↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/52

第51話 久しぶりの我が家

夏特有のじりじりとした日差しがアスファルトを白く照り返す中、光田高校弓道部の一行は、ついにインターハイの熱戦から地元へと帰還した。


拓哉コーチと滝本顧問に率いられ、代表メンバーたちは冷房の効いた校長室へと通された。部長の花音がピンと背筋を伸ばして大会の報告を行う。

前校長の時代には考えられなかった光景だ。新しい校長先生は、報告を聞きながら穏やかな笑顔で部員たちの顔を一人一人、ゆっくりと見渡していた。


「個人戦での全国入賞。そして、団体戦の予選突破――本当に素晴らしい結果です。皆さんの努力が、しっかりと実を結びましたね」

落ち着いた声のトーンには、生徒たちへの確かな敬意と重みがあった。

「これで満足することなく、すでに次の目標を見据えていることでしょう。光田高校の誇りとして、これからも期待しています。学校としても、できる限り応援します」


◆


校長室への報告を終え、光田高校弓道部女子一行は、慣れ親しんだ道場へと向かった。引き戸をガラリと開けた瞬間、予期せぬ大きな拍手が道場に響き渡った。

「お疲れ様でした!」

「予選突破おめでとう!」

そこにいたのは、弓道部の男子たちだった。その中には、地区予選で引退した三年生男子の姿もあった。女子とは違い、彼らの夏は少し早く終わっていたが、その表情には、純粋な称賛の笑顔が浮かんでいる。

思いがけない出迎えに、三年生の先輩たちは照れくさそうに顔を見合わせている。栞代は、女子の三年生とは和解したと言えるが、男子三年生に対してはまるで交流がない。心配はないとは思いつつ、杏子を見ると、呑気に瑠月さんとご機嫌で話している。まるで気がついていない。念のため杏子の側に、そっと移動した。気がつくとつぐみと目が合った。

「わざわざ出迎えに来てくれるなんて、本当に感心ね」

滝本顧問は、花が咲いたような満面の笑顔を男子たちに向けた。

その瞬間。

栞代は、道場の空気がスッと冷えたのを感じた。いや、冷えたのは一、二年生の男子たちの周囲だ。先ほどまで明るかった彼らの顔から、さーっと血の気が引いていく。

「どうしてん? 顔色悪いぞ」

冴子さんが、硬直している同級生の矢島さんを不思議そうに覗き込んだ。

矢島さんは、引きつった頬を無理やり引き上げながら、かすれた声で栞代さんに答えた。

「三納……お前、滝本顧問のあの笑顔に気がつかんのか?」

「は? めっちゃ美人やん」

冴子がさらりと返すと、それが聞こえたのか、滝本顧問がふふっと頬に手を当てた。

「あらうれしい」

滝本顧問の笑顔が、さらに一段階、甘く深まった。

「…………っ!」

それに反比例するように、矢島さんをはじめとする男子たちの顔色が、一気に土気色に変わる。視点も彷徨っている。なんなんだいったい。栞代は不思議そうにその様子を見ていた。


そんな後輩たちをよそに、すっかり部活から退いている三年生男子たちはどこ吹く風だ。花音部長や理子さんたちへ近づき、「全国、お疲れ」「そっちは勉強すすんでんの?」と、三年生同士の和やかなムードを作っている。

