第10話 練習試合に向けての練習
鳳城高校との遠征練習試合まで、あと二週間。道場の空気は、ヒリヒリとしていた。「連休なんだから遊ばせろよな」更衣室の裏で耳にした三年生の文句が、栞代の頭にこびりついている。どうやら、花音部長以外の三年生は遠征に参加しないらしい。コーチは、まだ的の前に立てない一年生には「休むように」と言っていた。だが、栞代は真っ先に参加を表明した。三年生が不在なら杏子へのちょっかいを心配する必要はないが、それ以上に、少しでも感覚を失いたくなかったからだ。
入部当初は両手でも足りなかった一年生も、今や片手で足りる人数しか残っていない。だからこそ、残った者同士は互いの息遣いがわかる距離にいた。
「あかねはどうする? 遠征行く?」栞代が聞くと、秋鹿あかねはいつもの明るい調子で「私は休むっ。友達が寂しがるからさ。あははは~」
明るい奴だ。こちらの気持ちも明るくなる。
「なあ、紬はどうする?」
「それは、わたしの、課題では、ありません」
一見冷たく感じる対応は、紬のルーティーンだ。栞代もすっかり慣れた。
「いやいや、紬の課題なんだよ」
「……何が」
紬は変わらぬ抑揚のない声で聞き返してきた。視線すら合わせてこない。
これは結構冷たいぞ。
だが、それが紬だ。
何がって、今あかねに聞いたところやん。ほんとに面白い奴。
「今度の連休の、鳳城への練習試合だよ。オレたちは手伝いと応援だけだけど、……紬は、休むか?」
たぶん「わたしの課題ではない」と、素っ気なく返ってくるのがオチだろう。
だけど、ちゃんと確認しないと。仲間なんだから。
そう高を括りながら、栞代は片付けをしている紬の隣に歩み寄った。
すると、紬はピタリと動きを止め、初めて栞代の方へ視線を向けた。大きなメガネの奥の瞳は、はっとするほど可愛らしい。だが、感情が一切読めない、底の知れない瞳だ。
「行く」
「……えっ?」
予想外すぎる即答に、栞代は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「い、行くのか?」
「行くって言った」
紬はそれだけ言うと、あっさりと視線を切り、再び無言で片付けを再開してしまった。
その徹底したマイペースっぷりに、栞代は小さく息を吐いた。
——まあ、良かったよ。
その日の練習後、コーチからさらにひりつく話があった。
「今回の練習試合は特別に六人制で行う。そして——総体予選のメンバー選考は、この試合の結果で決める」そう告げた。
一発勝負か。栞代は、分かりやすいけど、その日の調子の波とか、いろんな状況があるのに、それは考慮されないのか、と人ごとながら思った。平均的に力のあるものにとっては不利な選考方針だな、と。だが、同時に気がついた。弓道の試合は、極限の一発勝負ということを。
ミーティングでその意味を全員に伝えた後、コーチは栞代と杏子を呼び止めた。
「杏子さん。試合も近いことだし、そろそろ的前での練習をした方がいいだろう」
その言葉に、栞代も深く頷いた。
「そうだよ、杏子。やっぱり少しでも多く練習しておいたほうがいいって」
しかし、杏子は少し困惑したように目を伏せ、押し黙ってしまった。
見かねた瑠月が横から声をかける。
「もしかして、三年生の目を気にしてるの? 大丈夫、もうみんな興味無くしてるわ。それに、わたしも花音部長も付いていてあげる。もちろん、栞代ちゃんもでしょう?」
か、栞代ちゃんって……。瑠月さんもどこか杏子に似てるな。
でも、絶対にその方がいい。
実は杏子は、学校の早朝練習の前に、中学の時から通っているという地元の道場で、毎日練習をしていたのだ。
栞代は以前から、「往復の時間ももったいないし、学校で練習した方がいいんじゃないか?」と勧めてはいた。だが、杏子はいつも曖昧に笑うだけだった。
杏子は少し戸惑いながらも、ポツリと打ち明けた。
「でも、道場だと……中田先生が見てくれるから。それに、おじいちゃんが車で送迎してくれるのが習慣になってて、おじいちゃん喜んでるから……」
「えっ、そうなのか?」
コーチが素っ頓狂な声を上げた。
