5-7 神殿の闇
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神殿全体が人知を超えた何かに包まれ、魔力の奔流が渦巻く。この世とは思えない不思議な空気が侵食してくる。
祭壇の最奥に鎮座する神殿長、そしてそれを取り囲む神官たちが、朗々と祝詞を唱え始める。すると、彼らの体から「何か」が吸われている感覚に陥る。
ただならぬ気配に、ナックモルの背筋に戦慄が走った。自分たちを含め、ここにいる全員が供物として捧げられているのだと、本能が警鐘を鳴らす。彼は拘束されたまま、必死に隠し持っていた短刀を動かし、手首を縛るロープへと刃を立てた。
(これは、神事などではない……悪魔召喚の魔術儀式だ! 止めなければ、この場にいる全員が喰い尽くされるッ!!)
焦燥が、焦げ付くような痛みとなって胸を焼く。
「救世主様……」
傍らで膝をつく鼠人族の少女、テッタが虚ろな眼差しで天を仰ぎ、ぽつりと呟いた。その紅の双眸は、かつて路地裏で出会った一人の女性……彼女が体現してくれた、救いの御伽噺。テッタはただ、その再来を祈るように震えていた。
無情にも、大気に漂う膨大な魔力は渦を巻き、魔法陣の中心へと収束していく。ナックモルの表情は絶望に染まったが、その瞳の奥にはまだ消えぬ闘志が宿っていた。彼は決死の覚悟で、ようやく切り裂いた縄を放り投げると、玉砕覚悟で神殿長に切りかかる。
「うおおおおおっ!!」
刃が狂信の笑みを浮かべる神殿長の喉元へ届こうとした、その時だった。
「曲者っ!!」
「がっ!!! ……くそっ!」
横合から躍り出た複数の神殿僧兵が、重厚な薙刀を振るって彼の突撃を阻んだ。石突きがナックモルの腹部を容赦なく打ち据え、そのまま無慈悲に地面へと叩き伏せる。鈍い衝撃と共に、鋭利な刃が彼の胴を貫いた。成すすべも無く、地面に縫い付けられていた。
「おやおや……いけませんねぇ、儀式の邪魔をするとは……」
神殿長がゆっくりと歩み寄り、這いつくばるナックモルを見下ろした。その瞳は、もはや人間のそれではない。縦に割れた瞳孔、冷徹な光を宿す虹彩。それは紛れもなく、獲物を定める冷酷な爬虫類の目であった。
「不愉快ですね……。慈悲を与える価値もありません。その邪魔者は消しなさい」
吐き捨てられるような言葉。ナックモルは苦痛に顔を歪めながらも、神殿長の顔を凝視し、戦慄を露わにした。
「……その目はっ!」
命令を受けた僧兵が、床に突き立てていた薙刀を引き抜き、逆手に持ち替える。ナックモルの命の灯火を、確実に、そして速やかに断ち切るために。
(くっ、ここまでかっ……)
振り上げられた鋼の切っ先を視界の端に捉えながら、ナックモルは悔恨と共に、重く冷たい闇が降りてくるのを感じていた。
……その時だった。天窓から差し込む青白い月光に混じり、一筋の閃光が舞い降りた。
月光が剣線となって大気を切り裂き、きらめいたかと思うと、ナックモルに迫っていた僧兵の腕が、槍を握ったまま宙に舞った。切断面から血が噴き出す暇さえ与えぬ神速。それと同時に、ナックモルの左右へと音もなく二つの黒い影が降り立つ。
獲物を逃がした神殿長がゆっくりと侵入者の方へ向き直った。
「これはこれは……侵入者ですか。どこで嗅ぎつけられたものか……」
腕を切り飛ばされたはずの僧兵は、痛みを感じる素振りすら見せず、残った腕を伸ばしてルディアとヴァルターに掴みかかろうとする。だが、その動作はあまりに緩慢だった。二人は迫る残りの手足をいとも容易く両断する。さらに重い蹴りを見舞って僧兵を後方へと吹き飛ばした。
吹き飛ばされた僧兵の傷口は煙を上げながら蠢いているようだった。
「ちっ……嫌な気配がすると思ったら……幽鬼もどきか」
「ここまでよ」
