第11話 痴漢の正体
早朝の道場ではあんなに美しく的を射抜いていたというのに。放課後の通常練習が始まると、杏子はスッと道場の隅に下がり、栞代たち新入生と同じ基礎メニューをやり始める。
「杏子、お前も的前に入れって。コーチの許可も出てるんだから」
見かねて栞代が声をかけても、杏子は「わたしはまだ一年生だもん」とふんわり笑って取り合わない。つぐみが「時間の無駄だろ」と舌打ちしても、花音や瑠月をはじめ二年生たちが「杏子ちゃん、こっちおいでよ」と優しく手招きしても、決して道場の隅から動こうとしない。
ただニコニコと先輩たちの姿を見つめ、「あ、今の完璧です」と的確な指摘をするだけだ。
「ほんと、一度決めたら『絶対に変えないお化け』やな」
栞代は呆れ果てて肩をすくめた。
杏子の綿飴のようにふわふわした笑顔の奥には、一度決めたらテコでも動かない岩のような頑固さが隠れているのだと思い知らされた。
花音部長も瑠月さんたちも、残った一年生も——たぶん紬も——今は全員が杏子の味方だ。もしまた三年生に囲まれたとしても、絶対に守り抜く。もう三年生を怖がる必要なんてないのに、杏子は『三年生がいる通常練習では絶対に弓を引かない』と、自分の中で頑なに線を引いている。
……それならそれで、こっちにも考えがある。
その頑固さを言葉で変えることは不可能だと悟った栞代は、別の行動に出ることにした。
誰よりも早く朝の道場を開け、杏子が少しでも長く弓を引く時間を作る。そして通常練習後の自主練習では、自分の徒手練習を完全にやめ、矢取りや手伝いに徹して、杏子の射型を間近で目に焼き付ける。
栞代の毎日は、否応なしに杏子中心で回るようになっていった。
この日も練習で遅くなったが、栞代は杏子に乞われ、家に上がり込んでいた。
「ほれ栞代、今日も食べていかんかい。おばあちゃんの唐揚げが揚がったぞ」
杏子の祖父が陽気に声をかけてくる。
「いや、さすがに今日は帰りますって。毎日図々しいにも程があるし……」
栞代が遠慮して立ち上がろうとすると、祖父の顔色が分かりやすく変わった。
「栞代くん、そこに座りなさい」
「あ、いや、まだ座ってますけど」
「君は、わしから早朝、ぱみゅ子と一緒にドライブする楽しい時間を奪っておきながら、さらにわしの顔を潰すというのかね?」
どこで仕入れてきたのか、わざとらしく威厳を装った声だ。一瞬なんのことかと思ったが、すぐに気がついた。杏子が早朝に中田先生の道場へ行くのを辞め、今は栞代と一緒に登校しているからだ。
「いや、その、すいません……」
祖父はニヤリと笑って、勝ち誇ったように諭すように言った。
「ええんじゃ、ええんじゃ。おまえさんは今、杏子の練習を支えている。『わしに代わって』な。許せん……じゃなくて、その分しっかりとしてもらわんと困る。栄養たっぷりつけんかいっ」
「は、はあ……」
——杏子の弓を支える。
そう真っ直ぐに言われてしまえば、断る理由がなくなる。それに……。
栞代の脳裏に、真っ暗で冷え切った自分の家のダイニングが浮かぶ。温かい夕食など、今の自分の家では望むべくもなかった。
台所の方から漂ってくる、醤油と油の香ばしい匂い。祖母が食器を並べるカチャカチャという温かい音。
栞代のお腹が、絶妙なタイミングで小さく鳴った。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。いただきます」
「わしに逆らって遠慮するなど、百万年早いわっ」
照れ隠しのように頭を掻いて座り直した栞代の前に、祖母が山盛りの唐揚げをそっと置いてくれた。そこに手を伸ばした祖父の手は、すかさず杏子によってピシャリと遮られた。
「おじいちゃんの分は、こっちのお皿」
練習試合が近づくにつれて、練習にも熱が入り、帰宅が遅れる日が続いた。
帰り際、コーチ室に挨拶に寄ると、ふわっとコーヒーの良い香りが漂ってきた。通常練習はもう終わっているからか、コーチもすっかりリラックスモードのようだ。
道場を出て、栞代はいつものように杏子と連れ立って夜道を歩いていた。
「それにしてもコーチって、いつのまにか背後というか、死角に立ってるよな」
「そうなの?」
杏子はきょとんとしている。まあ、杏子にはコーチも直接口出ししないから無理もないか、と栞代は内心で納得した。
だが栞代は、練習に集中してふっと息を吐いた瞬間、背後から突然アドバイスが飛んでくるという心臓に悪い経験を何度もしている。おかげで今では、コーチの気配に敏感に反応するようになっていた。
とりとめのない話をしながら歩いていると、栞代はふと、自分たちの足音の裏に「別の靴音」が張り付いていることに気がついた。歩調を緩めると、後ろの音も消える。
「……杏子、なんかだれかにつけられてる気がする。注意しろよ」
栞代が声を潜めて警戒を促すと、杏子は「え〜、恐いから早く帰ろうよ〜」と怯え、思わず栞代の腕をきゅっと掴んできた。