やがて、三年生の一人が、壁際で震える下級生男子の肩をポンと叩いた。

「ま、がんばれよ」

すべてを完全に他人事として面白がるような、爽やかな笑顔だった。下級生男子たちは完全に血の気を失い、すすすっとさらに壁際へ後ずさりしていく。


ざわめきが落ち着いたころ。

「みんな、ちょっと集まってくれる?」

花音部長の声が響き、部員たちが自然な動きで円を作った。

その声のトーンに、栞代は背筋を伸ばした。部員たちが自然な動きで、花音部長を中心に綺麗な円を作る。

滝本顧問は、穏やかな眼差しで一歩後ろに下がり、拓哉コーチもまた、黙って静かに腕を組んで円陣を見守っていた。

花音部長は、ぐるりと円になった部員たちの顔を一人ひとり、ゆっくりと見渡した。

「インターハイ、本当にお疲れ様。……みんな、応援本当にありがとう。これで、私たち三年生は引退です」

静かな道場に、その言葉がすっと吸い込まれていく。

「今この瞬間、私の部長としての仕事は終わり。こんなに嬉しいことはありません」

その言葉に、三年生たちは微かに笑い声を上げた。

「次の部長は、冴子に。……頼んだよ、冴子。部長は楽しいよ」

花音部長が、満面の笑みを見せていた。

「いや、花音部長、そんな楽しいなら、もう一年続けてくれてもいいんですけど……」

冴子さんが寂しそうに言ったその瞬間、花音部長が即、返した。

「ヤだね」。

「そりゃすまんかった」と理子さんが言って、三年生はバツが悪そうに笑った。

冴子さんが一歩前に出た。顔は真剣そのものだ。

「先輩たちが残してくれたもの、繋いでいきます。みなさんが最後に見せてくれた、決して諦めないひたむきな姿は忘れません。本当にお疲れ様でした」

深く頭を下げる冴子さん。栞代たちの拍手が道場を包んだ。


「ねえ……?」

杏子がぽかんと呟いた。

「栞代、部長が二人になるの? どういうこと?」

栞代は、杏子をじっと見つめながら応えた。

「杏子。花音部長は今日で終わりだって、さっき言ってただろう?」

「終わりって? 試合が終わって、今からお盆休みってことでしょ?」

「あのさ、杏子。今日で終わり。もうお盆空けにも来ないんだよ。引退。三年生だから、受験勉強に入るんだ」

「え?」

何度も瞬きを繰り返し、花音部長たちを見つめている。そして次の瞬間、杏子の瞳が膨らんでいく。

「また一緒に引ける、よね」

そう言って栞代の腕をぎゅっと握った。

「杏子、あんなにイヤな思いさせられた三年生が引退やん。ほっとしてもええシーンやで」

栞代が唇の端を上げ、呆れたように言った。

「ほんまにお前は」

その言葉に、あかねが「ほんまやで!」と杏子のほっぺたを人差し指で軽く突つき、つぐみが「お前、自分の立場分かってんのか」と、これまた軽く杏子の頭をはたいた。

「おい、つぐみ、もっと力抜かんかい」

「なんで私が怒られんねん」

栞代は笑いながら、目の前で優しく微笑む花音部長を見て、入部当時のことを思い出した。

――嫌がらせされてたん、もう忘れたんやろか。

花音部長が杏子のそばにやってきた。

「また、いつでも一緒に引けるよ。引退式もあるしね」

寂しそうに見つめる杏子の頭を、花音部長がそっと撫でた。

栞代は、杏子が中学の時はずっと一人で弓を引き続けていたことを思い出した。誰かと一緒に引くことは高校に入ってからの初めての経験だったんだ。

花音部長が改めてみんなを見渡した。

「みんな、杏子を頼んだよ。的前に立ったら完全に別人になるんだけど、普段はちゃんと歩けるかも心配だ」

ひとしきり笑いの渦が巻き起こったあと、三年生たちがそれぞれ短く挨拶をした。

そして最後に、理子さんが一歩前に出た。鼻をすする杏子や、まっすぐに見つめてくるつぐみ、栞代たち下級生の顔を順番に睨みつけるように見渡し、ふっと口角を上げた。

「今、効果的な杏子の泣かせ方が分かった」

そう言ってみんなを笑わせたあと、

「来年、みんなが日本一になったら、『あの生意気な後輩たちは、私が育てた』って、そこら中でドヤ顔で自慢したいからさ。……だから、絶対に金メダル取れよ」

最後は、少し涙声だった。

「はいっ!」

冴子部長を中心に、下級生全員の力強い返事が道場に響き渡る。

「それじゃあ、私たちはこれで」

花音部長の合図で、三年生が深く頭を下げた。栞代たちもまた、丁寧に拍手で見送る。

三年生たちは振り返ることなく、道場の入り口へと向かい、そして見えなくなった。男子の三年生もそれに続いた。下級生たちをちらりと見ては、笑顔を浮かべている。

道場の外で、三年生を見送った滝本顧問が戻ってきた。

ニコニコしている。

「それじゃあ、当初からの予定通り、これから盆明けまでは、女子の練習は完全にお休みね!」

滝本顧問が明るい声で告げると、あかねが「やったー!」と声を上げた。

しかし、滝本顧問の言葉はそこで終わらなかった。

彼女はくるりと踵を返し、壁際で息を潜めていた一、二年生の男子たちの方へ、ゆっくりと向き直った。

「さて……男子のみんな」

その声色は、さっきまでよりも一段と甘く、優しかった。

だが、栞代ははっきりと見た。壁際の男子たちが、まるで蛇に睨まれた蛙のようにビクッと肩を震わせ、一歩後ずさりしたのを。

滝本顧問は、これ以上ないほど美しい笑顔を浮かべていた。

「みんなも盆明けまでお休みの予定だったけど……。女子がこれだけ素晴らしい結果を出してくれたんだもの。来年は男子も全国を目指すわよね? だから、男子は一足先に、明日からみっちりと練習を開始しましょうね?」

