第7話 冴子の景色
道場の隅で予備の弦を巻きながら、三納冴子はふううっと長く息を吐き出した。
今朝、花音部長と瑠月さんにこれまでの出来事を報告できて、本当に良かった。二人の顔を見た瞬間、随分張り詰めていたんだなって、初めて分かった。一人で抱えていた重たいものが、するりと半分になった感覚だった。
「じゃあ、すぐに理子たちと話をするわ。まあ根は悪い奴じゃないから、大丈夫」
花音部長がきっぱりとそう言ってくれた時、冴子の身体から、すっと力が抜けた。
あれから、目立ったトラブルはない。
パンッ、と乾いた弦音が道場に響く。
小鳥遊つぐみが的前に立つたび、道場の空気が少し変わる。三年生たちも、さすがに黙って見ているしかない。全国準優勝という看板は伊達じゃない。素人目に見ても、その射形は洗練されていた。そして、力強い。
ただ、冴子にとってどうしても目が離せないのは、やはり杏子のことだった。
新入部員に混ざって、黙々と徒手練習を続けている。その背中が、ひたすら同じ動作を繰り返している。ただ弓を引くふりをしているだけなのに、全員同じ動作を繰り返しているだけなのに、その姿は新入部員の中で明らかに浮き上がるほど研ぎ澄まされていた。いつのまにか、そこで目が動かなくなる。次の動作に移れず、視線が、その場に縫い留められた。つぐみでさえ、時折悔しそうに杏子の方を盗み見ているくらいだ。
一方で、部室の隅にいる三年生たちはスマホをいじって関心のないフリをしているが、その視線の端にチクリとした棘が混じっているのを、冴子は見逃していなかった。
栞代もそれを敏感に感じ取っているのか、杏子にぴたりと張りついて離れない。三年生の一人が無遠慮な視線を向けた瞬間、栞代はさりげなく杏子を庇うように立ち位置を変えていた。少し目を離した隙に杏子が絡まれたことを、栞代はよほど後悔しているらしい。
当の杏子自身は、そんなヒリヒリした空気など全く気づいていないのか、そもそも眼中にないのか、いつも通りどこかぼんやりとしていた。
あんなに怖がっていたように見えたのに。警戒する、ということがない。栞代が居ることもあるだろうが、性格だな。放っておけない栞代の気持ちの方は十分に分かる。
今日、花音部長が「三年生も根は悪い人たちじゃないから、心配しなくていいよ」と優しく声をかけた時も、杏子はきょとんとしていた。
花音は一拍置いて、困ったように口元を弛めた。
それを見て、冴子も思わず吹き出しそうになった。
……ほんとに、不思議な子。
瑠月さんが「杏子ちゃん、また弓を引くところ見せてね」と声をかけると、杏子はふにゃりと柔らかく微笑んだ。あの無防備な笑顔を見ていると、なぜか「守ってやらなきゃ」という庇護欲を、栞代じゃなくても掻き立てられる。
徒手練習をしている時のあの神がかった顔と、それ以外の時のぼんやりした顔が、同じ人間のものとはとても思えないな。
杏子と栞代は、全体練習が終わった後もずっと居残りで動き続けている。
冴子はその背中を横目で見ながら、弦をもう一巻きした。
先ほど、コーチが「そろそろ杏子さんにも的前で練習させないと」と呟いていた。インターハイ予選はもうすぐ始まる。杏子とつぐみが揃えば、この光田高校が予選を突破する可能性はぐっと跳ね上がる。チームにとっては最高の切り札だ。
だが、それは同時に、過酷なレギュラー争いの幕開けでもあった。
先輩だからといって、のんびりしていられる場所じゃない。今の光田高校弓道部は、完全な実力主義だ。一年生だろうが関係ない。五人の枠に入るためには、あの実力者たちと競い合わなければならないのだ。
部内試合の結果だけでメンバーを決める」——新体制になった時、コーチが告げた完全実力主義。今までは五人揃えることすら苦労していたのに、今年は違う。ようやく真っ当な部内試合が成立するからか、コーチの顔はずっと、どこか嬉しそうだ。
舞台が整ったということなんだろうが、こっちは溜まったもんじゃない。
道場の奥から、再びつぐみの弦音が鋭く響き、的を射抜く快音が弾けた。
冴子は弦を巻く手を止め、思わずピンと背筋を伸ばした。
だが、望むところだ。




