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第52話 お盆休み

世間でいうお盆休みにはまだ少し早かったが、部活は休みになる。お盆休みを入れると一週間以上、今まで経験したことのない長期休暇だ。

冷房が効いているとはいえ、自宅は、栞代にとってまったく居心地の良い場所ではなかった。

家族の誰の姿もないから気軽なはずなのに、重苦しい静寂だけが家にへばりついているようだった。

手元のスマートフォンが、ブルッと短く震えた。

画面を開くと、一年生女子のグループLINEにメッセージが届いていた。

『明日、中田先生の道場に練習に行くんだけど、行ける人一緒に行かない? おじいちゃんが車出してくれるから、送迎付きだよ」

杏子からのメッセージだった。

部活が休みになっても、あいつはやっぱり弓を引くのか。栞代は迷わず文字を打ち込んだ。

『ああ、行く。オレも行きたい。便乗していいか?』

送信ボタンを押した一秒後、画面に別のメッセージが滑り込んできた。

『私も行く』

つぐみからだった。どうやら、彼女もまた自宅で時間を持て余しているらしい。

『やったー! おじいちゃんにお願いして、二人の家回るね!』

しばらく時間を置いて、あかねからのメッセージが届いた。

『お前ら、本気か? 私とまゆはすでに遊びの予定でいっぱいやから、悪いけど遊ぶぞ』

『あー。記録取れないー。ごめーん』

あかねらしいし、まゆらしい。

『あかね、まゆ、問題ない。旅行だって言ってたな。いっぱい遊んでちょっとぐらいお土産もって盆明けきてくれよ』

栞代はすぐに返事を書いた。あかねとまゆのところは、家族ぐるみで仲が良いらしい。まったくいろんな家庭があるもんだ。栞代は、忘れてはいけないと、もうひとつ書き込んだ。

『紬はどうする?』

しばらくして、お決まりの言葉が返ってきた。

『それは、わたしの、課題では、ありません』

読点の打ち方が、いつもの紬の口調そのものでおかしかった。だけど、多分……。

『紬、来れる時は教えてな。練習終わったら、アニメ一緒に見ようや。そのときは、宿題写させて』

紬の返答を待ってると、先につぐみが食いついた。

『おい、アニメと宿題はペアかよ? なんのアニメや?』

そこからは全員のわちゃわちゃとしたいつものグループLINEになった。


翌日、栞代の家の前に滑り込んできたおじいちゃんの車は、すでに賑やかな空気に満ちていた。

「ほれほれ、遠慮せんでもええぞ! つぐみも栞代も、わしが安全運転で送り届けてやるからな!」

運転席のおじいちゃんが上機嫌で笑い、後部座席で杏子とつぐみが手を振っている。栞代は小さく息を吐き、重かった心がふっと軽くなるのを感じながら車へ乗り込んだ。


こうして、休養期間前半の三人の日課が始まった。

午前中は中田先生の道場で、ひたすら弓を引く。昼頃には練習を終え、そのままおじいちゃんの車でファミレスへ寄って賑やかに昼食をとるか、杏子の家でおばあちゃん特製の冷やしそうめんをごちそうになる。冷やし中華や、ざるそばの時もあった。


つぐみは、昼ごはんを食べてから家に帰る日もあった。

そんな日は、おじいちゃんと杏子と栞代の三人で喫茶店巡りをしたり、映画にも行ったりした。映画はアニメにして紬を呼びだした。そしてハイライトは、つぐみも紬も揃って行ったメロン狩りの食べ放題だった。

杏子はおばあちゃんも誘っていたが、「おじいちゃん不在の間に家事を進める」と言って断られていた。自分たちがおじいちゃんを連れ出すことで、おばあちゃんの役にも立っているようで、栞代は思わず笑ってしまった。


もちろん遊び歩いてばかりというわけでもなく、杏子の家でお昼を食べて、そのまま杏子の部屋で宿題をする時もあった。

栞代はつぐみと「こりゃ、杏子に騙されたな。おじいちゃんの相手の方が弓道の練習より大変だ」と囁きあった。だけど、きっとつぐみも、この騒がしさに感謝しているはずだ。栞代自身がそうであるように。


◆


世間で言うお盆休みに入ると、杏子の両親が赴任先から帰ってきた。

「せっかくだから、友達にもきちんと挨拶しておきたいって」

杏子にそう言われ、栞代とつぐみはその日も、いつものように杏子の家に居た。紬はアニメ鑑賞を優先し、あかねとまゆはまだ旅行から返っていない。栞代たちは、居心地の良い場所に誘われ、わざわざ断る理由などどこにもなかった。