道場が、しんと静まり返った。

蝉の声すら聞こえなくなったような錯覚に陥る。

「……ね?」

滝本顧問がもう一度、小首を傾げて極上の笑顔を向ける。

矢島をはじめとする男子たちは、顔面を蒼白にしながらも、誰一人として逆らう様子は見せなかった。いや、逆らうという概念そのものを根こそぎ奪われているようだった。

「は、はいっ……! ありがとうございますっ……!」

矢島が、声の裏返った悲痛な叫びを上げると、他の男子たちも一斉に、小刻みに震えながら九十度の直角お辞儀をした。

「よ、喜んで、ご指導、賜りますっ……!」

たしかにビビッて震えているのに、どこか嬉しそうでもある。その複雑な表情に、栞代たちの理解は追い付けなかった。

「ふふっ。頼もしいわね。それじゃあ、明日、楽しみね」

滝本顧問が満足げに笑顔で頷くと、男子たちは「オッス……」と消え入るような声で返事をした。


その不思議な光景を目の当たりにして、栞代は隣の冴子さんと顔を見合わせた。

「……なるほど。あれがさっき、男子が一斉に顔色をなくした原因か」

冴子さんが呆れたように呟くと、沙月さんが「あれが噂の悪魔の笑顔だな」と説明した。

「沙月、知ってたん?」

「矢島が喜んどった」

「喜んどった?」

沙月さんの言葉を聞いた栞代は、人間の複雑な心理を思った。

そして、拓哉コーチはといえば、男子の悲劇などまるで視界に入っていないかのように、我関せずと静かに腕を組んで目を閉じている。

壁際で明日からの練習を想像して白く燃え尽きている男子たち。

光田高校弓道部の夏は、こうして悲喜こもごもの入り交じった騒がしさの中で、一つの区切りを終えた。

すかさず拓哉コーチが、念を押した。

「この盆休みの間に、夏休みの宿題を完全に終わらせておくこと。それが、盆明けからの練習に参加する絶対条件だ」

あかねだけではない、女子部員の顔色が変わった。

「ええー……」という情けない声と苦笑いが一斉に広がる中、栞代はポツリと呟いた。

「宿題の存在を完全に忘れてた……」

隣を見ると、杏子も眉を下げて、ふにゃりと力なく微笑んでいた。


合宿と大会を終え、部員たちはそれぞれの家族が待つ自宅へと帰っていく。

その中で、栞代とつぐみの二人は、昨晩の約束通り、杏子の家で夕食をごちそうになることになっていた。


――昨晩、宿舎でのことだ。

大会の全日程が終わり、荷物をまとめていた時だった。

「ねえ、栞代。明日も、うちで夕飯食べるでしょ?」

杏子が聞いてきた。

「あ、いいのかな。おじいちゃん、杏子と水入らずで過ごしたいんじゃないか?」

「ううん。おじいちゃん、栞代と話すのが楽しくてしょうがないみたいだから。栞代も来てくれたら、絶対に喜ぶよ!」

「それなら、遠慮なくお邪魔させてもらおうかな。 ……けど、杏子」

栞代は少し声をひそめ、廊下の方を気にするように視線を向けた。

「どうせなら、つぐみも誘えないかな?」

「うん。いいよ」


栞代と杏子は、ブロック大会が終了した日のことを覚えていた。

他の部員たちの家族が祝福に駆けつける中、つぐみの母親は姿を見せなかった。家庭ごとにいろいろな事情があるのは当然だ。けれど、一人で荷物をまとめるつぐみの背中を見た時、栞代の胸にチクりとした痛みが走ったのだ。

誰もいない、暗いままのリビング。電気の点いていない自分の家の光景が、不意に脳裏をかすめた。自分自身、家庭の温かさというものに少し飢えている自覚があるからこそ、つぐみの背中に敏感になってしまうのかもしれない。


「わたし、誘ってみるね」

杏子が立ち上がろうとするのを、栞代は慌てて手で制した。

「いやいや、杏子と二人きりだと、つぐみのやつ変に気を遣って遠慮すると思う。そうなったら、杏子は強引に言えないだろ。私も一緒に行くよ」

杏子は「うん」と頷いた。


荷物整理をしていたつぐみの部屋へ二人で向かうと、つぐみは顔を上げて不思議そうに微笑んだ。

「杏子に栞代。どうした? あんたらいつも一緒にいるね」

「あのね、つぐみ。明日、うちで夕飯を一緒に食べない? 栞代も来るんだけど……」

つぐみは目をぱちぱちと瞬かせ、持っていたテーピングのテープを落としそうになった。

「えっ……私?」

「うん! おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなで集まるのが大好きだから。つぐみが来てくれたら、きっとすごく喜ぶと思うの」

