24、空読み姫は歌う 後編
「よし、直ぐにやろう」
心は決まっていた。
ラヴェンテリの命より大事な物なんて、僕にはない。
ヌルミ殿の色違いの瞳を見つめてしっかりと頷く。
ラヴェンテリが助かる道があるのなら、僕は迷わずその道を行く。たとえ、それが人ひとり通れるかわからないほどのがけっぷちの道でも、その先に僕を食べようと待ち構えている魔物がいようとも。
「では、こちらへ」
想いが伝わったのか、ヌルミ殿も大きく頷き返してくれた。
昏々と眠るラヴェンテリの側を離れて、二人で部屋の隅にあるテーブルセットへ移動するとヌルミ殿がカバンの中の書類を探り、一枚抜き出した。
「こちらが、空読み姫との契約終了の書類です。本来ならば、双方の同意を得てからサインするのですが、私が見届け人の欄にサインすれば領主ひとりでも効力はありますので」
ヌルミ殿が淡々と書類の内容を説明してくれる。
「旦那さまっ!?」
「アニタ、大丈夫だから、君はラヴェンテリの側にいて」
「旦那様は、奥様のこと捨てたりしないですよね?」
「まさか! ありえないよ」
真っ青な顔のアニタが飛んできたが、僕がいつも通りの笑顔で話せば不安はぬぐい切れなかったようだけど、小さく頷いてベッドの脇へ移動した。
四角い古びた木のテーブルの上に置かれた白い紙には、ラヴェンテリと契約したときの紙と同じ文様が浮かび上がっている。僕は、この文様をはっきりと覚えている。あの時は、これからずっと空読み姫に縛られるのか、とむなしい気持ちで名前を書いたのに、今は彼女と離れたくないと思いながらサインをしている。
一生書くことはないと思っていたラヴェンテリとの契約終了の書類。さすがに、ペンを持つ手が震えた。
「これでいい?」
「はい。ではこのまま私との契約をしましょう。地図は…ええい、急ぎだ、領主殿、自分の領地の地図くらい正確に頭に思い描けますよね? それでいきますよ」
え、それでできるの?
いくらか不安になりながらも、この6年ずっとラヴェンテリと回ってきた領地をくまなく思い浮かべる。
ヌルミ殿と両手を繋いで契約の言葉を述べた途端、淡い光が僕たちを包んだ。ラヴェンテリと契約したときはもっと大きくて明るい光の柱が僕らの周りに立ち上ったのだけど、この頼りない感じで大丈夫なのかな?
「とりあえず、これで何とかなるだろう」
少し焦ったような声でつぶやいたヌルミ殿は、つかつかとベッドの側へ行くと、スッと姿勢を整え一呼吸いれた。
……ああ、ラヴェンテリも歌う前、そうやって歌う準備をしていたな。
僕も静かにラヴェンテリの側へ行ってそっと彼女の手を握った。
……冷たい。いつもなら温かくて柔らかくて、こうやって手を繋ぐと最初の頃は動揺が激しくて、だんだん慣れてきたら嬉しそうで、どのラヴェンテリも可愛かった。
少しでも僕の体温を分けられないかと、彼女の左手を両手でぎゅっと握りしめて願う。
——ラヴェンテリ、お願いだから僕のところへ戻ってきて。その色違いの綺麗な瞳でもう一度僕を見て笑って。
こぼれそうになる涙を抑え、ラヴェンテリのものとは違う声で紡がれる調べへ、じっと耳を澄ます。ベッドの反対側では、医者がラヴェンテリの脈を測っており、その隣ではヌルミ殿が何をするのか悟ったアニタが、自分の両手を握りしめて祈っていた。
空読み姫が歌う同じ旋律のはずなのに、歌い手が違うとこんなに雰囲気が変わるんだ。
ラヴェンテリは爽やかな初夏の風のようだったけど、ヌルミ殿は真冬のような鋭く厳しく激しい歌い方だった。
ラヴェンテリ、僕は君の歌が大好きだよ。でも、もう二度と聞けなくてもいいから、生きていて欲しいんだ。
「脈が強くなってきました!」
1時間ほど歌い続けただろうか、手首を握っていた医者が叫んだ。全員でラヴェンテリの顔を覗き込む。
頬に赤みが戻ってきたけれど、まだ目は開かなかった。
「よし、この調子で何とか回復させよう。ラヴェンテリの奇跡には遠く及ばないが、私の歌の回復力も悪くないはずだ」
水でのどを潤したヌルミ殿が僕たちを安心させるような声音で言い切った。
僕の一番大事な愛する人なのに、こんな時に自分では何もできないなんて。
悔しくて情けなくてラヴェンテリに申し訳なくて、再び歌い始めたヌルミ殿の力強い声を聞きながら涙があふれてきた。そして、ぽつんとラヴェンテリの血の気のない頬に落ちた。
その途端。
ぱあっと光が散ってラヴェンテリの目がうっすらと開いた。
■■
「ラヴェンテリ!」
聞きたかった低くて優しい声が聞こえる。
ふっと目を開けると暗めの金色と紫紺が視界に入った。
