13
一夜にして、これまでの人生のすべてを否定された。
いや、人生どころか、自分という存在の根源さえも。怒りを超え、底知れない虚しさが広がっていた。
ここが夢の中だという事実は、意外なほどすんなりと、淡々と受け入れられた。もしかしたら今朝、電車で奏汰に出会ったあの瞬間から、心のどこかでは覚悟していたのかもしれない。
あるいは、生まれた瞬間から、ずっとうすうすと気づいていたのではないかとさえ思えた。
否定する気力もなかった。
幻は、これからどうすべきかを考えながら歩いた。だが考えに没頭するあまり視線が下がり、地面を見つめて歩いていたその時。
反対側からやってきた誰かと、肩が強くぶつかった。
無視して通り過ぎようとしたが、「おい」という低い声とともに、重たい掌が幻の肩を掴んだ。幻は仕方なく足を止め、振り返る。
他校の男子生徒たちだった。
揃って坊主頭で、がっしりとした体格をしている。
それぞれ野球部のマークが入ったボストンバッグと、バットケースを抱えていた。
彼らの中で、幻の肩を掴んだ最も険悪な顔の部員が吐き捨てた。
「ちゃんと前見て歩けよ」
幻は謝って済ませようとしたが、ふと、考えを変えた。
「前を見ろって?」
幻は男を真っ直ぐに睨みつけた。
「そんなことして、何が変わるんだよ」
「……あ?」
「今、俺はな、お先真っ暗で何も見えないんだよ」
野球部員は肩から手を放すと、今度は幻の胸ぐらを鷲掴みにした。
「なんだこいつ。喧嘩売ってんのか」
幻は、今にも殴りかかってきそうな男の形相を見つめ、不敵にクスリと笑った。それどころか、背後に控える他の部員たちをも見渡して言い放った。
「お前らに教えてやろうか? 実はここ、現実じゃないんだよ。誰かの夢の中なんだ。……意味、わかるか?」
「…………」
呆然と立ち尽くす彼らに向かって、幻は淡々と説明を続けた。
「ここはな、俺の母さんが見ている夢の世界なんだ。俺たちは生身の人間なんかじゃない。ただの想像の産物に過ぎないんだよ」
すると、他の部員たちが慌てて駆け寄り、幻の胸ぐらを掴んでいた男を宥め始めた。
「行こうぜ」「関わるな、頭のおかしい奴だ」「無視しろ」――そんな囁きが幻の耳にも届く。
結局、男は忌々しげに手を離し、野球部員たちはそのまま引き返そうとした。
「どこへ行くんだよ、このタコどもが」
幻がその背中に向かって吐き捨てると、彼らの足が止まった。
今度は、宥めていた部員たちの表情にも険が走る。幻は挑発を続けた。
「冗談に聞こえるのか? 世界で俺一人しか知らない真実を、わざわざ教えてやってるっていうのに……」
言葉が終わるより早く、拳が飛んできた。
スイングのような重い一撃を食らい、幻は後ろに倒れ込む。
呻きながらよろよろと立ち上がると、手の甲で口元を拭った。べっとりと血がついている。
幻はそれをズボンで乱暴に拭き取ると、殴った男に向かって突進した。
揉み合いになり、すぐさま他の部員たちが割って入った。引き離されるまでの短い間に、顔面を何度も殴打される。
衝撃で視界が激しく揺れ、目の前に火花が散った。
痛い。ひどく痛かった。
けれど、その痛みがかえって安心をもたらした。
ひりひりとした熱さの中から、烈烈たる希望が湧き上がる。これほど生々しく痛みを感じるのなら、やはりここは現実なのではないか?