杏子の父親は、目元や表情の作り方は杏子にそっくりだ。つまりそれはおじいちゃんに似ている、ということになるんだが、性格はまるで違った。

口数は多くないものの、かといって無愛想というわけではない。栞代とつぐみの話に穏やかに耳を傾け、時折やわらかく笑った。

――うん。間違いない。この人はおばあちゃんの息子さんだ。

栞代はひそかに納得した。

一方、杏子の母親はよく笑い、よくしゃべった。杏子の父親のお嫁さん。ということはつまり、おじいちゃんとは血がつながっていない。それなのに、本当の親子のようにぴったりと息の合ったやり取りをしている。

「お義父さん、その話、今日だけでもう三回目ですよ」

「え? まだたったそれだけ? ぱみゅ子の可愛さには全然足らんな。暫く繰り返すで」

「私の娘ですから。私に似たんですねえ」

「いや、隔世遺伝で、わしに似たんじゃ」

「あら、それでお義母さんに似たんですねえ。良かったわあ。

そう思わない、栞代さん、つぐみさん?」

「え、ええ……」

突然、ごく当たり前のように話を振られ、栞代もつぐみもぎこちない返事を返す。

おじいちゃんがわざとらしく不貞腐れ、杏子が笑い、杏子の母親も手を叩いて笑う。血のつながりなど関係ない、そっくりな笑顔の集団に家族を感じた。杏子の父親は慣れた様子で紅茶を口にし、おばあちゃんも楽しそうにそんなやりとりを見ていた。

栞代は、いいな、と思った。

自分の家では、同じ部屋にいるだけで空気が重くなる。誰かの機嫌を損ねないよう、言葉を選び、息を潜めることも。

だけど、ここでは誰かが何かを言うたび、必ず誰かが笑っている。その輪の中に、栞代もつぐみも当たり前のように組み込まれていた。

つぐみが、栞代の肩に軽く触れて小声で呟いた。

「杏子んち、ずっとこんな感じなん?」

「だいたいね」と栞代は苦笑した。

「ええなあ。うちにもおじいちゃん時々貸してくれんかな」

つぐみは冗談めかして笑った。目が合うと、つぐみは誤魔化すように小さく肩をすくめた。


すっかり夜になり、帰る時間になった。どこでどうなったのか、杏子と離れたがらないおじいちゃんと杏子を置いて、杏子のご両親が栞代とつぐみを送ってくれることになった。

後部座席につぐみと座り、四人で弓道部の話を簡単にしたあと、助手席のお母さんが振り返って言った。

「明日から杏子と三人で一泊旅行に行くんだけど、二人はお墓参り?」

「いや、行かないです」

栞代が表情を固くする。

「お盆も一人ですね」

「私も」

つぐみも短く返事をする。

「あら、そうなの」

二人の声のトーンから、杏子の母親は何かを感じたようだ。すぐに話題を変えた。


「杏子もね、半分はおじいちゃんが心配で一緒に暮らしているようなものなのよ」

母親の声は変わらず明るい。

「まあ、もう半分は大好きなおばあちゃんと一緒に居たいからなんだけどね」

そう言って、また大笑いした。

栞代は、このご両親のことだから、きっと杏子と一緒に暮らしたいだろうなと思った。その思いを察したのか、おかあさんが続けた。

「仕事で移動が多いし、短期間で学校をコロコロ移るのも、杏子は大変な負担だろうし。お義父さんとお義母さんがいてくれて、本当に助かっているの」

そこで初めて、お母さんの声が少し小さくなった。

「親として、これでいいのかなって思うこともあるのよ。仕事を理由に、杏子のそばにいないことには変わりないから」

運転席で、父親が前を向いたまま、静かに黙ってうなずいた。

「でも、私たちの都合で何度も転校させる方が、杏子にはつらいと思ったの。あの子、ぼんやりと呑気に見えるけど、すごく繊細なところがあるから」

栞代はしっかりと耳を傾けていた。

「それに、ここならお義父さんとお義母さんがいるでしょう。杏子が安心して帰ってこられる場所を、二人が守ってくれている。ま、甘えてるのよね、私たちも。でもちゃんと相談して決めたのよ。そしたらお義父さんなんて、もう大喜び」

