第12話 鳳城高校戦前夜
光田高校から鳳城高校までは距離がある。
万全の体調で試合に臨むため、前日に現地入りすることになった。
ここ五年、地区予選すら突破できていない光田とは違い、鳳城高校は現在、団体・個人ともに全国大会を連覇中の「絶対王者」だ。完全な格の違いだというのに、鳳城側から「道場に慣れるための前日練習と、万全の体調での対戦を」と提案を受け、立派な合宿所まで貸し出してもらうことになっていた。
鳳城高校の弓道場に足を踏み入れた瞬間、光田高校の面々は息を呑んで立ち尽くした。
「うっわ……こりゃすごいな。軽くうちの三倍はあるんじゃない?」
重い沈黙を破ったのは、栞代の呟きだった。
手入れの行き届いた床、公式戦の会場としても使える荘厳な広さ。誰も、すぐには次の言葉を継げなかった。
すぐに、鳳城高校の監督である不動先生が出迎えに現れた。高校弓道界では知らぬ者のいない重鎮だ。
「樹神拓哉コーチ、ご無沙汰しております。チームをどのように育てておられるのか、私も明日の試合を楽しみにしていますよ」
にこやかに微笑む不動先生と拓哉コーチが旧知の仲だったと知り、栞代たちは目を丸くして二人を交互に見比べた。
だが、彼女たちがその事実を呑み込めずに固まっている隙に、事態はさらに予想外の方向へと転がっていく。
「麗霞、光田高校の皆さんをご案内してさしあげて」
不動先生に呼ばれ、奥から一人の女子生徒が姿を現した瞬間、光田の部員たちにどよめきが走った。
中学時代、大会を総なめにし、早くも高校弓道界のスターとして注目を集めている雲類鷲麗霞その人だ。まさか彼女自らが案内役を務めるとは。
「小鳥遊さん。光田に進学したんですね」
麗霞は、部員の中にいたつぐみを見つけて真っ直ぐに声をかけた。
「明日、あなたの弓を見られるのを、楽しみにしています」
「麗霞、よろしくな。私も楽しみにしてるよ」
つぐみは麗霞の視線を真っ向から受け止め、ニヤリと深く口角を上げた。
「それと……うちの『秘密兵器』を紹介するわ」
そう言って、杏子の腕を取って引き寄せて、麗霞の目前に立たせた。「ふひゃっ?」
杏子は、麗霞の真っ直ぐな視線を受け、一瞬目を合わせ、
「は、は、はじめ……まして……。き、き、きょ、きょ、杏子です」と回らぬ舌で辛うじて言葉にし、震えながら顔を真っ赤にして俯いてしまった。
パニックになる杏子を見て、麗霞は軽く微笑む。
「ふふっ。それは明日が楽しみです」
感情を表さずに返すと、麗霞はくるりと踵を返し、部員たちを更衣室へと案内し始めた。
「ちょっとつぐみ〜、急に無茶振りせんといて!」
栞代はすかさず、まだ小刻みに震えている杏子の肩を庇うように抱き寄せ、前を歩くつぐみの背中へ抗議の視線を送った。
案内された更衣室も、光田の更衣室とは比べものにならないほど清潔で広い。
床も、ロッカーも、窓枠まで手入れが行き届いている。
袴の紐を締めるのに手を取られている試合組から少し離れたロッカーの隅で、ジャージを羽織るだけの栞代は早々に着替えを終えていた。
栞代は、同じくジャージのジッパーを一番上まで引き上げている紬に小声で話しかけた。
「なあ、さっきのつぐみ、どう思う? いくらなんでも杏子に無茶振りしすぎやろ」
紬は一切の抑揚がない声で答えた。
「それは、わたしの、課題では、ありません」
「……出たよ。そればっか」
そう言いながらも、栞代は続けた。
「……いや、せやけど見てたやん?」
「はい」
紬は無表情のまま、淡々と続ける。
「ただ、つぐみさんは、試しているだけです」
「試すって……プレッシャーかけて潰そうとしてるってこと? いくらなんでも、あいつそこまで意地悪ちゃうやろ」
「潰れれば、そこまでの選手。乗り越えれば、倒すべきライバルとして認める。それだけのことです」
まるで明日の天気を言い当てるような紬の冷たい声に、栞代は「えっ……」と口を開けたまま、返す言葉を探した。
「……いや、でも杏子のアドバイスも、あいつ素直に聞いてたやんか」
栞代が食い下がると、紬はロッカーの扉をパタンと閉め、振り向かずに言った。
