第46話 合宿でのバーベキュー
息の詰まる試合が終わった。
普段なら休憩を挟んでもう一度練習が始まる時間だが、合宿最終日の今日は、午後の後半をバーベキューの準備に充てることになっていた。
選抜試合を経験した三年生の空気は少し重かったものの、さくらさんの明るさがそれを救っていた。さくらさんは誰よりも大きな声で椅子を運び、笑っていた。
その笑顔が本心からなのか、栞代には分からなかった。それでも、三年生たちは少しずつ手を動かし始めた。
このバーベキューは、栞代たちの楽しみだけじゃない。この五日間、世話係として栞代たちを支えてくれた神楽木さんへの感謝を込めたバーベキューだ。その気持ちは、部員全員共通のものだ。
夕暮れの柔らかな光が差し込み、風に乗って夏の香りと香ばしい炭火の匂いが漂う。長テーブルの上には、焼きたての肉や野菜が次々と運ばれていく。美味しい匂いと火を囲む温かさにほだされ、中庭には少しずつ、弓道部員たちの弾けるような笑い声が戻ってきていた。
今日の主役である神楽木さんは、少し居心地悪そうにパイプ椅子に座っていた。
「神楽木さん、今は座っていてくださいね」
花音部長が微笑みながら言う。世話係である神楽木さんは、部員たちがバタバタと動いているのを見て、いつもの癖で手伝おうと腰を浮かせかけていたのだ。
「でも、なんだか落ち着かなくて。こういうとき、私にも何かできることが……」
「だめですよ」と花音部長が優しく制する。「今日は、神楽木さんへの感謝の会なんですから」
神楽木さんはそわそわしながら炭火の近くに視線を送ってきたが、焼き場を担当していた栞代は、すかさずトングを鳴らして遮った。
「いいんですって! 今日は神楽木さんがゆっくりお姫様になる日なんですから。ほら、肉もいい感じに焼けてますよ!」
栞代がジュウジュウと音を立てるカルビを見事な手さばきでひっくり返すと、神楽木さんは「本当にありがとうねぇ」と目を細めて笑った。焼き場では、乾杯に間に合わせようと肉や野菜が次々に焼かれていた。
やがて花音部長が全員の前に立ち、コホンと咳払いをした。庭に集まった部員たちの話し声が、自然と静まっていく。
「みなさん。この五日間の合宿、神楽木さんには本当にお世話になりました。朝早くから夜遅くまで、私たちの食事の準備から、当番への指示、体調への細かな気配りまで……」
花音部長の言葉に、部員たちが深く頷く。買い出しから炊事当番への指示まで、神楽木さんの温かい支えがあったからこそ、栞代たちは弓道だけに全力で打ち込むことができた。
「みんな、今日は神楽木さんに感謝するための会だからね! 改めて、私たちを支えてくれた神楽木さんにお礼を言いましょう!」
花音部長が掲げた紙コップを合図に、部員たちが一斉に声をそろえる。
「ありがとうございました!!」
「本当にみんな、ありがとう。私はただの世話係だから、こんなにしてもらうなんてもったいないわ。あなたたちが一生懸命頑張ってるのを見てるだけで、十分だったのに……」
「えへへ、こっちのお肉も焼けましたよー!」
あかねが、こんがりと焼けた肉の盛り合わせをテーブルに運んでいく。
「わぁ、いい色!」「うまそー!」
歓声が上がり、いよいよ本格的なバーベキューがスタートした。
「ねえ、杏子。次の肉当番は誰だっけ?」
つぐみが隣で杏子に囁く。
「もうちょっとでわたしたちに回ってくるよ」
その会話を耳ざとく聞きつけたあかねが、「じゃあ次の肉は杏子か!」と楽しそうに声を上げた。栞代もすかさず乗っかる。
「杏子、お前いつも的の中心に精密に中ててんだから、肉も焦がさずど真ん中の焼き加減で頼むぜ!」
「そ、そんな〜。中るかどうかはただの結果なんだから……」
杏子は困ったように顔を赤らめ、少し考え込んだ後、ポンと手を打った。
「あ、そっか。じゃあ、正しい姿勢でお肉を焼けば美味しくなるのね。でも……お肉の正しい焼き方の姿勢って、どうやるの?」
「トングの正しい使い方って、あんのか?」
栞代のツッコミに、つぐみが笑った。
宴が進む中、神楽木さんがまた少し手持ち無沙汰に動きかけたのを遮るように、部員たちが次々と皿を持って押し寄せた。
「神楽木さん、これ食べてみてください! 私が焼いた玉ねぎです!」
「あ、私の焼いたアスパラもどうぞ!」
普段は神楽木さんに料理を教わっている立場の部員たちが、今日は自分たちで懸命に焼いた料理を差し出し、感謝の気持ちを表現している。
「みんな、上手になったわねぇ」
神楽木さんが嬉しそうに笑う。「最初の頃は、みんな何をするにも四苦八苦していたのに」
「あはは、思い出さないでくださいよー」
笑い声が夜空に吸い込まれていく。栞代も、少し焦げたけれど一番美味しそうに焼けた肉を選んで、神楽木さんの皿に乗せた。
◆
夜の涼しい風が中庭を抜け、炭火が赤々と燃える。
あかねが紙コップを片手に、絶好の機会とばかりに臨時コーチの草林先生と大和先生のテーブルに忍び寄っていくのを、栞代は見逃さなかった。
「あの、草林コーチ、大和コーチ。ちょっといいですか?」
あかねが、期待に満ちた目で二人をじっと見つめる。
「なんだい?」
「拓哉コーチの、学生時代の話を聞かせてください! どんな人だったんですか?」
そのストレートな問いに、二人は顔を見合わせて「おお」という表情を浮かべた。周囲の部員たちも、それとなく聞き耳を立て始める。