「杏子、スマホ出しとけ。すぐ電話できるように」
コンビニエンスストアまで来たとき、栞代は努めて口角を上げ、杏子にそっと微笑みかけた。
「杏子、大丈夫だから。ここでちょっと待ってて」
それだけ言い残し、さっと踵を返して薄闇の中へ向かって歩き出す。街灯の光が途切れた場所に、黒い影が一つ浮かんでいた。
栞代はバスケで鍛えた体躯を活かして少し歩幅を広げ、相手を威圧するように立ちはだかった。わざと低いドスを効かせた声を作る。
「すいません、何か用ですか?」
「あ、あ、いや、その……」
背後からの突然の問いに、黒ずくめの人物はビクッと肩を震わせ、慌てた様子で振り返った。
栞代がさらに一歩踏み込もうとした瞬間、背後から杏子のすっとんきょうな叫び声が夜道に響いた。
「お、お、おじいちゃん?」
その声を聞いて、栞代は思わず目を見開いた。
「え? え? おじいちゃ……おじいさん!?」
ピンと張り詰めていた栞代の全身から、一気に力が抜けていく。構えていた肩をガクンと落とし、改めて目の前の人物を凝視した。
言われてみれば、目深に被った帽子の下から覗く目元は、確かに杏子のおじいちゃんだ。だが、杏子、全身真っ黒のこんな怪しすぎる格好で、よく一瞬で分かったな。
「さすが杏子、よく分かったな……って、感心してる場合かっ!」
栞代の鋭いツッコミが、夜の住宅街に響いた。
「おじいちゃん、そんな姿で何してるの?」
杏子が駆け寄ってきて、笑いをこらえつつ問いかけると、祖父は照れくさそうに鼻をかきながら答えた。悪戯がばれた子供のように。
「いや、その、最近帰りが遅いから、用心棒になろうと思ってな」
「用心棒なら、普通に迎えに来て一緒に帰ればいいだろ。なんでわざわざ通報されるような格好なんだよ……」
栞代は呆れ顔で肩をすくめたが、その口調はすでにいつもの遠慮のないものになっていた。
「い、いや、その。ピンチの時に影から颯爽と現れた方が、ヒーローな感じがするじゃろ?」
祖父が照れ笑いを浮かべると、杏子はたまらず吹き出してしまった。栞代はもうすっかり素に戻り、深い溜め息をつく。
「もうまったく、この、クソジ……いやいや、おじいさんは」
つい普段の調子で口が悪くなる。
呆れ果てている栞代とは違い、杏子は「またいつものことか」とでも言うように楽しげに笑っている。
「明日からは、迎えに来るなら普通に道場まで来てくれよ」
栞代はもう敬語の存在など完全に忘れて言い放った。
「ヒーローになんてならなくていいから。隠れる必要ないだろ。さっきまで杏子、マジで怖がってたんだぞ。ヒーローが杏子を怖がらせてどうするんだよ、ったく」
「おじいさんに渡された防犯ブザー、本人に向って鳴らすことになるぞっ」
栞代の勢いは止まらない。
痛いところを突かれ、一瞬は反省した顔を見せた祖父だったが、すぐに口を尖らせた。
「そやけど、わしが道場まで迎えに行ったら、みんながわしに注目して練習どころじゃなくなるだろ? 『どこのイケメンだ~』って」
「……オレは、変質者扱いされて警察に通報されないように言ってやってんだよ」
栞代が険しい目でツッコミを入れると、杏子が慌てて間に入る。
「栞代~、それはヒドイよ~。言い過ぎ~。おじいちゃん、明日からは道場まで来てね」
「そもそも、杏子がそうやって甘やかしすぎなんじゃねーの?」
「いやいや、だって、ぱみゅ子はわしのことが大好きだもんな~!」
「は~~あ?」
ここに至っては、栞代は祖父の言葉一つ一つにツッコミを入れるのが楽しくなってきていた。
「いい加減にしないと、さすがの杏子にも見捨てられるぞ」
「何いつまで怒ってるんじゃ、栞代は~。わしのことを『おじいちゃん』と呼ぶ許可を与えてやるから、機嫌を直してくれ~」
「オレのこと、栞代って呼ぶ権利は与えてないけどな!」
「栞代~、与えたげて~」
三人の掛け合いに杏子が笑い声を上げ、さっきまでの緊張はすっかりどこかへ消え去っていた。春の夜風が、その笑い声を優しく包み込んでいく。
「ほら、帰るぞ、おじいちゃん」
「おっ、今おじいちゃんって言ったな! その調子じゃ、栞代」
「まだ許可出してねーよっ!」
「栞代~、出したげて~」
月明かりの下、漫才のような掛け合いをしながら歩き出す三人。
ふと、栞代は背後にわずかな気配を感じて振り返った。
街灯の光が届かない、後方の曲がり角。夜の闇に紛れるように、見慣れたシルエットがスッと壁の裏に消えた気がした。鼻をかすめたのは、微かなコーヒーの香りだろうか。
「栞代ー、早くー!」
前を歩く杏子に呼ばれ、栞代は「おう!」と振り返り、慌てて追い付いた。
「しょうがない、栞代。今日はお詫びの印に、から揚げを半分やるから」
「は、半分? それ、一個の半分じゃないだろな?」
栞代がそう言って祖父の顔を覗き込むが、祖父は決して目を合わせようとしなかった。
「栞代~っ。私のあげるから~!」
慌てて杏子がフォローしに来た。