最後はあっけらかんと明るく言い放った。

「それに、栞代さんと、つぐみさん。二人はもう家族同然。でしょ?」

「は、はあ……」

栞代は、どう応えればいいのか分からなかった。ただ、否定はしたくない。つぐみを見ると、静かに俯いていた。

「多分そのうち、弓道部全体がそんな感じになってくるわよ。お義父さん、人を巻き込む天才だから」

そして。

「その分、手のかかること、この上ないんだけどねえ」

と、運転席の父親の肩を何度も叩いて大笑いしていた。

「まあ、この人も杏子も、お義母さんに似て良かったわ。自分のことは自分でするし。でも、ついでにお義父さんに大甘なところまで似ちゃったけどね」

その言葉に、栞代とつぐみも思わず笑い声を洩らした。

「でも、二人も困ったことがあったら、いつでも言うといいわよ。自分のことはなにもできないのに、人を助けることには力発揮するのよねえ。あれでお義父さん、友達多いから。結構大物も居るのよ~」

ケラケラと笑い声が車内に響いた。


笑い声が一段落すると、母親はもう一度、振り返って言った。

「もし時間があったら、明日も顔を出してくれない? お義父さん、二人が来たらきっと機嫌よく過ごしてくれるから」

「え?」

栞代とつぐみの声が見事に揃った。

「合宿と総体の時、お義母さん大変だったらしいのよねえ。お義父さん、杏子が居ないと、全然ダメだから。ちょっとは自立して欲しいわ~」

そう言いつつおかあさんはケラケラと笑ってる。

「は、はあ……」

栞代はつぐみと目を合わせ、わざわざ合宿所にまで顔を出してきた、あのおじいちゃんのことを思い出した。つぐみを見ると、つぐみが小さく頷いた。

「分かりました。顔を出します。おばあちゃんのお手伝いもします」


★★★★★


一方、そのころ、杏子の家では、おじいちゃんがマシンガントークで杏子を離さず、困らせていた。

「おじいちゃん、いい加減にしないと、いくら杏子でもイヤになるよ」

いつになく真面目なおばあちゃんの口調に、杏子は逆に可笑しくなった。

「そんなことないけど、おじいちゃん、明日わたし旅行に行っても、大丈夫?」

「そうやったのう。寂しいけど、親子三人の時間は大切やからのう。明日は何時に行くんやったかのう。明後日は何時に帰るんじゃ? 

そういえば自転車の練習のことじゃ。あれはやっぱり父親の役目だろうと、わしは涙を飲んで譲ってじゃなあ……」

あ、またこの話。長くなりそうだな。そう思った時、おばあちゃんが「そろそろお風呂入りなさい」と助け船を出してくれた。


杏子は慌てて脱衣所に入り、一息ついた。


明日は、早朝に練習してから出発。おじいちゃんもだけど、おばあちゃんも心配だな。

あっそうだっ。


杏子はスマホを手に取り、弓道部の一年生のグループLINEにメッセージを打ち込んだ。

『明日、お昼から、時間ある人いる?』

『時間あったら、うちに来てよ』

『わたしの部屋に隠してあるお菓子、全部食べていいから。おじいちゃんの話相手になって、おばあちゃん助けてあげてっ』


★★★★★


送ってもらい、玄関を上がったところで、栞代のスマートフォンが震えた。

杏子から、グループLINEにメッセージが届いている。

栞代は画面を見て、直接つぐみにLINEした。

『……親子やなあ』

『考えること一緒やん』

短いやりとりをしたあと、グループLINEの方に、了解のスタンプが二つ並んだ。

あかねからは『なんや私らが居らん時に楽しそうやん。盆明けに行くわ』と届き、まゆからの『お土産あるよ~』と並んだ。

杏子からすぐに返信が届いた。

『ありがとーっ。おじいちゃんには黙っとくから、驚かせてっ。おばあちゃんにはちゃんと言っておくから、お昼ご飯、用意してもらうようにするっ。泊まってもいいよ。お土産いっぱい買うから』

