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第48話 インターハイ前日 黒羽詩織

夏の容赦ない陽射しがアスファルトを焦がす中、インターハイの会場に近い宿舎の前に、光田高校弓道部を乗せたバスが到着した。

合宿を終えて一旦自宅に戻ったのも束の間。出発の朝、杏子のおじいちゃんが「やっと帰ってきたのに、また行っちゃうのか! ワシは寂しくて干からびてしまうぞ!」と全力で駄々をこねていたのを思い出し、栞代は制服の襟元をつまみ、ぱたぱたと風を送りながら小さく息を吐いた。あのおじいちゃんをなだめてから合流した杏子は、さぞ疲れたことだろう。


古びた木造の宿舎の正面玄関には、白木の掲示板に各校の部屋割りが整然と貼り出されていた。

「あ、見て!」

荷物を下ろしていたあかねが、元気な声を上げる。

「鳳城高校も、同じ宿舎だって!」

その言葉に、部員たちの間に小さなどよめきと、ピリッとした緊張が走った。


光田高校弓道部の快進撃は、三ヶ月前の五月に行われた、あの鳳城高校との練習試合から始まったと言っていい。大きな自信になった。

まだ三ヶ月。……いや、もうあれから三ヶ月なのか。

栞代が感慨に耽っていると、隣でつぐみが鋭い視線を掲示板に向けていた。

鳳城高校は、一年生である『雲類鷲麗霞うるわし れいか』の入学で大きな注目を浴びていたが、この三ヶ月でその注目度は桁違いの次元に突入していた。公式戦無敗のままインターハイに勝ち進み、中学からの「公式戦全的中」というバケモノじみた記録も順調に伸ばしているという。

今大会の、間違いなく優勝候補筆頭だ。



宿舎に荷物を置き、短い休憩を挟んでから、栞代たちは割り当てられた練習会場へと向かった。

広い弓道場ではすでに数校が練習を始めており、その中には鳳城高校の姿もあった。

弦音が静かに響く中、栞代の隣を歩いていた杏子の足が、ピタリと止まる。杏子の視線は、吸い寄せられるように一人の射手へと向けられていた。


薄紫の袴が風になびく。雲類鷲麗霞だ。

彼女の射は、まさに芸術だった。凛とした佇まいは、弓道着姿でありながらどこか近寄りがたい気高さを放っている。

大きく、ゆったりとした動作で構えられた弓。あれは以前、コーチから聞いたことがある。女子高生には到底扱えないはずの、十九キロの強弓『白鷺』だ。

――パァン!

放たれた矢は、まるで空気を切り裂く風そのもののように滑らかで、力強く、一切の迷いなく的の中心を貫いた。

なんだ、あれ……。

栞代は息を呑んだ。ただ的を射抜くだけではない。麗霞が存在し、弓を引くだけで、その場の空気がピンと張り詰め、澄み渡っていくような錯覚すら覚える。五月に見た時とは、もう全然違っていた。


栞代は隣を見た。杏子は言葉を失い、完全に目を奪われていた。圧倒的な修練の賜物であるその射と、今の自分の射との違いを、誰よりも痛感しているのだろう。

「すごいだろ」

つぐみが、杏子の横顔に向かって言った。その声には、同じ場所に立つ者としての誇らしげな響きがあった。杏子は言葉を返すこともできず、ただ小さく頷く。

「あの麗霞を越える。……見てろよ、杏子」

つぐみは自信満々に宣言した。



練習が終わり、交代の時間になった。

鳳城高校のメンバーが控え区画へ戻る中、光田が練習を開始する。栞代や杏子たち一年生は、出場メンバーのサポートに回り、矢取りや的の交換に黙々と動いていた。

ふと、背後から声がかかった。

「光田高校の……杏子、って言ったよね?」

振り返ると、鳳城高校のゼッケンをつけた女子生徒が立っていた。黒羽詩織くろは しおりだ。

「私、鳳城の黒羽って言うんだけど。あんた、代表メンバーに名前無いよね。個人も、団体も」

黒羽は、値踏みするようなねっとりとした視線を杏子に向けた。

「練習試合の時のあんた見てたら、ちょっと考えられないんだけど。光田高校はヨユーかましてんの? それともまぐれやったんか?」

突然の嫌味に、栞代は顔を顰めた。だが、杏子は静かに答える。

「……県大会で、負けたからです」

「でも、ブロック大会では個人も団体も勝ってるよね。しかも全部的中だろ? そんな芸当ができるのは、うちの麗霞ぐらいだと思ってたけどさ。ヨユー? それとも怪我? 麗霞には勝てないから逃げたんか?」