「それは自分のためにです。自分が強くなるために、つぐみさんはどんなことでも躊躇しません」
相変わらず一切の感情が混じらない声が届く。
「そして、その時の的確すぎるアドバイスが、さらに彼女の『杏子への警戒』を強める結果になったのでしょう」
あまりにも身も蓋もない、けれど反論の余地がない分析に、栞代は思わず頭をガシガシと掻きむしった。
「たしかに、あいつの負けん気はすごいからな。……だけど」
栞代はそこで一度言葉を切り、ふと天井を仰いだ。
「そやけど、あの杏子に、そういう心理戦が通じると思う?」
何かあればすぐに「おばあちゃん」を思い出す、杏子のぽんわりとした顔が浮かんだ。
おばあちゃんガードは強いぞぉ。そんなことを考えている栞代に、紬の言葉が重なった。
「それは、わたしの、課題では、ありません」
着替えと準備運動が終わると、鳳城高校の道場を借りて練習が始まった。
遠征に参加している光田高校の部員の数は、鳳城高校の一割にも満たなかったが、人数分の的を贅沢にも用意してもらっていた。試合に出ない栞代と紬は、矢取りなど先輩たちや杏子のサポートに回った。
アウェーの空気に、光田の部員たちは完全に呑まれていた。
沙月は矢を番えたまま、会に入ったところでプルプルと矢先を細かく揺らしている。隣の冴子も、いつもの倍以上も会を保ったまま離れのタイミングを見失い、強引に放った矢は的の遥か下を叩いた。
強気なつぐみでさえ、いつもより明らかに足踏みの幅が広く、瞬きの回数が多い。
花音に至っては、何度弓を構え直しても納得がいかないのか、眉根を寄せて隣の瑠月に泣きそうな顔で何かを訴え始めた。
瑠月が杏子に駆け寄った。
「……杏子ちゃん!ちょっとチェックしてくれる?」
花音、沙月、冴子、そしてつぐみが杏子を取り囲んだ。
杏子は自分の弓を持ったまま、ぽんわかとしたいつもの調子のまま、一切の淀みなく先輩たちへ的確な指摘を返していく。
「やっぱちょっと緊張しますよね」
普段は誰よりも気の強いつぐみでさえ、顔が固い。続いて、つぐみは小さく首を振り、
「よし、杏子、行け」
と、杏子の背中をドンと押し出した。
「はい」
弓を握り直した杏子は、射位へと歩み出る。
足を踏み開き、弓を構えた瞬間――杏子を包んでいたぽんわかとした空気が、ピタリと止まった。
杏子は、静かだ。
的前にさえ立たせれば。
白い弓道着の袖が、かすかに揺れる。弓を持つ手にも、矢を番える指先も、微動だにしない。
肩が沈み、背筋が伸び、視線が的へ向かう。
弓が、一定のゆっくりとした速度で開かれていく。
道場から、すべての音が消えた。
さっきまで光田の部員たちを値踏みしていた鳳城の部員たちも、腕を組んでいた不動監督でさえも、口を半開きにしたまま完全に動きを止めている。
栞代は息を呑んだ。見慣れている筈なのに。
周りの誰もが声を出せずにいるのがわかる。
やがて、会が満ちる。
パーンッ!
張り詰めた静寂を切り裂く、甲高い弦音。
直後、矢は的のど真ん中を鋭く貫いていた。
「あいつ、やっぱり人間ちゃうな」
うしろでつぐみの呟きを聞いた栞代が「おいっ」と突っ込むも、つぐみは「褒めてんだよ」と片手をひらひらと振って見せた。
練習後、拓哉コーチの計らいで、張り詰めた空気をほぐすように全員でファミリーレストランへ向かった。「合宿所で用意してくれると言ってくれたんだが、前日に食べ慣れない豪華なものを食べたら腹を壊すだろ」と笑うコーチの奢りだ。
栞代はできるだけみんなの緊張をほぐそうと、明るく、忙しく口を動かした。
合宿所の消灯後。栞代は隣の杏子を見た。
胸当てと弽を抱きしめるように指先で撫でている。いつも道場で見るのと同じ、心を落ち着かせるための彼女の儀式だ。
『正しい姿勢で引くことだけ。あたるかどうかはただ結果なだけ』
いつか杏子が教えてくれた、おばあちゃんの言葉。
初めての試合。選考のプレッシャー。
それでも、きっと大丈夫だ。明日は大好きなおばあちゃんが見に来てくれるんだもんな。
栞代は、眠りにつく杏子の背中を見つめながら、静かに目を閉じた。