そのあとには

『それは、わたしの、課題では、ありません』

とメッセージが届いていた。


◆


翌日の昼過ぎ。

午前中の練習を終えた栞代とつぐみが連れ立ってインターホンを鳴らすと、玄関のドアが勢いよく開いた。

「ぱみゅ子、旅行は中止か〜!? ――って、おお!? どうしたんじゃ、二人して」

おじいちゃんが目を丸くして完全に固まっている。

「おじいちゃん、紅茶飲ませてよ!」

栞代が笑いながら言うと、おじいちゃんはポカンとした後、楽しそうに笑いだした。

「おいおい、今日、ぱみゅ子は旅行で居らんぞ! そんなにわしの紅茶が飲みたいのか〜!」

「そうなんです。もう一日一回は飲まないと禁断症状が……」

つぐみがおどけて見せると、おじいちゃんは「しょうがないやつらじゃ!」と大喜びで二人を家にあげてくれた。


「あら、いらっしゃい。お昼準備できてるわよ」

おばあちゃんがいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。

「な、なんじゃ? 二人が来るの、わかってたんか?」

「杏子から、おじいちゃんを驚かせるように言われたんですよ」

栞代が種明かしをすると、おじいちゃんは嬉しそうに目尻を下げた。


四人でいつも通り昼食を取る。ただ、いつもとは少し違い、栞代とつぐみのおじいちゃんへのツッコミが、どこか甘かった。

「なんや、今日は二人とも調子悪いんか? なんか切れ味がないで」

ご機嫌なおじいちゃんが不思議そうに声をかけると、栞代は苦笑して答えた。

「いや、おじいちゃんを守って孤軍奮闘する杏子が居らんと、なんかピンとこんのよ」

「ふんっ、わしゃ、ぱみゅ子が居らんでも大丈夫じゃいっ!」

どう考えてもただの強がりな発言に、おばあちゃんと栞代とつぐみが視線を交わし、肩をすくめて笑った。


◆


ずっとおじいちゃんの相手をするのかと覚悟を決めてきたが、どうやら「同じ屋根の下に居る」ということ自体が大事らしい。

食後、「せっかくだから宿題でもしろ」というおじいちゃんの言葉に従い、二人は主のいない杏子の部屋を借りた。テーブルに夏休みの宿題を広げる。

カリカリとシャーペンの音だけが響いていたが。

「……あかん。つぐみと二人じゃ、これ以上進まん」

栞代がシャーペンを机に置き、天井を仰いだ。

「そりゃこっちのセリフだっての」

つぐみも渋い顔で数学のテキストを睨みつけている。

栞代とつぐみは、成績自体は優秀なのだが、見事に得意科目と不得意科目が被っていた。だからこそライバルとして燃えるのだが、いざ二人で教え合おうとすると、同じ問題で仲良く沈没してしまうのだ。

「……紬、呼ぼか」

「練習終わって誘ったら、いつものセリフで帰って行ったやん」

「いや、今アニメの集中放送やっとるんや。今日の分はもう終わったはず。呼び出したら来るやろ」

「なんでそんなこと知っとるんや」

「紬が浮ついとったからな。何ごとかと思って問い詰めた」

「栞代、お前、紬得意やな。私にはなに考えるのか、まったく分からん」

「結構おもろいで」

栞代はスマートフォンを取り出し、紬の個人LINEを開いた。

『宿題分からん。杏子のとこ。来て』

すぐに既読がついた。

『それは、わたしの、課題では、ありません』

いつものお決まりの、スタンプ代わりのテキストが届く。

栞代は待ってましたとばかりにニヤリと笑う。昼ご飯に出た、おばあちゃんの茶碗蒸しの写真を送信した。

五秒後。

『……三十分後』

「交渉成立だ」

栞代が画面を見せると、つぐみが笑った。

「紬は茶碗蒸し派か。私は今日の親子丼が最高やったなあ」

「っと。順序入れ代わったけど、おばあちゃんに茶碗蒸しリクエストしてくるわ。つぐみ、ちょっと待ってて」

「ああ、おじいちゃんに捕まるなよ」

勝手知ったる他人の家。栞代はつぐみを部屋に残し、紬のことを伝えに、一階のダイニングキッチンへと階段を降りていった。


◆


チャイムが鳴り、おじいちゃんの嬉しそうな声が聞こえた。しばらくすると、階段をトントンと上がる足音がした。待ちわびていた栞代たちは、確かに扉の向うに気配を感じた。ノックは無い。開けてみるかと栞代が腰を上げた時、扉の向うから紬の声が聞こえた。