「実力不足だからです」

杏子の声は落ち着いていた。淡々とそれだけ伝えて、彼女は黙って頭を下げる。

「ふうん。結局あれか、練習試合の時は『まぐれ』だったってことやな。結構美しい射形に見えたけど、所詮、いくら射つ姿が美しくても、中らねーってことだな」

嘲笑うような黒羽の言葉に、栞代の中で何かがブチッと千切れた。

「おい。いきなり初対面の相手に、失礼だろ」

栞代は持っていた矢を置き、二人の間にズカズカと割って入った。

「親切に言ってやってんだよ。いつまでも『射形』なんてものにこだわってるから、安定して結果出せねーんだろってな」

体格に優る栞代に、詩織は一歩も引かない。

「おい、いい加減にしろよテメェッ!」

栞代が黒羽に詰め寄った瞬間、背後から冴子さんにジャージの襟をガシッと掴まれ、寸前で止められた。

「栞代、やめとき!」


同時に、騒ぎに気づいた鳳城高校のメンバーが数人駆け寄ってきて、黒羽を引き離した。

「大変申し訳ありません」

鳳城の部長である帆風秋音ほかぜ あきねが深々と頭を下げ、その場はなんとか収まった。黒羽は先輩にきつく注意されていたが、どこ吹く風で全く意に介していない様子だった。


「栞代。お前、杏子のことになると本当に抑えが効かないな」

冴子さんは呆れつつも、付け加えるのを忘れなかった。

「だけど、栞代、挑発に乗ったら絶対にあかん。手出したら、問答無用で出した方が負けやで」

当の杏子は、栞代の影で震えていた。

「杏子、挑発に乗らなくて偉かったで」

「あ、あの、怖かったから」

栞代は、杏子の肩に手を回し、軽く叩いて慰めていた。


栞代が苛立ちを抑えながら矢を拭く作業に戻ると、鳳城の不動監督が拓哉コーチに話しかけているのが耳に入った。

「ブロックチャンピオンが全国大会に参加できないのは、事情があるにせよ、もったいないですね」

不動監督の目は、何かを見透かすように細められていた。

拓哉コーチは静かに「まだいろいろと勉強中です」と応える。

「小鳥遊つぐみさんも、素晴らしい選手です」

不動監督は杏子へ目を向けた。

「ただ、杏子さんは、麗霞がまだ持てていないものを持っている。逆に麗霞は、今の杏子さんに足りないものを持っている。互いに相手の弱点を映すような二人です。同じ射場で競うところを、見てみたかった。できれば、団体戦でも」

その言葉に、栞代はハッとした。当然とはいえ、杏子はそこまで注目されているのか。あの鳳城高校の、あの不動監督に。拓哉コーチも小さく息を吐き、静かに同調しているように見えた。



練習が終わる頃には日はすっかり傾いていた。

栞代たちは道具を片付け、宿舎に戻る。夕食は共同の食堂で提供されるため、当然、鳳城高校のメンバーとも同じ場所で食事をすることになった。

木の温もりを感じる広間。栞代は、少し離れた席にいる黒羽を睨みつけていた。

さっきの出来事を花音先輩やつぐみに話すと、全員が静かに憤ったが、まさかインターハイ前夜に他校と揉め事を起こすわけにはいかない。

「栞代、私に任せとけ」

つぐみが、力強く宣言してくれたのが唯一の救いだった。


「にしても、あの性格がひん曲がった黒羽ってやつ、県大会準優勝で麗霞の次に強いらしいな。なんで団体のメンバーに入ってないんだ?」

栞代が疑問を口にすると、つぐみが味噌汁の椀を置きながら答えた。

「不動監督は『礼』を重んじる監督だ。いくら実力があっても、あの態度じゃ、鳳城高校の名前を冠して戦う団体戦には、監督が絶対に認めないんだろ」

「なるほど。そういうことか」

栞代は深く頷いた。五月の練習試合にも出ていなかった。


横を見ると、あかねとまゆが小声で話していた。

「まゆ、他校の記録も取るの、大変だったんじゃない?」

「大丈夫……楽しかったから……」

まゆはそう言って、手元のノートを大事そうに抱え込んだ。


杏子は箸を止め、窓の外を見ていた。

右手の指が、膝の上で何度かゆっくりと開いては閉じる。

「杏子」

「ん?」

「麗霞の射、もう一回見たいんやろ」

杏子は少し驚いた顔で栞代を見たあと、小さくうなずいた。

「うん。三ヶ月ですごいよね」

五月よりも研ぎ澄まされた十九キロの射。

明日、全国大会が始まる。

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