「でも……私、急にお邪魔しちゃうのは申し訳ないな……」

言いよどむつぐみの肩を、栞代が軽くポンと叩いて笑い飛ばした。

「おいおい、つぐみ。お前が来ないと杏子が寂しがるだろ? それに、あのおじいちゃんのこと、覚えてるだろ? 杏子が着替えてる間とか、オレ一人にあのテンションの相手をさせないでくれよ。身が持たないんだよ。大変なんだよ、あのおじいちゃんの相手は。つぐみがいてくれた方が、助かるんだよ。な、杏子!」

「うん、絶対楽しいよ!」

二人の真っ直ぐな、そして少し強引な視線に押され、つぐみは観念したように、照れくさそうな笑みを浮かべた。

「……それじゃあ、お邪魔させてもらおうかな。ありがとね、杏子、栞代」


つぐみの部屋を出た後、杏子が少し頬を膨らませてムクれていた。

「杏子、ウソも方便だろ」と栞代は苦笑いでフォローする。おじいちゃんを厄介者扱いしたから、ムクれているのは明白だった。

それでも、杏子はすぐにスマートフォンを取り出し、祖母に「明日、栞代とつぐみが来るからね!」と弾んだ声で電話をかけていた。


◆


夕暮れ時。蝉の鳴き声が遠のく頃、杏子の家の食卓は、すでにたまらない匂いと賑やかな空気に包まれていた。

祖母が手際よく並べた料理が、大きなテーブルに所狭しと並ぶ。湯気の立つ大皿の煮物、色鮮やかなサラダ、そして、おじいちゃん特製の漬物が小鉢で彩りを添えている。


「わー、おいしそう!」

つぐみが目を輝かせると、おばあちゃんが目尻を下げて優しく微笑んだ。

「たくさん食べてね。つぐみちゃん、おかわりはいっぱい炊いてあるからね」

栞代はさっそく箸を握りながら、「おばあちゃんの料理、今日はいつも以上に気合入っててすごいな!」と感心しきりだ。

すると、おじいちゃんが得意げにふんぞり返って胸を張った。

「そりゃそうだ! 今日はわしも、漬物を多めに仕込んでおいたんだからな!」

「おじいちゃん、それいつも仕込んでるやつと同じだよね?」

杏子がボソッと小声でツッコむと、つぐみと栞代がクスクスと吹き出した。


「でもさ、おばあちゃんの料理が本当に上手なのは、『うるさ型』のおじいちゃんが食事中に全然文句言わないことでもよく分かるよな」

栞代が言うと、祖母が懐かしそうに目を細めた。

「そう言えばね、杏子が初めてご飯を炊く練習をした時、何度目かにおじいちゃんが『美味い!』って言ったら、杏子、本当に嬉しそうに喜んでたわよね」

「いやぁ、最初の数日はおばあちゃんの調子が悪いのかと思ったんじゃがな。すぐにぱみゅ子が一生懸命炊いてるって分かったよ。でもすぐに本当に美味しく炊けるようになったんじゃ」