「ゲートオープン。界放」

な、なんだよ、それ。たぶん、何かのアニメの台詞なのだろう。とにかく開けろということらしい。栞代が扉を開けると、両手にお盆を持った紬がいつもの表情で立っていた。

お盆には、蓋つきの風情ある器と、小さな木のスプーン。蓋の隙間からは、出汁のいい香りと共にほのかな湯気が立ち上っていた。

「紬、部屋まで持ってきたんか」

栞代が呆れたように言うと、紬は

「おじいさまの指示です。みなさんの分もあります」

と応えた。

「休憩しろってことか」

つぐみが、たまらないというように鼻をひくつかせた。

紬はずんずんと無遠慮に部屋の奥まで進み、杏子の机の前の椅子に座った。机にそっとお盆を置く。ひとつの器の蓋を開ける。ふわっと立ち上る湯気の中、表面に三つ葉と銀杏が上品に浮かんだ、黄金色の茶碗蒸しが顔を出す。

栞代が様子を伺う。紬がスプーンで表面をすくうと、ぷるんとした絶妙な感触が伝わってきたらしい。紬はそれを口に運び、目を閉じて深く息を吐いた。

「……完全無欠」

「紬、オレらにも」

「必要?」

「独り占めする気やったな」

栞代は茶碗蒸しを取り、その代わり、分からない問題にマークを付けたプリントを紬に渡した。

紬は茶碗蒸しを味わいながら、視線だけをプリントに落とした。

「面倒くさくても、図を描いてください。作図すれば理解しやすいです。定規まで使う必要はありませんけど」

紬は、熱い銀杏にフーフーと息を吹きかけながら、淡々と口を開いた。

「図を描かずに、頭の中だけで処理しようとすると混乱します」

「丁寧にってことか。苦手分野やな」つぐみがシャーペンを走らせている。

「一番の近道は遠回りだった」

紬が楽しそうに呟き、幸せそうな顔で茶碗蒸しの底からエビをすくい出していた。

「このエビの火の通り具合、芸術です」

そう言いながら、問題にマークを入れたプリントを栞代に戻した。

紬をアニメのこと以外でこんなに饒舌にするとは。栞代はおばあちゃんの腕前に改めて感心した。

「パターン別にまとめました。最初のものだけ解いていってください。躓いたら、悩まずすぐに言って」

紬は最後の一口を名残惜しそうに口に運んだ。

「英作も写させて、紬」

つぐみが声をかけると紬は茶碗蒸しから視線を逸らさず返事した。

「茶碗蒸し権」。


◆


夕食は、おじいちゃんとおばあちゃんと五人で賑やかな食卓を囲んだ。

「宿題はかどったか?」

「紬が来てから、めっちゃ進んだ。明日杏子帰って来たら、教えたらんとな」

栞代が唐揚げを摘まみながら返事した。

「ぱみゅ子はわしが教えたるわい」

そう言えば数学はおじいちゃんに教えてもらってるって杏子は言ってたな。

「でも、英語はアウトやろ?」

栞代がそう言うと、おじいちゃんはそこには触れようとしなかった。

「紬さんも泊まっていくのかい? 二人は泊まって明日杏子帰ってくるまで居てるんやけど」

おじいちゃんが紬に聞いた。紬は、なにも準備してきてないからなあ。

美味しそうな表情で茶碗蒸しを食べていたのに、一旦完全に表情を消して言った。

「それは、わたしの、課題では、ありません」

栞代とつぐみは笑い出し、すっかり慣れたおじいちゃんは「残念じゃのう」とだけ呟いた。

紬は、つぐみから強奪した茶碗蒸しに向かっていた。恨めしそうなつぐみに「権利です」と言い放った。

「栞代、お前にも写させてやるから、その唐揚げ寄こせ」


夕食後はスイカと紅茶という摩訶不思議な組み合わせが登場した。どちらもおじいちゃんの好物だ。不思議な組み合わせが、完璧にマッチしている。紅茶に関しては本当にすごい、と栞代は思った。つぐみも紬も、ずっと無言で味わっている。


紬を送り、栞代とつぐみは、いよいよ本格的におじいちゃんの相手かと覚悟を決めた。だが、その肝心のおじいちゃんは、杏子からの電話に夢中になってる。栞代とつぐみは杏子の部屋で、忘れないうちにと、数学の続きに取り組んだ。