「うん。拓哉から、伝えてもいい範囲は前もって確認しているから、その範囲で話すな。……拓哉は、真剣そのものだったよ。大学時代のあいつは、弓道への思いが誰よりも強かった」
草林コーチが遠い目をして語り始める。
「そうそう。ただ、そのせいでちょっと悩みすぎた時期があってさ。一時期、弓道を辞めるほど追い詰められていたんだよ」
大和コーチの言葉に、部員たちから「えっ!」と驚きの声が上がった。
「神社の跡取りとして周りから期待される弓道と、本当に自分がやりたい弓道の間で苦しんでいたんだな。……それで、一旦休学したんだ」
「そのときに巡り合ったのが、君たちも良く知っている中田先生であり、この合宿場の神楽木さんなんだよ」
「えっ、神楽木さん!?」
あかねが声を弾ませて、神楽木さんの方を振り返った。「その時の話、聞いてもいいですか?」
神楽木さんは少し驚いたようだったが、やがて懐かしむように微笑み、そっと語り始めた。
「ぶらっとやってきて、なんだか小汚い格好してるじゃない? 話を聞いたらお腹も空いてるって言うから、ご飯を作って食べさせて、ゆっくり話を聞いたの。……そしたら『実家の望むようには引きたくない。でも、弓はすごく好きだ』って言うから」
神楽木さんはふふっと笑った。
「だから私、『じゃあ、好きなだけ引いたらいいじゃない』って言ったの。あの時はびっくりしたわね。彼、そこから一心不乱に弓を引き続けて……」
そして声を一つ大きくした。
「なんと言っても、そこから三日三晩寝ないで、ずーっと弓を引き続けて、一本も的を外さなかったんだから。きっと一万本ぐらいは続けて引いてたわよ」
「ええっ!? 三日三晩、一万本一本も外さなかったんですか!?」
あかねが目をひん剥いて食いついた、その瞬間。
「いや神楽木さん! どれだけ盛ってるんですか!」
背後から、拓哉コーチの呆れたような声が降ってきた。
「あら、言い過ぎたかしら? みんなが拓哉コーチを尊敬するように配慮したんだけどねぇ」
「配慮しすぎです!」
顔を真っ赤にする拓哉コーチを見て、中庭は爆笑の渦に包まれた。
「大丈夫ですよコーチ! ちゃんと尊敬してますから!」あかねが明るく応える。
「……他人がどう思おうと、自分の心に従っていればいい。……神楽木さんが教えてくれたんだな」
拓哉コーチが少し照れくさそうに付け加えた言葉は、笑い声に紛れて少し聞き取りにくかったけれど、確かに栞代たちの胸に響いた。
一方、男子の方を見ると、徳永コーチと江原コーチを取り囲んでいる。困らせてるんじゃないだろうなあ。栞代は、冴子さんと様子を見に行った。男子たちがアホな質問を繰り返していた。
「先生、弓道が上手くなったら、少しはモテますか!」
困ったような表情を浮かべた徳永コーチは、それでもきっぱりと答えた。
「弓道に関する質問以外は、一切受け付けません」
隣の江原コーチも苦笑しながら深く頷いている。その容赦のない冷淡な対応を見て、栞代は冴子さんと目を合わせ笑った。
隣では、まゆが、膝の上で黙々とノートを開いていた。
徳永コーチと江原コーチが、そんなまゆに優しく声をかける。
「まゆちゃん、いつも本当にありがとう」
まゆは照れくさそうに、ペンを走らせて『ありがとうございます』と書き込んだ。
「きちんと練習の記録を取るって、本当に重要なの。この数日間、あなたがつけてくれたそのノートのおかげで、わたしたちも的確な指導ができたと思う。毎日欠かさず記録を続けてくれて……本当にすごいわ」
まゆのペン先が止まった。
しばらくして、頬を赤くしたまま『ありがとうございます』と書いた。
やがてバーベキューが終わり、部員たちは一斉に後片付けを始めた。焼き網を洗う者。テーブルを拭く者。残った炭を片づける者。誰かが指示を出す前に、それぞれが必要な場所へ動いていく。
冴子さんたちと三年生の間にあった溝が、すべて埋まったわけではない。
それでも、さくらさんは杏子と並んで焼き網を洗い、理子さんは栞代から黙ってゴミ袋を受け取った。少なくとも今夜、後片付けの列に学年の境目はなかった。
◆
バーベキューと入浴を終え、最後の自由時間。
インターハイ出場組は自主ミーティングを行っていた。下級生たちは道場で最後の自主練習をしている。試合とバーベキューが行われたことで少なくなった練習時間の代わりに、禁止されていた夜間練習が開放されたのだ。大和コーチと草林コーチが付いてくれている。
つぐみが真っ直ぐな足取りで、的前に立つ杏子に歩み寄った。
「杏子。勝負してよ」
つぐみの声には、鋭い決意が込められていた。
「杏子に負けたままじゃ、全国には出られない」
杏子は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに静かに頷き、その申し出を正面から受け止めた。
道場の奥で練習していた栞代たち一年生は練習を止め、裏方に回った。そしてまゆも、自然と二人の背中に視線を送っていた。
一矢、また一矢。
両者の矢が、恐ろしいほどの精度で次々と的を射抜いていく。
放たれるたびに響く完璧な弦音と、的を叩く甲高い音。あまりのレベルの高さに、見守る栞代たちは息を呑むことしかできない。
「……やっぱり、すげえな」
栞代は呆然と呟いた。杏子もつぐみも、互いに一切の妥協を許さず、まるで機械のように正確に矢を放ち続けている。このまま永遠に続くのではないかと思われた。
しかし、ふと、杏子の射の「間」が、ほんの少し乱れだしたように見えた。
あれ?