「もっと……もっと殴ってくれ!」
幻は制止する部員たちを必死に振り払い、再び男に詰め寄った。そして、藁をも掴む思いでその胸ぐらを掴み返す。
「やっぱり、ここは現実なんだろ? あいつの言ったことは全部嘘なんだろ? 電車で見た景色も、ただの幻覚だったんだよな!?」
「何言ってんだ、こいつ……」
「頼む、そうだと言ってくれよ! なあ!」
殴られた部位の痛みが、徐々に遠のいていく。
幻はさらなる痛みを求めて食らいつこうとしたが、相手は薄気味悪くなったのか、自ら幻を突き放した。
焦燥に駆られた幻は、周囲を見回して部員の一人が持っていたバットを奪い取った。彼がバットを狂ったように振り回すと、部員たちは悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように退いた。
瞬く間に、幻を中心に空白の円が描かれる。
バットが誰かに当たることはなかったが、もはや近づこうとする者はいなかった。
「もっと強く殴ってよ!」幻は絶叫した。「生きている感覚が欲しいんだ……拳じゃ足りない、そのバットで俺を叩き潰してくれ!」
野球部員たちが呆気に取られ、遠巻きに幻を見つめている中、鋭いホイッスルの音が響いた。
振り返ると、一人の警官が自転車でこちらへ急行してくるのが見えた。
その制服を目にした瞬間、幻の体から一気に力が抜けた。いくら夢だと疑っていても、公権力に向かって凶器を振るう勇気はなかった。
腕の力が失せ、バットの先がアスファルトを打つ鈍い音が響く。
幻はそのまま獲物を捨て、大人しく連行された。
交番の椅子に座り、ぼんやりと虚空を見つめていると、ほどなくして紬が到着した。
紬は中に入るなり、幻の姿を見て絶句する。彼女はしばらく無言で息子を凝視していたが、やがて警官との話し合いを始めた。
幻の席からは距離があり、声も低かったため、詳しい会話の内容までは聞き取れない。
警官は腕を組んだまま説明を続け、時折、幻の方を冷ややかな目で見やった。紬はその合間に、警官や被害者である野球部員たちに向かって、何度も、何度も深く頭を下げて謝罪を繰り返していた。
十分ほど経ち、ようやく話し合いが終わったようだった。警官は紬に何度か頷くと、幻には一言も掛けずに自分の席へと戻っていった。
紬が幻のそばに歩み寄る。彼女は立ったまま幻を見下ろし、抑えた声で告げた。
「……帰るよ」
家に帰り着くと、幻はそのまま自室に逃げ込もうとしたが、紬に呼び止められた。
二人は食卓を挟んで向かい合った。
幻は机の一点を見つめて動かず、紬は彼の切れた唇に黙々と軟膏を塗っていく。その間、会話は一切なかった。
重苦しい沈黙だけが、二人の間に横たわる。
手当てを終え、救急箱の蓋を閉めてから、紬がようやく口を開いた。
「……どうして、あんなことしたの?」
幻はうつろな声で答えた。「肩がぶつかったから」
「たかがそれだけの理由で、あそこまでしたの?」
「……ああ」
「嘘。本当のことを言って」紬の声に鋭い力が籠る。「さっき学校からも連絡があったわ。無断で早退したって。今日、何があったの? ねえ、幻。母さんに話して」
「今日、何が、あったか……」
幻は校庭に響いた乾いた銃声や、あの電車の窓の外に広がっていた虚無を思い出し、紬に問いかけた。
「……ところでさ、交番ではどうやって話をつけたの? お金でも払った?」
「何言ってるの。ただ謝って、家でちゃんと叱るからって約束して済ませたのよ」
「謝った?」幻は思わず自嘲気味に笑った。「それだけで、許してくれたのか」
紬は微かに頷いた。「だって、幻はまだ高校生だから……」
「それにしてもおかしいと思わないか? 俺はただ喧嘩をしただけじゃない、凶器まで振り回したんだ。一歩間違えれば、誰かを殺していたかもしれない犯罪者なんだよ。それなのに少年院どころか、何の処分もなしに帰されるなんて。触法少年に当たる年齢でもないのに、どうしてそんなに簡単に許されたわけ?」
「さあ……母さん、法律のことなんてよく分からないから……」
「ああ、そうか」
幻は深く頷いた。
「母さんが法律を知らないから、俺は何事もなかったかのように無事に帰れたんだな」
「どういう意味?」紬が怪訝そうに眉をひそめた。「何が言いたいの?」
「母さんさ」
幻は本題を切り出した。
「なんで、そんなに若いの?」