つぐみが、シャーペンを置いてぽつりと呟いた。

「杏子が居なくても、この家、居心地いいな」

栞代は窓の外を見上げながら、自分でも驚くほど素直な言葉をこぼした。

「ま、実はオレ、自分の家があんまり好きじゃなくてな。息が詰まるっていうか」

つぐみは、ただ静かに栞代の目を見た。そして、小さく頷いた。

「……そか。私も。あんまり、家にいたくないんだが、妹が慕ってくれててな。その分、まだマシだな」

お互いの家庭に何があるのか、深くは語らなかった。けれど、その沈黙の中にある同じ色の寂しさを、二人は確かに共有していた。

「何かあったら、いつでも相談しようぜ」

栞代が言うと、つぐみは「ああ」と短く応えた。


◆


翌朝。

台所から漂う出汁の香りで目が覚め、再び四人で食卓を囲む。焼き魚と具沢山の味噌汁。

「おじいちゃん、こんな美味しい朝食を、杏子は毎日食べてんだなあ」

つぐみの言葉に、おじいちゃんは

「ご飯は何を食べるかやない。だれと食べるかやで」とドヤ顔で言い放った。

「いや、おじいちゃん、食べるばっかりやん。料理するのは大変やで。後片付けぐらいは手伝わなあかんで」

「そやけど栞代~、食器洗っても、汚れ取れてない言うて、二度手間やって怒られるんやで」

「はー。それで杏子が代わりにやるんやろ?」

「か、栞代。いつ見てたんや」

「オレは杏子みたいに甘くないで。ちゃんと汚れ落ちるまで、今日は一緒にやるからな」

「ぱ、ぱみゅ子~。はよ帰って来て~」

「その杏子から頼まれたんやっ」

「栞代もつぐみも、おってくれたら賑やかでええけど、まさか見張られるとはなあ」


夕方になり、旅行から戻ってきた杏子が、日に焼けた笑顔で飛び込んできた。

「ありがとう! おじいちゃんの相手、大変だった?」

「そりゃも〜、二人で紅茶を何杯飲まされたことか」


◆


その夜の食卓は、杏子の両親も加わって、さらに賑やかなものになった。

家族旅行の話、インターハイの話、そして部活の練習の話。おじいちゃんが何度も同じ話を持ち出し、杏子のお母さんがそれを笑いながらピシャリと止め、おばあちゃんが呆れた顔でお茶を淹れる。

杏子が帰ってきたことで、当たり前だが、この家はますます「杏子の家」としての本来の姿を取り戻したようだった。その完璧なパズルのピースが埋まった光景を、栞代は心地よく眺めていた。


帰りは、杏子のお父さんが車で二人を送ってくれることになった。「この上さらに、わしからぱみゅ子を引き剥がす気か!」と騒ぐおじいちゃんを、「親娘水入らずの時間を奪う気ですか!」とお母さんが言いくるめてくだ。

車内では普段の部活での杏子の話で盛り上がった。杏子は何度も遮ろうとしたが、それをさらにお父さんが遮っていた。お父さんはバックミラー越しに目を細め、穏やかに二人の話に耳を傾けていた。

やがてつぐみを先に送り届け、次いで栞代の家へと向かった。

車を降りる時、お父さんが窓を開けて、柔らかい笑顔で言った。

「いつでも遊びに来てくださいね。杏子のこと、これからもよろしく頼みます」

栞代はふっと口元を緩めた。あのおじいちゃんと、全く同じセリフだ。それがなんだか、とても可笑しかった。


◆◆◆


栞代たちを降ろした車が、静かな夜の住宅街を走り出す。助手席に座る杏子は、隣でハンドルを握る父の横顔をじっと見つめていた。こうして父と二人きりになる時間は、とても珍しい。

「杏子。仕事とはいえ、年に何回かしか帰ってこられなくて、寂しい思いをさせてごめんな」

信号待ちで車が停まった時、父がぽつりとこぼした。

杏子はすぐに首を横へ振った。

「ううん。全然平気だよ。おじいちゃんとおばあちゃんがいるし、それに今は、離れててもスマホで顔を見ながら話せるし。旅行にも行けるしね」

父は、安心したように目尻を下げた。


車の窓を少し開けると、夏の夜の匂いが流れ込んでくる。

「お父さん、安全運転で、でも早く帰ろ」

「おじいちゃんが心配かい?」

杏子はシートに背中を預け、実家のリビングを思い浮かべた。

今頃、お母さんとおじいちゃんが大きな声で笑いながら言い合っているに違いない。さて、チャンネル争いか、紅茶の銘柄か、それともジャズとロックの争いか。おばあちゃんは、それに呆れながらも結局は楽しく参加しているはず。

あの騒がしくて、最高に温かいリビングに、やっぱり、早く帰りたい。


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