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第9話 初めての訪問

この日も、通常の練習が終わったあとも、道場に残る者がいた。


的前では、弦音が途切れない。花音と二年生、それに一年のつぐみ。

一本、また一本と響いていく。


一方で、まだ的の前に立てない一年生はコーチから「焦っても仕方ないから帰るように」と言われているが、栞代は動かなかった。

「また残るか。遊ぶなら今やけどなあ」

コーチはわざとらしく溜め息を洩らしながらも「力あるから腕に頼りがちや。背中を使うイメージで。あと、バスケの癖かな。重心が前になる時あるから。そこ注意して」と付け加えた。


そしてコーチの目は一瞬杏子に流れ、栞代に戻った。良く見ろ。そう言われた気がした。


斜め前で徒手練習を繰り返す杏子の背中をじっと見つめた。

足を開き、ゆっくりと両腕を上げていく。息をするように自然で、一片の無駄もなく流れるような軌跡。頭で考えながら手足を動かしている自分とは、根本的に違う。


栞代は杏子の動きを脳裏に焼き付け、同じように自分の腕を上げてみた。

だが、鏡の自分は、力みが残り、杏子の根が生えていない。

どうしたら、ああなれるんだ?

栞代は、もう一度、そしてもう一度、何度も何度も構え直した。

どうしても、ああなりたい。


「栞代、がんばるね」

汗を拭きながら、杏子の声が届く。

「体力的には問題ないんだけどな」

そう返すと、杏子は言った。

「バスケだと、まだシュートのための練習ってところだね。バスケは全然分からないけど、きっと基礎が大事なのは同じだよね」

退屈に思えるが、頑張ろう。そう言いたいようだな。大丈夫だよ、杏子。なにより、すごい手本を見たんだから。



「ね、今日うちに遊びに来ない?」

杏子は、真っ直ぐに栞代に視線を合わせた。

い、いや、それ、絶対に断れなくなるやつだから。栞代は戸惑いながらも、

「えっ、いいのか?」


「うん。、いつでも連れておいでって。早いほうがいいんでしょ?」

「行く行く!」

「栞代の家は大丈夫?」

「ああ、うちは完全な放任だから大丈夫」


そうと決まれば。

二人で花音部長に挨拶すると、驚かれた。いつもは最後まで残るからだ。杏子の家に行くと伝えると、「おばあちゃんによろしく」と柔らかく微笑まれた。

その後、挨拶をしたみんなが口を揃えて「おばあちゃんによろしく」と言ってきた。

無理もない。あの常識外れの杏子を育てた人がどんな人なのか、みんな気になってる。挙句の果てには、道場を出る時すれ違ったコーチにまで「おばあさんによろしく」と言われ、栞代は思わず笑ってしまった。


「ただいま~」

聞いたことがない元気な声を出して、杏子が玄関を開けた。

「杏子ちゃん、お帰り」

柔らかい笑顔とともに現れた祖母を見て、栞代は思わず息を呑んで動きを止めた。まるで杏子がそのまま年を重ねたような——面影や、ふんわりとした杏子が纏っている空気感まで同じだったからだ。

