第49話 インターハイ個人戦
特設弓道場として整備された巨大な体育館。観客席には低いざわめきが絶えなかった。それでも選手が射場へ入ると、足袋が床を擦る音まで栞代の耳へ届いた。
観客席の最前列では、栞代と杏子たちが、身を乗り出して、少しでも力になるように、懸命に祈りを送っていた。
まずは予選。
最初に姿を見せたのは、瑠月さんだった。
射位へと向かうその一歩一歩からも、これまでの努力のすべてが表現されている。いつもの柔らかい雰囲気とは違う、研ぎ澄まされた刃のような空気を纏っていた。隣で杏子が、背筋をピンと伸ばして顔の前で両手を組み、祈るようにぎゅっと握りしめた。
足踏みを整え、深く息を吸い込む。無駄のない動作に、彼女らしい堅実さが光る。
一射目。瑠月さんの持ち味である、流れるような美しい射が決まる。
的中。
二射目も迷いなく的を捉えた。三射目の矢が的の右へ外れ、安土に刺さった。
以前なら、瑠月さんの視線はその矢を追ったまま戻ってこなかった。
けれど今は違う。瑠月さんの表情は揺るがない。息を一つ吐き、足の裏を確かめるように重心を戻した。残るにはもうひとつ的中が必要。追い込まれた最後の一射も、変わらず落ち着いて射抜き、三中。見事に予選を通過した。
「よしっ!」
栞代は小さくガッツポーズをし、両手をばたつかせた。杏子も安堵の息を吐いた。
しばらくの後、つぐみが姿を見せた。
彼女が的前に立つと、的までの軌跡が、つぐみの強烈な意思で支配されているかのように錯覚してしまう。
つぐみの力強い所作から放たれた矢は、軽やかな弦音を響かせ、的を射抜く甲高い音を残して突き刺さった。
隣で杏子がパァッと顔を輝かせる。
続く二射目、三射目も難なく的中し、そして四射目も――皆中。
予選からの完璧な皆中突破に、周りにいる光田のメンバーたちは、どうやってこの喜びを爆発させようかとそわそわしていた。
射位から下がり、戻ろうとしたつぐみが、ほんの一瞬、応援席に視線を向けた。「どう? 完璧でしょ!」と言わんばかりの得意げな視線を送ってきた。杏子が何度もぶんぶんと頷き返す。
女子と男子、交互に進行するため、短い時間だが、隙間時間がある。控え室を離れた瑠月さんとつぐみが、応援していた栞代たちと合流できた。
「瑠月さん、緊張した?」
沙月さんがおどけたように訊ねた。瑠月さんは
「うん、すっごく」と応えた。
「つぐみは?」
とあかねが続くと
「めっちゃ楽しいわ」と笑顔を見せた。
まゆは時計を確かめ、同じ小袋を二つ取り出した。
「瑠月さんは、今。おにぎり半分とゼリーです」
そう言ったあと、もうひとつのつぐみの分は、膝の上へ戻した。
「つぐみは、あと十分待って。立順が後ろだから、今食べるとちょっと早いから」
「同じ準決勝なのに、細かいなあ」
あかねが感心したように言った。
「呼ばれる時間が違うからね」
まゆはにっこりと笑い、瑠月さんへ袋を差し出した。
「水は、二人とも渡しますね。全部一気に飲まないで、ゆっくりで」
まゆは静かにゆっくり、小さな声で話すが、それがかえって二人の張り詰めた心にすっと届いているようだ。
多分十分ぐらい誤差の範囲だ。でも、まゆにとってはこれが最善を尽くす、ということなんだろう。
「ところで、まゆ、私たちの分は?」
「お弁当手配してるんだけど。あとでタイミング見て取りに行かなくっちゃ。あかね手伝ってくれる?」
「当たり前やん」あかねが応えた瞬間、横から紬が口を開いた。
「それは、わたしの、課題では、ありません」と呟いた。
「紬も手伝うってよ」栞代が笑いを堪えながら通訳すると、瑠月さんもつぐみも肩を揺らして笑った。
「ほんま、お前らとおったら、退屈せんわ」
つぐみが呟くと、瑠月さんが
「緊張させてくれないね」と笑顔を見せた。
準決勝でも、二人の勢いは止まらなかった。
瑠月さんは相変わらずの落ち着きで三本を確実に的中させ、見事に決勝進出を決める。
