表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の子  作者: 真好


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/27

27

 ラジオから流れるニュースキャスターの声を聞きながら、幻は目を覚ました。


 地球は今日も平和だ、と誰かが言っている。


 幻は上半身だけを起こし、星々の光に満ちた外の景色をしばらくぼんやりと眺めた後、ベッドから這い出して、月での一日を始めた。


 部屋を出て、一階に降り、風呂に浸かる。


 温かいシャワーを浴びた後、キッチンに向かって冷蔵庫の扉を開ける。


 中には多種多様なスイーツがぎっしりと詰まっていた。なぜか冷蔵庫は、開けるたびにいつもこの状態で満たされている。


 幻は少しだけ悩み、特大サイズのチョコパフェを選ぶ。そして携帯ラジオを手に、外へと踏み出した。


 ゆったりと欠伸をしてから、静寂に包まれた「静かの海」を見渡す。


 それから、焚き火のそばへと足を運ぶ。


 その炎は、薪を足さずとも絶えることなく赤々と燃え続けている。


 彼は二つ並んだ折りたたみ椅子のうちの一つに腰を下ろし、サイドテーブルに置いたラジオの音量を上げた。そして、ちょうど夜が訪れようとしている蒼い地球を眺めながら、パフェを口に運んだ。


 地球はいつものように美しく輝き、天を仰げば銀河が滔々と流れている。


 完璧すぎる景色を眺めているうちに、幻はふと飽和した感覚に襲われ、焚き火の方へと視線を逸らした。パフェは半分も食べないうちに飽きてしまい、そのまま燃え盛る炎の中へと放り投げた。


 そして、隣にあるもう一つの空席をじっと見つめながら、ぼんやりと思考を巡らせる。




 誰かを、ずっと待っている。




 けれど、それが誰なのかは分からない。


 ただ漠然とした予感だけを頼りに、


 当てもなく、果てもなく、


 ひたすら待ち続けている。


 起きて間もないというのに、再び心地よい眠気が襲ってくる。


 幻は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。


 今日はどの方向へ散歩に行こうかと周囲を見渡し、小さく溜息をつく。


 月面の至る所に、すでに自分の足跡がくまなく刻まれている。


 月の裏側まで行ってみようかとも考えたが、どうせ暗くて何も見えないだろうと思い直す。


 これから一体、何をすればいいのだろう。


 立ち尽くして思案に耽っていると、突然ラジオから、地球からの緊急速報が流れ込んできた。




『本日――月への有人着陸が、いよいよ行われる予定です』




 幻は、耳を傾ける。


 宇宙飛行士に選ばれたのは、石原奏汰という名の二十代の男性らしい。


 計画の概要に始まり、アナウンサーによる長々とした説明が続いたが、幻の意識はすでにその名前に釘付けになっていた。


「石原、奏汰……」


 口の中で転がしてみる。


 確かにどこかで聞き覚えのある、懐かしい響きだった。だが、今の幻の頭には、記憶と呼べるものは何一つ残っていない。


 その名に関連した感情の断片がわずかに浮上しかけたが、指先で触れようとした途端、それは燃え尽きた灰のように脆く崩れ去ってしまう。



 やがて地球から打ち上げられたロケットが、幻の視界に現れた。



 それは月に向かって一定の速度で接近し、月の希薄な大気圏を静かに突き抜けてくる。ロケットは墜落することなく、エンジン部分を下方へ向け、慎重に減速しながら着陸態勢に入った。