栞代は、杏子の未来を垣間見たような、不思議な温かみを感じた。


「栞代、連れてきたよ」

杏子がにこっと笑って紹介すると、栞代が少し緊張しながら一礼した。

「はじめまして、栞代です。おじゃまします」

「いらっしゃい、栞代ちゃん。散らかってるけど、ゆっくりしてね」

温かく包み込むような声に、栞代の緊張もほぐれていく。この家そのものが、優しく迎え入れてくれるようだった。


「じゃあ、杏子ちゃんは着替えておいで」

「うん。栞代、ここで座ってちょっと待っててね。おじいちゃんも呼んでくるから」


杏子は玄関を入って横にあるダイニングキッチンの大きなテーブルに栞代を案内し、自分は二階へ向った。


祖母はお茶を淹れ、栞代の前に置き、対面の椅子に座った。


「栞代ちゃん、でいいのかな?」

「はい。嬉しいです」

「じゃあ……栞代ちゃん。杏子は、部活で迷惑かけてないかしら?」


祖母の優しい目が、愛情と少しの心配を込めて栞代を見つめてくる。

「いや、おばあさん、迷惑なんてとんでもないです。もう本当に杏子さんの弓を引く姿が美しくて、みんな感動してるんですよ」


栞代が胸を張って答えると、祖母は首を傾げた。

「え? もう弓を引いてるの?」


――あっ、しまった。栞代の背中に冷たい汗が伝う。おばあちゃんに無用な心配をかけまいと、杏子はあの一触即発の出来事を内緒にしていたのだ。


「……様子が少し違うから、何かあったのかな、とは思ってたんだけど。すぐに元通りにはなったから」

祖母の穏やかだが深い視線に見つめられると、栞代はどうにも誤魔化しようがなかった。観念して口を開く。

「えっと……もう今は大丈夫なんですけど」

そう前置きをしてから、栞代は入部当時の出来事、杏子の言った目標のこと――三年生に囲まれたこと、そしてその緊迫した空気の中で見事に的を射抜いたことを、話した。

「でも! 今は部活の雰囲気もすごく良くなって、みんなで一生懸命頑張ってますから!心配は要らないですっ!」

栞代が少し脚色して付け加えると、祖母は、ふうっと息をこぼした。


「そう……そんなことがあったの。なんだか、恥ずかしいわ」

「いや、そんな。みんな、杏子さんを育てたおばあさんがどんな凄い人なのか、興味津々ですよ」

「全然凄くなくて、驚いた?」

「いや、杏子さんと瓜二つなんで、そっちに驚きました」

二人は顔を見合わせて、ふふっと軽く声を上げて笑った。


「今の話、おじいちゃんには内緒にしてもらえる?」

ゆっくりとお茶を飲む時間を置いて、杏子と同じ目に見つめられながら、栞代は同じ声を聞いた。

「おじいちゃんは、自分のことはまるっきり意気地無しなんだけど、杏子のことになると、まるで人が変わったみたいに熱くなるのよ」


祖母は「まったく困った人なの」と言わんばかりに小さくため息をついたが、その目尻は優しく下がっていた。

孫を溺愛してやまない姿に呆れつつも、そんな不器用な愛情を丸ごと受け入れ、愛おしく見守っているのだろう。その表情には、長年連れ添った夫婦が持つ深く温かい空気が滲み出ていた。


その柔らかい笑顔を見つめているうちに、栞代は先ほどの自分の失言を思い出し、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「わかりました。杏子さんはたぶん、おばあさんに知られたくなかったと思います。失敗しました」

栞代は率直に伝えた。

「いいえ、聞いて良かったわ。教えてくれてありがとう」皺の刻まれた目尻が、さらに優しく下がる。その穏やかな響きに、栞代の胸のつかえが溶けていった。


祖母の温かい言葉に、栞代は心から安心するのを感じた。

杏子がどれだけこの人に愛され、支えられてきたのか。表情一つでそれが伝わってくる。そして、杏子が持っている優しさや強さの源がここにあると肌で感じ、栞代の胸にも温かなものが広がった。


そこへ、軽快な声がやってきた。


「お~、ぱみゅ子~、早速連れてきたんだな! じゃあ、うまい紅茶を入れてやらんとな~」

ラフな部屋着に着替えた杏子が、祖父を連れて戻ってきた。栞代はすかさず立ち上がって挨拶をする。

「あ、初めまして。おじゃましています、栞代です」

「お~、栞代さんか~。ぱみゅ子から聞いてるよ~。仲良くしてくれて、ありがとな。今日はお礼に特別うまい紅茶を淹れてやるから、楽しみにしててくれ」

それだけ言ったかと思うと、くるりと背を向けて、用意をはじめた。


……え? ぱみゅ子?


栞代が内心首を傾けていると、杏子は、眉尻を下げて、曖昧に口元を緩めながら話しかけてきた。

「栞代、お待たせ。おばあちゃんと話せた?」

「ああ、あんまり杏子にそっくりなんで驚いたよ」

「ふふっ。ありがと」

杏子は嬉しそうに笑った。

「杏子さんをこれだけ育てたおばあさんですから、やっぱり弓の経験者、なんですよね?」

栞代が改めて祖母に尋ねると、横から杏子が、誇らしげに胸を張った。

「ふふふ。わたし、自己紹介の時に金メダルプレゼントしたいって言ったでしょ? あれはね、おばあちゃんが銀メダルを持ってるからなんだよ」

「え~~っ、そうなのか!なるほど、そういうことか!なんか、全部話が繋がったわ!」


栞代の驚きに、杏子が照れくさそうに笑う。

「もう絶対にプレゼントしたいんだ」

「うん、オレもめっちゃ頑張るよ。団体戦だもんな」

「一緒に頑張ろっ」

杏子の目が輝いている。


そこに、香り豊かな紅茶のいい香りが漂ってきた。

「はい、紅茶を淹れたぞ~。まだ栞代さんの好みがわからないから、今日は一般的なダージリンにしてみたけど、好みがあれば遠慮せずに言ってくださいよ。ぱみゅ子は鍛えてるから、なんでも飲めるぞ。ま、わしの紅茶がどの種類でも美味いからだけどなっ。がははは」」

