12
あきれて乾いた笑いが漏れる。
「俺、生まれてから一ヶ月しか経ってないのか」
「現実の尺度で測ればね。でも、この夢の中では一分一秒の捏造もなく、君は十七年間を確かに生きてきた。紬と一緒にね。俺もたまに遠くから、君が成長していく姿を見ていたから……これだけは確かだ」
幻は少しだけ安堵したが、再び窓の外に広がる異常な光景を見て、それが何の気休めになるのかと自嘲した。不幸中の幸いと呼ぶには、あまりにも絶望が深すぎた。
「学校でも言ったけど、」
奏汰は言葉を重ねた。
「現実の紬は今、昏睡状態で酸素マスクをつけていて、日に日に衰弱している。見るに堪えないほど痩せ細っているんだ。これほどの規模とクオリティの明晰夢を維持するだけでも、膨大なエネルギーを消費するからね」
「……」
「その上、時間の流れまで大幅に操作した。一ヶ月という期間を無理やり十七年に延ばしたんだから、現実の二百倍以上の速度で脳をフル回転させている計算になる。コンピュータならとっくにオーバーヒートして、焼き切れているレベルだよ。それほどの酷使に、身体が耐えられるはずがない」
幻は、母がなぜそこまでして時間を引き延ばしたのかを問おうとしたが、すぐに止めた。本人以外の誰かに訊いても意味はないし、何より訊きたいことが山積みすぎて、逆に思考が停止してしまった。
「案の定、」奏汰の声が続く。「紬ももう限界が来たみたいだ。この数日で、夢の中の速度が目に見えて落ち始めている。もはや現実とほぼ変わらないほどにね。速度だけじゃない。視覚的な欠陥……エラーも増え始めている。今、窓の外に広がっているこの光景も、その一つだよ」
「エラー、か」
もはや笑うこともできなかった。
寒くもないのに、顎がガタガタと震え出す。
これ以上は何も聞きたくなかったが、奏汰の告白は止まらない。
「これから先、あらゆる場所で歪みが生じるだろうと思う。この夢は今、急速に崩壊しつつある。紬の身体は今、死にかけているんだ。このままだと本当に……」
「わかった。……もういい」
幻はたまらず片手を上げて、彼を制止した。
「少し黙っててくれ。……今、吐きそうだから」
「……ああ、悪い」
奏汰はそれ以上、何も言わなかった。
幻はしばらく蹲ったまま、思考の迷路に迷い込んだ。
考えというよりは、走馬灯のような記憶の断片が、脈絡もなく頭の中を駆け巡っていく。
ふと視線を上げると、窓の外の風景はいつの間にか「正常」に戻っていた。だが今度は、電車の方が正常ではなかった。
車両が、幻が最初に乗ったはずの駅に停車していた。
路線を一周したわけでもなく、乗り換えたわけでもない。これは、物理的にあり得ないと言える。
奏汰の言う「エラー」の仕業に違いない。
だが、幻は先ほどのように怯えることはなかった。ただ、酷い眩暈に襲われるだけだった。
「……降りる」
停車し、ドアが開くと同時に、幻は外へと飛び出した。そのままトイレを探して走ったが、耐えきれず途中の茂みで吐き戻した。
後から追ってきた奏汰が、無言で背中をさすってくれる。
幻は腰をかがめたまま、凄絶な呻きとともに嘔吐を繰り返した。
ようやく落ち着いた頃、奏汰がティッシュを数枚重ねて差し出した。幻はそれを受け取って口を拭い、荒い息を整えた。
胃の中身どころか、血管の血まで根こそぎ抜き取られたような空虚感。
手足が痺れ、内臓を絞り出すような腹痛が残ったが、それもすぐに薄れていった。
幻は嘔吐した際にこぼれた僅かな涙を無造作に拭うと、重い足取りで歩き始めた。自分が汚した場所が気にならなかったわけではないが、どうせここは夢なのだと思うと、後片付けをする気も、申し訳なさを感じる心も、どこかへ霧散してしまった。
「……君には、酷な話かもしれないけれど」
奏汰が後ろからついてきながら言った。
「ここが夢の世界だってこと、もう信じてくれるようになったよね?」
「ああ。おかげさまで」幻は感情の失せた視線を投げかけた。「これで満足か?」
奏汰の顔に一瞬だけ申し訳なさが浮かんだが、すぐに消えた。
「幻。君にお願いがあるんだ」
彼は幻の目を真っ直ぐに見据え、言葉を継いだ。
「君が紬を……君の母さんを、夢から目覚めさせてほしい。頼む」
幻は「今すぐ目の前から消えてくれ」という衝動を必死に抑え込み、短く尋ねた。
「……どうすればいいんだよ」
「方法は二つある」
奏汰は説明した。
「一つ目は、本人の意志で目覚める方法だ。眠りに落ちた位置に戻り、現実の自分と同じ姿勢を取って、意識を『外』に向ければいい。ただ、これは本人がここを夢だと自覚していることが前提だ。だから、まずは紬に正気を取り戻させる必要がある」
彼はそこで言葉を切り、沈黙した。幻は学校で聞いた話を思い出し、何が続くか察しがついた。
言葉に詰まっている奏汰を促すように、「二つ目は?」と先を促すと、彼は重い口を開いた。
「二つ目は強制的に起こす方法……つまり、夢の中で殺せばいい。もちろんこれは無理だから、一つ目の方法で行くしかない」
「つまり、母さんにここが自分の夢だと認めさせればいいんだな」
「そうだ。認めた後に、現実に戻るよう説得もしなければならないだろうけど」
「それで、母さんが目覚めた後は? ……俺はどうなるの?消えるのか?」
「いや、それはないと思う」
奏汰は確信に満ちた口調で言った。
「君がまだ赤ん坊だった頃の話だけど、君を一人残して、俺たちが一度夢から出たことがあったんだ。翌日、また戻ってみたら、君はちゃんとそのまま残っていたよ。だから、多分大丈夫だ」
「この世界は? そのまま続くのか?」
「同じように維持されていた。だから、紬が出た後もきっと消えはしないはずだよ。今ほど精巧ではなくなるかもしれないけど……たぶんね」
「たぶん、ばっかりだな」
「……ごめん。その先のことは、正直俺にも分からないんだ」
幻は溜息を吐くと、話を続けた。
「いつまでに目覚めさせなきゃいけないんだ?」
「一刻を争う状況ではある。けれど、今日中にとは言わない。ただ、早ければ早いほどいいんだ。何度も言うけど、紬の身体はもう限界なんだよ」
「……とりあえず、わかった」
話しながら歩いているうちに、駅の出口まで来ていた。
幻は改札に戻ろうとしたが、思い止まった。あの『エラー』に満ちた箱に、再び乗る勇気が湧かなかった。
「帰る」
幻はそう言い捨てて、出口へ向かってとぼとぼと歩き出した。
「え、歩いて帰るのか? ここ、まだ学校の近くだけど」奏汰が驚いて尋ねた。
「ああ。歩いて帰る」
「電車が嫌ならタクシーを呼ぼうか?」
「いいって」幻は苛立ちを隠さずに遮った。「とにかく、今日はもうここまでにしてくれ」
「……わかった」
奏汰はそれ以上、ついては来なかった。
幻は一人で出口の階段を上がった。背後から、奏汰の「お気をつけて」という声が微かに響いた。