 そして、幻のいる場所からそれほど遠くない地点に、真っ直ぐ垂直に降り立った。


 着陸の際に生じた突風が、幻の元まで押し寄せてくる。


 幻は両手で顔を覆い、砂塵が収まるのを待ってから、おもむろに顔を上げた。


 焚き火が消えた後の灰を見下ろした後、彼は吸い寄せられるようにロケットの方へと歩き出した。


 幻が近づくと、ロケットのハッチが開き、中から一人の人物が姿を現した。


 ニュースで聞いた通り、二十代半ばほどに見える男性だった。


 やはりどこかで見たことがあるような顔立ちだったが、確かなことは何も思い出せない。


 幻が警戒してわずかに後ずさると、その男性は穏やかに歩み寄り、声をかけてきた。


「幻。久しぶり。……待たせたな」


「……」


「さあ、行こうか」


 そう言って、彼は大きな手を差し出した。


 幻は後退するのをやめ、慎重に彼の方へ近づく。


「……どこへ?」


 幻が尋ねると、奏汰は視線で遠い地球を指し示しながら答えた。


「決まってるだろ。母さんのところだよ」


「母さん?」


「ああ。紬が、ずっと待っている。行こう」


 奏汰が再び手を差し出す。幻はその頼もしい手をまじまじと見つめ、ふと思った。


 待っていたのは、俺だけじゃなかったんだ、と。


 胸の奥で、期待が小さな火を灯す。


 不安も完全には拭えなかったが、もう迷いはなかった。


 幻は勇気を振り絞って奏汰の手を握り、彼と共にロケットの中へと乗り込んだ。
















げん




 自分を呼ぶ声に、現は目を覚ました。


 ゆっくりと瞼を持ち上げ、横を向く。


 そこには、ハンドルから手を離し、サイドブレーキを引き上げる紬の姿があった。


「着いたわよ」紬が言った。「そろそろ起きて。もうすぐ打ち上げが始まるから」


「……」


 現は倒していたシートを戻し、窓の外を眺めた。


 そこには、種子島の静かで穏やかな風景が広がっていた。




 緑豊かな夏の日の午後。


 今日は種子島宇宙センターで月探査有人ロケットが打ち上げられる日であり、現の十七歳の誕生日でもある。


「……俺、どれくらい寝てた?」


 現が尋ねると、紬は首を少し傾けて答えた。


「そうね、二十分くらい? ……こら、うるさい! 喧嘩しないの!」


 後部座席が急に騒がしくなり、紬の注意はそちらへと向けられた。現もルームミラー越しに後ろを覗き込む。


 そこでは、幼稚園に入ったばかりの双子の妹たちが、着せ替え人形の所有権を巡って激しい言い争いを繰り広げていた。


 現は二人の喧騒を聞き流しながら、ぼんやりと呟いた。


「夢を見た。……すごく、長い夢」


 すると、紬が再び現の方を向いた。


「どんな夢だったの?」


「ええと……」


 現はしばらく記憶を辿ろうとしてみた。


 だが、どれほど思い出そうとしても、その内容はすでに熱に溶けた氷のように、跡形もなく消え去ってしまっていた。


「分からない。もう忘れちゃった」


「……そう。残念ね」


 その時、紬のスマホに着信があった。


 画面には「奏汰」の名が表示されている。


「あ、お父さんからだわ」


 紬はそう言うと、後部座席の妹たちを諭した。


「ほら、お父さんと電話するから、静かにしてて」


 奏汰は種子島宇宙センターの職員であり、今日の打ち上げを管制棟から直接見守っている。


 電話の内容は、間もなくカウントダウンが始まるという知らせだった。紬がそれを伝えると、妹たちは目を輝かせ、「外で見る!」と元気よく車を飛び出していった。


「あんまり遠くへ行っちゃダメよ!」


 紬が二人の背中に声をかけてから、現に尋ねた。


「現は? 外で見ないの?」


 現は一瞬迷ったが、まだ微かな眠気が残っており、車内の冷房の心地よさも捨てがたかったため、首を横に振った。


「いいよ。ここからでもよく見えるし」


「そう。じゃあ、母さんもここで見ようかな」


 こうして、車内には二人だけが残った。


 奏汰との電話を続ける紬の横顔を、現はじっと見つめた。すると、電話を終えた紬が怪訝そうに聞き返してきた。


「なによ。私の顔に何かついてる?」


「……いや、別に」現は視線を逸らしながら言った。「母さんももうおばさんだよな、って思っただけ」


「はあぁ!?」


 紬はあからさまに機嫌を損ねた様子で、現の片方の頬を指先でつねり上げた。


「おばさんで悪かったわね! 仕方ないでしょ、もう四十歳なんだから!」


「い、痛い! 誰も悪いなんて言ってないだろ。ただの事実を言っただけじゃないか。……でも母さん、四十歳には全然見えないよ。まだ三十代前半で通用するから! 本当に!」


 必死の弁明が通じたのか、紬はようやく現の頬を離してくれた。


 それから紬はルームミラーで自分の顔を覗き込みながら、どこか名残惜しそうに呟いた。


「……もう四十歳か」


 現は火照った頬をさすりながら、ふと思う。紬本人はそれなりにショックを受けているようだが、現は彼女が年を重ねていくその姿に、得体のしれない安堵感を覚えていた。


 やがて、遠くの発射台から白煙が噴き出し、空気を震わせる重厚な轟音を発する。



 ロケットが産声を上げた。



 周囲の見物客たちの間で、嬉しそうな拍手と歓声が沸き起こる。


 現はしばらくの間、吸い寄せられるようにロケットを目で追い続けた。


 十七歳の誕生日、これ以上のプレゼントはないと思えるほど壮観な光景だった。


 ロケットは白煙で巨大な放物線を描きながら蒼穹へと昇っていき、やがて車内からは見えない高さへと消えていった。


 素敵だなと言おうとして隣を向くと、紬と目が合った。


 彼女はすでに現の方を見ていた。


 ロケットではなく、それを見上げる現の横顔を、ただじっと見つめていたようだった。


「現」


 彼女は静かに言った。




「生まれてきてくれて、ありがとう」




 現は、少し照れくさく感じたけれど、すぐに深く頷き、精一杯の笑顔を返した。




 二人は車を降り、人混みの中にいた妹たちを捜して合流した。


 そして四人で並び、天高く昇っていく輝きをいつまでも、いつまでも見上げた。


 もう一人の夢が、今、月へと向かっていた。






 ―完―


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