞼を閉じたが、ゆっくりと時間をかけて再び開く。
そこには、雲ひとつない蒼穹が視界いっぱいに広がっていた。
ここが夢の世界であることは、すぐに理解できた。
本来の自分の体。
そして、以前眠りについた道路の真ん中だ。
人影はなく、静まり返っているのも相変わらずだった。ただ、太陽が天高く昇っていたため、前回この場所にいた時とは比べものにならないほど明るかった。
幻は立ち上がり、服についた埃をパタパタと払った。
地面は不自然なほど清潔で、払う必要などなかったが、それは一種の精神的な準備運動のようなものだった。
幻は肺いっぱいに空気を吸い込み、両拳を握りしめて空に向かって絶叫した。
「母さ――――――――――――ん!!」
しかし、返事どころか木霊さえ返ってこない。
まるで空気中に目に見えない防音材でも敷き詰められているかのように、幻の声は一滴も残さず虚空に吸い込まれてしまった。
それがまるで「うるさいから静かにして」という紬の拒絶のように思えて、幻は安堵と苛立ちを同時に感じた。
「いるんだろ! せめて返事くらいしてくれよ!」
もちろん、返事はない。
幻はそれからしばらくの間、紬の職場や行きつけの店など、彼女に縁のある場所を片っ端から回った。
だが、どこももぬけの殻であり、紬の姿を見つけることはできなかった。
幻は結局、自宅へと向かった。
家にも紬はいなかったが、中に入るだけで彼女の気配に少しだけ近づけたような気がした。
幻は立ったままリビングを見回し、ある変化に気づいた。
壁にかけてあったあのロープが、消えていた。
しばらくその空白をぼんやりと見つめていた幻は、ふとある考えに至った。
「……いい加減に出てこないと、俺にも考えがあるぞ」
幻は、正面に紬が立っているかのように真っ直ぐ見据えて言い放つ。
「母さんが出てくるまで、俺もここから出ないことにした。この崩壊しつつある夢の中に、ずっと居座ってやる」
そして、
「母さんが降参して姿を現すまで、一日でも、一ヶ月でも、一年でも百年でも……いつまでもここで待ち続けてやるからな」
そう宣言すると、幻はソファにどっしりと腰を下ろし、腕を組んで目を閉じた。
十分後。
幻は退屈に耐えきれずソファから立ち上がった。
居座ると決めたものの、石像のようにじっとしているのは苦行でしかなかった。
まず、家の中ですることが何一つない。
スマホは使えず、家電も一切動かない。時間をつぶす道具が皆無だった。本はあったが、読んでいるうちに眠りに落ちるリスクを考え、手を出さなかった。
結局、幻は外へ出た。
そして、誰もいない世界をあてもなく歩き始めた。
街は、以前よりもさらに崩壊が進んでいた。
前回来た時は建物や施設はまだ形を保っていたが、今は至る所にひび割れや破損が目立っている。
色褪せた箇所も多かったが、それは単なる劣化というより、推奨スペックに満たないデバイスで無理やり高負荷なゲームを動かした時のような、テクスチャの簡略化に近い印象だった。
ある壊れた建物のコンクリート片が、落下せずに空中に静止しているのを目にする。
重力さえも狂い始めたのかと息を呑んだが、幻自身の足は地面についていたため、物理法則が局所的にバグを起こしているように見える。
幻は街全体を俯瞰したくなり、一番高いビルの屋上へと登った。
手すりに肘をかけ、辺りをぐるりと見渡す。
すると、地上では見えなかった遠くの景色が、まるで果てのないグリッドのような無機質な質感で処理されているのが見えた。
さらに、遠ざかるほど色彩を失い、白黒に脱色されている。
「……なんというか」
幻は独り言をこぼした。
「世界中がバグってるみたい」
それでも、壮観な光景だった。
自分が十七年間暮らした世界が終焉を迎えようとしているのに、不思議と悲しみは湧いてこなかった。
それよりも、この広大な空間を現実と遜色ないクオリティで維持し続けてきた紬の想像力に、ただただ感服するばかりだった。
それから、およそ一週間が過ぎた。
太陽が何度も昇り、沈む間、幻は一瞬たりとも足を止めなかった。
行き止まりに突き当たるたび、百円玉を投げて進路を決めた。
表が出れば右へ、裏が出れば左へ。
当てもなく、果てもなく、ひたすら歩き続けた。
一度でも止まれば、二度と歩き出せなくなる予感がして、幻は前進し続ける状態を粘り強く維持した。
幸い、眠気も疲労も感じなかった。
夢だと自覚しているせいか、肉体的な限界は存在せず、このまま永遠に歩き続けられるような全能感さえあった。
ただ、一つだけ、懸念があった。
現実の世界のこと。
もし夢と現実の時間の進みが同期しているのなら、現実の体――紬の体――はとっくに昏睡状態のまま、病室で一週間以上放置されていることになる。
あくまで推測だが、その可能性は否定できない。
歩いている最中、焦燥が定期的にこみ上げてくる。
祖父母、そして奏汰のことが頭をよぎり、自然と足が速くなる。しかし、急いだところで紬が早く見つかるわけでもない。
幻はそのたびに意識的に歩調を緩め、落ち着きを取り戻そうと努めた。
そんな葛藤を、数えきれないほど繰り返しながら、幻は崩れゆく世界を歩き続けた。
そんなある日、ふと浜辺に辿り着いた。
あの日、奏汰と一緒に訪れ、衝動的に身を浸したあの浜辺。
幻はポケットから百円玉を取り出し、もう一度指先で弾こうとしたが、結局やめて砂浜へと投げ捨てた。
硬貨は太陽の光を撥ねてキラキラと輝きながら緩やかな放物線を描き、金色の砂の中へと埋もれ、すぐに見えなくなった。
幻は前進を続ける。
そうして波打ち際へさらに近づいたところで、思わず息を呑んだ。
水面が、完全な平面だった。
穏やかという表現すら荒々しく感じられるほど、微塵の動きもない。
水面が凍りついているようにも見えたが、空気は少しも冷えておらず、判別がつかなかった。
幻は階段を降りて砂浜を横切り、さらに水際へと歩み寄った。
海中には魚どころかプランクトン一粒さえ存在しないらしく、気が遠くなるような深海までが透けて見えていた。
作為的なまでに鮮やかなエメラルド色が、深まるにつれて精密なグラデーションを描きながら沈み込んでいる。
幻は、そのぞっとするほど壮大な静寂に圧倒されるが、たちまち我に返る。
水辺にしゃがみ込み、砂を一掴みすくい上げる。
そして、骨粉でも撒くかのように水面へとそっと振りまいた。
細かい砂粒が点々と沈み、そこから同心円状の波紋が優しく広がっていく。
美しいけれど、あまりにも寂しい光景だった。
幻は、残響のように遠ざかっていく波紋をしばらく淡々と見つめた後、膝についた砂を払いながら立ち上がった。
「こんなの見せられたら……」
幻は、後ろを振り返って言った。
「さすがに十七年もここで暮らしてきた俺でも、夢だって分かるよ。母さん」
「……」
返事はなかった。
紬はただ、幻から十歩ほど離れたところに立っていた。
後ろ手を組み、幻が作った波紋をどこか不満げに眺めながら。