「ここの近所の道場って、以前の顧問の中田先生の道場のことか?」
コーチが聞いた。
杏子も驚いたように応える。
「コーチ、ご存じなんですか?」
「ご存じもなにも、私の恩師でもあるんだ」
世の中は狭いんだな。二人のやりとりを聞いて栞代はぼんやりと思った。
聞けば、中田先生とコーチは長年の付き合いがあり、そもそもコーチを光田高校に引っ張ってきたのも中田先生らしい。コーチ自身も、杏子が中田先生の自宅道場に通っていることは知らなかったようだ。
コーチは、杏子に矢継ぎ早に質問を繰り出していた。
「杏子さんは、もうずっと通ってるの?」
「はい、その、初めて会ったのはもう10年前になります」
「まさか、そのときから弓道の練習してたの?」
「あ、いえ、あ、そうかな? あ、どうだろ?」
杏子の混乱が面白いが、ここは助けてやるところだろう。
栞代は口を挟んだ。
「コーチ。杏子、中田先生からは『練習は思いっきり遊ぶこと』って言われてたそうですよ。そう言えば、コーチもオレらにすぐ『遊べ遊べ』って言いますよね。中田先生からの伝統なんですか?」
コーチは一拍置き、どう返すかを測るように栞代を見た。
「でも、杏子が言われたのは五歳の時ですけど、オレらもう十五歳ですよ。あ、そういえば杏子は『悪戯しろ』って意味で言われてたな。コーチ、オレらに悪戯されたいんですか? 杏子は大好きなおばあちゃんには悪戯できなかったって言ってたな。その分、おじいちゃんにたっぷりしたとか。でもおじいちゃんが嫌いな訳じゃないし。オレらがコーチに悪戯しないのは、好きか嫌いか、どっちなんでしょうか?」
栞代も、自分が何を言っているのか分らなくなった。横で杏子がクスクスと笑ってる。
「そうか……なるほどな」
コーチは下手に触らぬ方がいい、と判断したのだろう。適当な言葉で強引に終わらせた。
「ま、そうと分れば話は早い。杏子さんは明日からはもう普通に練習に参加して。中田先生には、私から話を通すから」
栞代は、なぜその結論になったのか分らなかったが、その結論になって良かったと、隣の杏子に微笑んだ。
杏子が学校での練習に参加するようになると、部内に思いがけない変化が生まれた。
「杏子ちゃん、今の私の射、どうだった?」
最初に訊ねたのは瑠月さんだ。独特の柔らかさがあり、すんなり間合いを詰めてくる。
「あ、瑠月さん、ずるい、私も聞きたいっ」
と、花音部長が続き、あとは全員続く。
さらには、普段はライバル意識剥き出しでツンケンしているつぐみまでもが、素直に杏子に意見を乞うようになっている。
まだ徒手練習組の栞代は、道場の隅でゴム弓を引きながら、その光景を驚きとともに見つめていた。
杏子は決して「こうしろ」「ああしろ」と指導しているわけではない。栞代の耳に届いてくるのは、「さっきコーチに褒められた時と比べて、ほんの少し右肩が上がっています」といった、淡々とした事実の指摘だけだ。
だが、その指摘が恐ろしいほど繊細で的確らしい。アドバイスを受けた先輩たちが、オレが見ても分かるくらい、弦音を変えている。
栞代も最近の練習を見ていて気付いたことがある。基本の射法八節は絶対だが、それぞれの体格や筋力、個性に合わせた「その人だけのベストの形」が滲み出るようで、そこを指導している。つまり、部員によって『正解の形』はバラバラなのだ。にもかかわらず、杏子は一人ひとりの『正解の形』を完全に記憶し、そこからの数ミリのズレを瞬時に見抜いていることになる。——あいつ、どんな目をしてんだよ。
コーチがしっかりした土台を築き、コーチだけでなく、杏子もその微細なズレを調整する。完璧な歯車が噛み合ったかのような光景だった。
道場の隅からその熱気を感じ取りながら、栞代は肌が粟立つのを感じた。
……すげえ。このチーム、いけるぞ。
そう感じているのは栞代だけではなさそうだ。ほんの数日前まで漂っていた「遠征で恥をかかなければいい」という消極的な空気は、もうどこにも残っていない。道場に響く先輩たちの弦音の鋭さが、的に向かう目の色が、はっきりと物語っている。『鳳城高校に、一泡吹かせてやる』そんな熱が、肌を刺すように伝わってくる。