「へ~。よくおじいちゃん、まずいとか言ってお茶碗投げ捨てなかったなあ」

栞代がにやりと笑うと、おじいちゃんは「最初から水準以上じゃったが、わしの舌を満足させるには、ちょっと足らんかっただけじゃからのう」と目尻を下げていた。


食事が進むうち、話題は自然とインターハイの話へと移っていった。

「瑠月さんの全国七位入賞も立派じゃったが、つぐみさんも大健闘じゃったな! あの緊張感の中で、本当に素晴らしい!」

おじいちゃんが箸を振り回さんばかりに声を張り上げる。

つぐみは少し照れながらも、背筋を伸ばして答えた。

「ありがとうございます。みんなの応援があったからこそ、あそこまで引けました」

「その応援の中でも、特にぱみゅ子の応援が一番効いたんじゃろ? 遠慮せずに、正直に言っていいんじゃぞ。ぱみゅ子の応援力は世界一じゃ」

「ちょっと、おじいちゃん……」

杏子が呆れたようにため息をつく中、栞代が身を乗り出す。

「言っておくけど、おじいちゃん。オレも応援席から全力で気合を送ったんだからな」

「いやいや、それでもぱみゅ子の念の方が強かったはずじゃ!」

頑として譲らないおじいちゃんを見て、つぐみが吹き出し、笑顔で「はい、みんなの応援が最高でした!」と綺麗にその場を締めた。


「ところで、つぐみさん。大健闘のお祝いに、なにか欲しいものはあるかのう? このあと、美味しい紅茶を入れようと思っているのじゃが、好きな銘柄はあるかい?」

「いえ、紅茶の銘柄って詳しくありませんし、おじいさんにお任せします」

「ほほ~、そうかそうか! わしの好きな銘柄はの~」

と、長いウンチクが始まる気配が満載だったので、栞代がすかさず言葉を挟んだ。

「そしたらさ、つぐみ。おじいちゃんのことを『おじいちゃん』って呼ぶ権利を貰ったらどうだい?」

「え?」

つぐみが目を丸くする。

「まあ、その代わり、おじいちゃんからは『つぐみ』って呼び捨てにされることになるけどな」

「あ~、そうしよう! それがええ!」

おじいちゃんは、つぐみの返事を聞く前に栞代の提案をさっさと受け入れ、上機嫌で紅茶を入れる準備をしにいった。


◆


すっかり夜も更け、つぐみと栞代を送るため、おじいちゃんが車のキーを手にした。

玄関まで見送りにきたおばあちゃんに、つぐみが深く頭を下げる。

「おばあさん、本当に美味しかったです。ごちそうさまでした」

すると祖母は優しく微笑んで、つぐみの手をとった。

「つぐみちゃん、またいつでもいらっしゃいね。それから……次からは、『おばあちゃん』って呼んでね」

温かいその声に、つぐみの瞳がわずかに潤んだように見えた。


車に乗り込み、穏やかな夜の住宅街を走り出す。

助手席に座るつぐみが、後部座席を振り返らずに前を向いたまま言った。

「おじいちゃん、今日は本当にありがとうございました。夕飯、とても美味しかったです」

後ろから栞代が「それはおばあちゃんの手柄だけどな」と軽口で突っ込む。

おじいちゃんはハンドルを握りながら豪快に笑った。

「一番美味しい漬け物は、わしが作ったんじゃ! つぐみ、いつでも食べにいらっしゃい!」

栞代が「漬物限定かよ!」と笑いながら突っ込むと、おじいちゃんは「とっておきの紅茶もあるでよ!」と返し、車内は心地よい笑い声で満たされた。


やがて車がつぐみの家の前で止まる。

つぐみが降りる際、開いたドアからもう一度、全員に感謝の言葉を口にした。

「今日は本当にありがとう。杏子、栞代、おじいちゃん。……おばあちゃんにもよろしくね」

杏子も車を降りて、つぐみに寄り添う。

「また絶対来てね! おじいちゃん、賑やかなの好きだから」

つぐみは少し恥ずかしそうに目を伏せ、それから満面の笑みを浮かべた。

「うん。杏子、サンキューな」


車に戻った杏子と栞代は、窓を開けてつぐみを見送りながら手を振る。車が発進しても、街灯の下で、つぐみが小さく手を振り返しているのが見えた。


その後、栞代を自宅へ送る道すがら、栞代が隣に座る杏子を優しく見やった。

「杏子、今日はつぐみも来てくれてよかったな」


★★★


栞代を家の前で降ろすと、車内は杏子とおじいちゃんの二人きりになった。街灯の明かりが、窓の外を等間隔に流れていく。

「ぱみゅ子や。明日からは、しばらくゆっくりできるんじゃろ?」

運転席から、期待に満ちた声がした。

「うん。お盆明けまでは部活ないから、家にいるよ。中田先生のところには通うけど。一緒に通おうよ」

「よーし! じゃあ、その帰り道、たっぷり遊べるなあ。どこへ行こうかのう」

ハンドルを握るおじいちゃんの横顔が、あからさまに弾んでいた。

「でも、おじいちゃん。コーチから、夏休みの宿題を終わらせるようにって言われてるんだよ?」

「宿題なんて、せんでよろしいっ!」

即答だった。杏子は思わず笑ってしまった。

きっと明日から、いろんなところへ連れ回されるのだろう。

でも、それも仕方ないかな。随分寂しい思いさせちゃったもんなあ。

少し窓を開けて、夏の夜風を少し入れた。熱の残った頬を、やわらかく撫でていった。

夜空に浮かぶ丸い月を見上げながら、杏子は瑠月さんを思った。

宿題、手伝ってくれないかなあ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。