27
ラジオから流れるニュースキャスターの声を聞きながら、幻は目を覚ました。
地球は今日も平和だ、と誰かが言っている。
幻は上半身だけを起こし、星々の光に満ちた外の景色をしばらくぼんやりと眺めた後、ベッドから這い出して、月での一日を始めた。
部屋を出て、一階に降り、風呂に浸かる。
温かいシャワーを浴びた後、キッチンに向かって冷蔵庫の扉を開ける。
中には多種多様なスイーツがぎっしりと詰まっていた。なぜか冷蔵庫は、開けるたびにいつもこの状態で満たされている。
幻は少しだけ悩み、特大サイズのチョコパフェを選ぶ。そして携帯ラジオを手に、外へと踏み出した。
ゆったりと欠伸をしてから、静寂に包まれた「静かの海」を見渡す。
それから、焚き火のそばへと足を運ぶ。
その炎は、薪を足さずとも絶えることなく赤々と燃え続けている。
彼は二つ並んだ折りたたみ椅子のうちの一つに腰を下ろし、サイドテーブルに置いたラジオの音量を上げた。そして、ちょうど夜が訪れようとしている蒼い地球を眺めながら、パフェを口に運んだ。
地球はいつものように美しく輝き、天を仰げば銀河が滔々と流れている。
完璧すぎる景色を眺めているうちに、幻はふと飽和した感覚に襲われ、焚き火の方へと視線を逸らした。パフェは半分も食べないうちに飽きてしまい、そのまま燃え盛る炎の中へと放り投げた。
そして、隣にあるもう一つの空席をじっと見つめながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
誰かを、ずっと待っている。
けれど、それが誰なのかは分からない。
ただ漠然とした予感だけを頼りに、
当てもなく、果てもなく、
ひたすら待ち続けている。
起きて間もないというのに、再び心地よい眠気が襲ってくる。
幻は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
今日はどの方向へ散歩に行こうかと周囲を見渡し、小さく溜息をつく。
月面の至る所に、すでに自分の足跡がくまなく刻まれている。
月の裏側まで行ってみようかとも考えたが、どうせ暗くて何も見えないだろうと思い直す。
これから一体、何をすればいいのだろう。
立ち尽くして思案に耽っていると、突然ラジオから、地球からの緊急速報が流れ込んできた。
『本日――月への有人着陸が、いよいよ行われる予定です』
幻は、耳を傾ける。
宇宙飛行士に選ばれたのは、石原奏汰という名の二十代の男性らしい。
計画の概要に始まり、アナウンサーによる長々とした説明が続いたが、幻の意識はすでにその名前に釘付けになっていた。
「石原、奏汰……」
口の中で転がしてみる。
確かにどこかで聞き覚えのある、懐かしい響きだった。だが、今の幻の頭には、記憶と呼べるものは何一つ残っていない。
その名に関連した感情の断片がわずかに浮上しかけたが、指先で触れようとした途端、それは燃え尽きた灰のように脆く崩れ去ってしまう。
やがて地球から打ち上げられたロケットが、幻の視界に現れた。
それは月に向かって一定の速度で接近し、月の希薄な大気圏を静かに突き抜けてくる。ロケットは墜落することなく、エンジン部分を下方へ向け、慎重に減速しながら着陸態勢に入った。
そして、幻のいる場所からそれほど遠くない地点に、真っ直ぐ垂直に降り立った。
着陸の際に生じた突風が、幻の元まで押し寄せてくる。
幻は両手で顔を覆い、砂塵が収まるのを待ってから、おもむろに顔を上げた。
焚き火が消えた後の灰を見下ろした後、彼は吸い寄せられるようにロケットの方へと歩き出した。
幻が近づくと、ロケットのハッチが開き、中から一人の人物が姿を現した。
ニュースで聞いた通り、二十代半ばほどに見える男性だった。
やはりどこかで見たことがあるような顔立ちだったが、確かなことは何も思い出せない。
幻が警戒してわずかに後ずさると、その男性は穏やかに歩み寄り、声をかけてきた。
「幻。久しぶり。……待たせたな」
「……」
「さあ、行こうか」
そう言って、彼は大きな手を差し出した。
幻は後退するのをやめ、慎重に彼の方へ近づく。
「……どこへ?」
幻が尋ねると、奏汰は視線で遠い地球を指し示しながら答えた。
「決まってるだろ。母さんのところだよ」
「母さん?」
「ああ。紬が、ずっと待っている。行こう」
奏汰が再び手を差し出す。幻はその頼もしい手をまじまじと見つめ、ふと思った。
待っていたのは、俺だけじゃなかったんだ、と。
胸の奥で、期待が小さな火を灯す。
不安も完全には拭えなかったが、もう迷いはなかった。
幻は勇気を振り絞って奏汰の手を握り、彼と共にロケットの中へと乗り込んだ。