ヴァルターが忌々しげに吐き捨て、ルディアが冷徹に宣告する。
神殿長は一瞬だけ意外そうに眉を跳ね上げ、周囲の状況を確認するように視線を巡らせたが、すぐにその口角を歪な形に吊り上げた。
「……たった二人とは……鼠どもを駆除しなさい。やりなさいっ!」
神殿長の号令と共に、残った十人ほどの僧兵が二人に次々に襲い掛かる。彼らは常人を凌駕する運動能力と巨躯を誇っていたが、手練れの二人の目から見ると「洗練された動き」には感じられなかった。
ヴァルターとルディアは、荒れ狂う嵐のように僧兵の群れの中を駆け抜けた。迫りくる腕を斬り飛ばし、返す刀でその足を切断し、流れるような一連の動作で首を撥ねていく。彼らが一歩踏み出すたびに手足が宙を舞い、血飛沫が石床を汚す。
剣旋の嵐が止んだとき、立っているのは二人の侵入者と、一人取り残された神殿長だけだった。
「え? な、なにが??」
神殿長が呆然と呟いた瞬間、その首が刎ね飛ばされた……かに見えた。
だが、彼は反射的に上げた両腕で、強烈な剣閃をかろうじて受け止める。凄まじい衝撃に石畳が砕け、神殿長は後方の壁まで激しく吹き飛んでいった。
「固い!?」
「腕で防いだ?」
二人が追撃の手を緩め、不可解な現象に警戒する中、神殿長は痛みに耐えかねたように頭を抱え、絶叫した。その傷口からはどす黒い煙が噴き出し、肉がのたうち回り驚異的な速さで再生してゆく。
「い、いたい、いたい、イタイ!!! イタィイィぃ!!!」
「……傷が治る?」
「不思議ね、無理やり魔力が集まっている様に見えるわ」
「くそっ!!邪魔をするな虫けらが!!!」
神殿長が全身から禍々しい魔力の波動を放ち、二人を弾き飛ばすように距離を取る。直後、その体が異様に膨れ上がり始めた。変貌を察知した二人は、即座に身を引いて間合いを取る。
「何が起きているんだ?」
「……魔力の高まりが異常よ。幽世と繋がっているわね。まるで、聖従士みたい……」
「どす黒い渦に呑み込まれていくな。……怨霊なのか、これ?」
神殿長の膨張は止まらない。皮膚は硬質な鱗に覆われた爬虫類のものへと変質し、骨格が軋みながら首が蛇のように長く伸びていく。体躯は元の三倍ほどにまで巨大化し、四肢を備えた禍々しい岩蜥蜴のような異形へと姿を変えた。
「はっはっはっ!! あんな聖騎士のなりそこないと一緒にするな!」
その光景に、ルディアたちだけではなく、場にいた奴隷や浮浪者、そして真実を知らされていなかった下級僧侶までもが、恐怖に顔を強張らせた。腰を抜かして震える者、震える手で神に祈りを捧げる者……神殿内は混乱の極みに達する。
「ねぇ! 聖教王国の神官はみんな化け物に変われるの?」
「いや、初耳だな。正直、俺もついていけない……」
神殿長だった「モノ」は、トカゲとヒキガエルを掛け合わせたような醜悪な相を歪め、憤怒を露わにする。
「化け物だと!! この高貴な姿に対してなんてことを!! 神話に伝わる、由緒正しき竜の化身の姿だ!!」
その言葉を聞いたルディアは、思わず自身の腕を見つめた後、困惑の色を隠せずヴァルターを仰ぎ見た。
「……ねぇ、私もあんなに醜くなるの?」
「あ、いや……あそこまでヒキガエル顔じゃないな……」
てっきり自分を恐れ、畏怖の念を持って跪くと思っていた神殿長は、二人の緊張感のないやり取りに激高した。
「ひ、ヒキガエルだとぉおおお!?」
ルディアもまた、どこか遠い目をしてヴァルターを見つめ返す。
「……私も似たようなものなの?」
返答に窮したヴァルターは、強引に意識を切り替えるように剣を構え直した。
「それじゃ、足止めする。後は任せる」
「あっ! ちょっと!」
ヴァルターの返事を聞けなかったルディアは一瞬不貞腐れるが、すぐさま弓を構え、退魔術の準備を始めた。