私の大好きな、エリアスの色だわ。
身体は重くて指一本動かせず、のども激しく痛んで声も出せなかったけど、エリアスがそこにいてくれるだけで私のすべてが報われた。
――無事でよかった。
「君が目を開けてくれてよかった」
安堵に満ちたその声で、私の目から涙がひとつぶこぼれ落ちた。
――エリアスが、好き。愛してる。
声なき声の告白が届いたのか、彼は涙の溜まった目で柔らかく微笑み、ぎゅううっと抱きしめてくれた。
それからひと月程経って、私が少し話せるようになった頃、エリアスとヌルミが神妙な様子で私の枕元にやってきた。
いつもと違う二人の様子になんだか嫌な予感がした私は、先回りして一番怖い想像をぶつけた。
「二人とも真面目な顔をしてどうしたの? もしかして、ヌルミが私の代わりにクックラの空読み姫になるとか?」
「あ、気づいてた? よかった。そうなんだよ、今はヌルミ殿がうちの空読み姫で、君は……」
ホッとしたように早口で話し出したエリアスの言葉で、頭の先からスーッと血の気が引いた。
目覚めて想いが通じあってから、エリアスとそういう話はしていないけれど、私は彼に愛されているという自覚があった。
だって、私を見る目が以前の倍は優しいし、声が出なくてもアニタより私の言いたいことが伝わって、とにかく私に触れたがるのだ。
だから、私がクックラの空読み姫でなくなる日がくるなんて、冗談でも思ったことはなかった。
でも、現在、空読み姫として全く働けていないことは気になっていて……。だから、本当はこの場でクックラの空読み姫はずっと君だよ、と言われて安心したかったのに。
……しかも、エリアスはなんて言った? 『今は』? もしかして、既に私はクックラの空読み姫じゃなくなってるの?
そういえば私が動けないから、エリアスは領主館とここキヴィの町を行ったり来たりしていて、時折見学だと言ってヌルミもついて行っていたけれども! まさか、歌いにいっていたの?
身ぐるみはがされた気分になって、慌ててクックラのこれから1週間の天候の予測をしてみる。
……なんにも、わからない。……全く何もわからなかった。
その瞬間、エリアスが独断で私を解雇したのだということに思い至って、とんでもなく衝撃を受けた。
私、エリアスから捨てられたの? 空読み姫は替えがいるから、歌えない私はもういらないってこと? ……じゃあ、どうして優しいの? 私の回復を待つという選択肢はなかったの?
あまりの衝撃に、私の顔は真っ青を超えて真っ白になったんだと思う。
「ラヴェンテリ!?」
「奥様っ、しっかりなさってください! ここで終わりじゃないんです、聞いてください!」
「ラヴェンテリ、早とちりするな。君は離婚していない」
エリアスが悲鳴を上げ、部屋の端に控えていたアニタが飛んできて私を揺さぶり、ヌルミが核心をついた。
「えええっ!? 離婚してないのっ!?」
気を失いかけた私はガバッと起き上がり、たかったけれど、まだ動けないのでカッと目を見開くことでその気持ちを表現してみた。
ええ? 私とエリアスは離婚してないけど、ヌルミがクックラの空読み姫になっちゃってるの!?
「そうだ、『空読み姫の婚姻の自由』があるだろう? そうでなければこんなことはしない。というわけで、ラヴェンテリは今でも領主殿の妻だから、安心しろ。君が元気になるまで、私がクックラの空読み姫代行をしていると思ってくれれば」
……空読み姫の代行。そんな制度、なかったけど。
確かに空読み姫が歌えなくなれば、ささやかとはいえ領地の人々の回復ができなくなる、と考えてふと思い当たった。
もしかして、ヌルミの歌で私は救われたのでは? それなら、エリアスが私との契約終了を受け入れたことにも合点がいく。
「……そうなのね。わかったわ。私が歌えるようになるまで、クックラをよろしくね、ヌルミ」
「ああ、任された。だからラヴェンテリは、心穏やかにゆっくり休んでくれ」
「いいえ、私は空読み姫なのよ。なるべく早く歌えるようになるよう頑張るわ!」
「それは困る。もうあとせめてひと月、できたら1年くらい静養しててくれていいんだぞ」
「そこまではちょっと。ん? ヌルミ、貴方、空読み姫の地位を使って何かしているの?」
「……家畜と薬草以外にもあれこれ歌って試してみたいんだ」
「……私の大事なクックラを実験台にしないで頂戴!」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ヌルミは毎日ラヴェンテリのために歌っていたと思います。