「あ、ありがとうございます」


差し出されたカップを口に運び、一口飲んだ瞬間、栞代は感嘆の声を上げた。

「うわっ、本当に美味しいです、おじいさんそれにいい香り!」

「そうじゃろ、そうじゃろ。こんなうまい紅茶、なかなか飲めんぞ。普通の喫茶店とはレベルが違うからな。紅茶専門店にずっと通って教えてもらったからな!」

「栞代、無理しなくていいのよ」

子は申し訳なさそうな声を出したが、その表情は『うちのおじいちゃん、すごいでしょ』と言わんばかりに自信に溢れていた。


そんな杏子に、栞代は正直に伝える。

「いや、杏子、これは本当に美味い」


嬉しそうな栞代を見て、祖母がニコリと笑う。

「栞代ちゃん、今日はご飯も食べられるんでしょう?」

「あ、いいんですか?」

「そのつもりで用意してるの。ご家族の方に連絡しておいてね」

「はい、大丈夫です」


そして、栞代は祖母を手伝うために台所に足を向けた。

杏子はといえば、祖父に完全に捕まり、熱弁を振るわれている。祖父は杏子を手放す気など全くないようだ。


「栞代ちゃん、座って待ってていいのよ」と微笑むおばあちゃんに、「いえ、お手伝いさせてください」と栞代は隣に並んだ。


杏子と祖父の様子を見ながら、栞代は思わず口に出していた。

「いや、本当におじいさんは杏子さんのことが大好きなんですね」

「そうなのよ」

祖母が静かに頷く。その姿に、栞代はついさっきの話を思い出し、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


ふと思い出したように、栞代は尋ねた。

「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

「いいわよ。何でもどうぞ」

「さっきからおじいさんが杏子さんのことを『ぱみゅ子』って呼んでるんですが……ぱみゅ子って?」


おばあちゃんは小さく吹き出した。

「おじいちゃん、ずっときゃりーぱみゅぱみゅが好きでね。孫が女の子だってわかったとき、『ぱみゅ子』って名前にするってダダをこねて、もう大変だったのよ」

「えっ、本気で?」

「ええ、ほんとに本気で。だから杏子の父親が、おじいちゃんをいろんなところに連れ回している間に、わたしと杏子の母親が急いで役所に届けを出したの。それを知ったおじいちゃん、すっかり拗ねちゃってね。自分だけは一生『ぱみゅ子』って呼ぶぞって言い張って、今もずっとそのままなのよ」


栞代は吹き出した。

「ははははっ……、あ、ごめんなさい、失礼しました」

「ううん、いいのよ。ほんとに笑っちゃうでしょ? でもね、杏子は嫌がらずにちゃんと受け入れてるの」

「杏子さん、ほんとに優しいですもんね」

「小さいころは少し混乱もしたみたいだけど、『自分には二つ名前があるんだ』って思うようになったみたい」


その言葉を聞いて、栞代はまた胸が温かくなるのを感じた。

杏子は、こんなに愛情深い祖父母に囲まれて育ったんだ。きっと杏子のご両親も、まだ会ってはいないけれど、温かい人たちに違いない。

両親と祖母が常にぎくしゃくし、冷たい空気が漂う自分の家を思い出す。こんなにも真っ直ぐな愛情に包まれて育った杏子のことが、栞代は少しだけ、ほんの少しだけ羨ましかった。


杏子はまだおじいちゃんの相手をしている。

楽しそうに見えるけれど、ちょっと大変そうでもあるな、とも思う。祖父は息継ぎの隙も与えずにまとわりついて熱弁を振るい、杏子はその一つ一つに「うん」「そうだね」と律儀に相槌を打っている。


そのとき栞代は、杏子が弓道の魅力について語った言葉を思い出した。


『めんどくさいこと、煩わしいこと、嫌なこと、余計なこと、全部消えて、弓だけになるの。姿勢のことだけ考えて。静かで、気持ちよくて……大好きなの、その瞬間が』


改めて、祖父の怒涛のトークの相手をしている杏子の姿を見た。


――杏子、お前も、家でいろいろ苦労してんだな……。

栞代は、食器を出しながら心の中でひっそり笑った。

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