「現」
自分を呼ぶ声に、現は目を覚ました。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、横を向く。
そこには、ハンドルから手を離し、サイドブレーキを引き上げる紬の姿があった。
「着いたわよ」紬が言った。「そろそろ起きて。もうすぐ打ち上げが始まるから」
「……」
現は倒していたシートを戻し、窓の外を眺めた。
そこには、種子島の静かで穏やかな風景が広がっていた。
緑豊かな夏の日の午後。
今日は種子島宇宙センターで月探査有人ロケットが打ち上げられる日であり、現の十七歳の誕生日でもある。
「……俺、どれくらい寝てた?」
現が尋ねると、紬は首を少し傾けて答えた。
「そうね、二十分くらい? ……こら、うるさい! 喧嘩しないの!」
後部座席が急に騒がしくなり、紬の注意はそちらへと向けられた。現もルームミラー越しに後ろを覗き込む。
そこでは、幼稚園に入ったばかりの双子の妹たちが、着せ替え人形の所有権を巡って激しい言い争いを繰り広げていた。
現は二人の喧騒を聞き流しながら、ぼんやりと呟いた。
「夢を見た。……すごく、長い夢」
すると、紬が再び現の方を向いた。
「どんな夢だったの?」
「ええと……」
現はしばらく記憶を辿ろうとしてみた。
だが、どれほど思い出そうとしても、その内容はすでに熱に溶けた氷のように、跡形もなく消え去ってしまっていた。
「分からない。もう忘れちゃった」
「……そう。残念ね」
その時、紬のスマホに着信があった。
画面には「奏汰」の名が表示されている。
「あ、お父さんからだわ」
紬はそう言うと、後部座席の妹たちを諭した。
「ほら、お父さんと電話するから、静かにしてて」
奏汰は種子島宇宙センターの職員であり、今日の打ち上げを管制棟から直接見守っている。
電話の内容は、間もなくカウントダウンが始まるという知らせだった。紬がそれを伝えると、妹たちは目を輝かせ、「外で見る!」と元気よく車を飛び出していった。
「あんまり遠くへ行っちゃダメよ!」
紬が二人の背中に声をかけてから、現に尋ねた。
「現は? 外で見ないの?」
現は一瞬迷ったが、まだ微かな眠気が残っており、車内の冷房の心地よさも捨てがたかったため、首を横に振った。
「いいよ。ここからでもよく見えるし」
「そう。じゃあ、母さんもここで見ようかな」
こうして、車内には二人だけが残った。
奏汰との電話を続ける紬の横顔を、現はじっと見つめた。すると、電話を終えた紬が怪訝そうに聞き返してきた。
「なによ。私の顔に何かついてる?」
「……いや、別に」現は視線を逸らしながら言った。「母さんももうおばさんだよな、って思っただけ」
「はあぁ!?」
紬はあからさまに機嫌を損ねた様子で、現の片方の頬を指先でつねり上げた。
「おばさんで悪かったわね! 仕方ないでしょ、もう四十歳なんだから!」
「い、痛い! 誰も悪いなんて言ってないだろ。ただの事実を言っただけじゃないか。……でも母さん、四十歳には全然見えないよ。まだ三十代前半で通用するから! 本当に!」
必死の弁明が通じたのか、紬はようやく現の頬を離してくれた。
それから紬はルームミラーで自分の顔を覗き込みながら、どこか名残惜しそうに呟いた。
「……もう四十歳か」
現は火照った頬をさすりながら、ふと思う。紬本人はそれなりにショックを受けているようだが、現は彼女が年を重ねていくその姿に、得体のしれない安堵感を覚えていた。
やがて、遠くの発射台から白煙が噴き出し、空気を震わせる重厚な轟音を発する。
ロケットが産声を上げた。
周囲の見物客たちの間で、嬉しそうな拍手と歓声が沸き起こる。
現はしばらくの間、吸い寄せられるようにロケットを目で追い続けた。
十七歳の誕生日、これ以上のプレゼントはないと思えるほど壮観な光景だった。
ロケットは白煙で巨大な放物線を描きながら蒼穹へと昇っていき、やがて車内からは見えない高さへと消えていった。
素敵だなと言おうとして隣を向くと、紬と目が合った。
彼女はすでに現の方を見ていた。
ロケットではなく、それを見上げる現の横顔を、ただじっと見つめていたようだった。
「現」
彼女は静かに言った。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
現は、少し照れくさく感じたけれど、すぐに深く頷き、精一杯の笑顔を返した。
二人は車を降り、人混みの中にいた妹たちを捜して合流した。
そして四人で並び、天高く昇っていく輝きをいつまでも、いつまでも見上げた。
もう一人の夢が、今、月へと向かっていた。
―完―