つぐみも、一射目から糸を引くような美しい軌道で的を射抜き、突破を確定させた。その瞳にはすでに決勝の舞台を見据える強い闘志が宿っていた。
「瑠月さん! つぐみ!」
二人の決勝進出が決まった瞬間、栞代と杏子は手を取って抱き合い、そこここで、同じような歓喜の抱擁が繰り返された。
◆
九十人以上いた全国の精鋭たちも、決勝の舞台に残ったのはわずか二十一人。
その中には、圧倒的優勝候補である鳳城高校の『雲類鷲麗霞』や、昨日栞代と揉めた、同じく鳳城の黒羽詩織、そして前年のインターハイ準優勝の鳳泉館の矢野慧の姿もあった。
インターハイ個人戦の決勝は『射詰』と呼ばれるサドンデス方式だ。一本でも外せば、その瞬間に脱落となる残酷な舞台。静寂の中で響く弦音。的を射抜く甲高い音。外れた矢が砂を叩く鈍い音。
一本、また一本と放たれるたびに、脱落者が静かに去っていく。
緊張感の中で懸命に立ち続けた瑠月さん。
射詰は残り七人となっていた。
だが、その四射めで的を外した。
栞代たちは、自分たちの祈りが足りなかったかのように、足元を見つめた。
完璧に見えた射形。それでも、ほんのわずかな狂いが結果を分ける。
「瑠月さん……」
杏子が、小さく呟いたのが聞こえた。
だが、全国で堂々の七位だった。
「杏子、下向く必要ないよ。オレたちの誇りだ、瑠月さんは」
四射が終わった段階で、残ったのは六名。
小鳥遊つぐみ(光田)。
雲類鷲麗霞(鳳城)。
黒羽詩織(鳳城)
矢野慧(鳳泉館)。
真白院蓮華(八風台)。
楠木里紗(白菊館)。
ここからは、的のサイズが通常の三十六センチから二十四センチ(八寸的)へと変更され、さらに緻密で過酷な戦いとなる。
的前に立つつぐみの隣には、あの黒羽詩織の姿があった。
黒羽の射形は、杏子が、そして栞代たちが追い求めているものとはまったく違う。そもそもの型だけではない、大きな異質さを感じた。中ればいいという執念、それだけで的中を重ねているような。まるで型破りな射だ。だが、事実として、『鳳城の四季』と呼ばれた四人を凌いでこの舞台に出場している。栞代はなにか底知れぬものを感じた。
あんな奴に、つぐみが負けるはずがない……!
栞代がギリッと歯を食いしばった時、黒羽の矢が二十四センチ的の重圧に押しつぶされた。
渾身の力で引き絞られた黒羽の矢は、無情にも安土の砂にめり込んだ。
静寂の中、肩を震わせて去っていく黒羽。
つぐみっ。よしっ。いけるぞ。
栞代が喜んだ。だが、次の周回で、黒羽の外れを見届けたつぐみの呼吸が、ほんの一拍遅れたように見えた
つぐみの気持ちが動いたのか。その微かな揺れが矢に影響した。ほんの小さな狂い。それでも矢は無情にも、的枠を逸れた。
深く息を吐き、一礼して静かに去った。
それを見届けた栞代たちは、瑠月さんとつぐみを迎えに行くために席を離れた。
胸を張って、微笑みさえ浮かべて現れた瑠月さんと違い、つぐみは、悔しを隠しきれず、涙を堪えきれずにいた。
栞代は何も言えず、ただ、つぐみの背中を優しくさすることしかできなかった。
「打倒麗霞を掲げたのに……黒羽の脱落に、一瞬心が動かされた」つぐみが絞り出した言葉を聞いた瞬間、栞代の中で、昨日の出来事が一本につながった。
自分が黒羽に噛みつかなければ、つぐみは「私に任せろ」なんて余計なものを背負わずに済んだ。
余計なものを持たせたのは、自分だ。凍りついた思いが心臓を掴んだ。
黒羽の存在を意識させてしまった。
ごめん、ごめん、つぐみ。本当ごめん……。つぐみの背中をさすっていた栞代の手が、ピタリと止まった。もう、動かすことが出来なくなった。
「ご、ごめん、つぐみ」ようやっとこれだけを栞代は絞り出した。
つぐみが濡れた目を上げる。
「なんで栞代が謝るんだよ」
「オレが昨日……」言いかけた栞代を遮るようにつぐみが被せた。
「お前の責任じゃない。私が未熟だっただけだ」
杏子が、何も言わず、ただ栞代とつぐみの手を、そっと握った。