栞代が違和感を覚えた直後。
放たれた杏子の矢は、わずかに的の枠を掠め、安土の砂を叩いた。
静寂。動かない二人。この瞬間が永遠に続くのかと思われた。
栞代が杏子に駆け寄る。
つぐみの目が、射抜くような鋭さで杏子を睨みつけた。
「杏子」
低く、怒りを含んだ声だった。
「また、その傲慢な優しさか」
「えっ……つぐみ……」
杏子が戸惑ったように言葉を探すが、つぐみはそれをピシャリと遮った。
「甘くて傲慢だ。相変わらずだな。お前が本気で引いてるかどうか、分からないとでも思っているのか?」
「ちょ、ちょっと待てよ、つぐみ!」
栞代は慌てて二人の間に入ろうと足を踏み出した。
しかし、つぐみの張り詰めていた表情が、突然フッと和らいだ。
「……でも、ありがとな」
思いがけない言葉に、栞代も杏子も動きを止める。
「目先の勝負にこだわって、無理やり試合を申し込んだ私が子供だった。杏子の性格はよく分かってたはずなのにな。……でも、付き合ってくれて本当にありがと」
つぐみは弓を下ろし、憑き物が落ちたような清々しい顔で笑った。
「ずっと的中を続けて、杏子を悩ませた。杏子をそこまで追い込んだことで、今は一旦、納得するよ。……次は必ず、本気で勝負するぞ、杏子」
「……うん」
杏子も、心からホッとしたような、ふにゃりとした笑顔で応えていた。
つぐみが満足げに下がるのを見送りながら、杏子は栞代の隣でポツリと呟いた。
「……つぐみに自信を持ってもらった方がいいのかなって、一瞬迷っちゃって。余分なことを考えたらダメだよね。それを含めての実力だから。つぐみは実力で勝ったんだよ。言わせてくれなかったけど」
「……」
「姿勢のこと以外を考えると、もう覿面にだめだな。やっぱり。姿勢のことだけ。……おばあちゃんは、いつも正しいなあ」
その言葉で、栞代安心し、大きく息を吐いた。おばあちゃんを思い出せるなら、大丈夫だ。
「杏子も杏子で、改めて勉強になったんだな」
栞代は杏子の肩をガシッと抱き寄せる。
「オレもいつか、杏子を迷わせるくらいの力を身につけるからな。待っとけよ」
杏子は目を丸くした後、嬉しそうにぶんぶん頷いた。
一年生全員でのあと片付けが一段落すると、まゆがあかねが話しかけていた。まゆの囁くような声も随分と慣れて聞き取れるようになってる。
「ねえ、あかね。もちろん私が見ている範囲だから、絶対、じゃないんだけど」
「うん?」
「杏子、今回の合宿で外したの……今のが『初めて』よ」
「えええええっ!?」
あかねの素っ頓狂な声が響く。いや、それは栞代の声でもあった。
「あ、あくまで私の見てる範囲だけどね! 杏子は丁寧に引くから、矢数自体もちょっと少ないしね!」
「いや、少ないって言っても、軽く一日百本は引いてるだろ!?」
「だ、だから、私は全部見られてないから……」
「はぁ〜……マジかよ。私なんてまだ片手くらいしか中ってないのに」
あかねが肩を落とすと、まゆがクスクスと笑う。
「あかねは始めたばっかりじゃん。わたしなんて、一本も中ってないよ」
まゆが肩を上下させて笑ってる。
「おい、まゆは一本も引いてないだろがよっ。でもまあ、杏子は別格だからな、別格!」
二人の楽しそうな笑い声を聞きながら、栞代は杏子に目を向けた。
杏子はもう一度、弽を丁寧に刷毛で払っている。
そりゃおばあちゃんから譲ってもらった大切な弽だもんな。大事にしなきゃな。




