第44話 コーチからの手紙
肝試しの余韻がまだ残る、合宿四日目の朝。
初日から指導にあたってくれた稲垣、神矢、水上、白石の四人の臨時コーチが、今朝で合宿所を離れる。
三日間。長いとは言えない。それでも、やはり寂しかった。
昨夜、特別に宿泊を許された杏子のおじいちゃんとおばあちゃんも、四人のコーチと一緒に帰ることになっていた。
おじいちゃんは杏子の隣から離れようとせず、おばあちゃんは、おじいちゃんを引き戻す。
「みなさん」
神矢コーチが席を立った。部員たちの顔が一斉に上がる。
「我々四名は、今日でこの合宿所を離れます。この三日間、みなさんの練習に立ち会い、私たち自身もいろいろと勉強させていただきました。」
神矢コーチは一度、ほかの三人へ目を向けた。
「指導する側と、される側。今回はそういう立場でしたが、弓の道を歩く者としては同じ仲間です。次に会う時には、お互いに成長した姿を見せられたらと思います」
そこで表情を緩めた。
「それから、短いものですが、みなさん一人ひとりにカードを用意しました」
四人のコーチが、名前の書かれた封筒の束を取り出した。
一人につき一枚。封筒の中には、四人がそれぞれ短い言葉を書いたカードがいれてあるという。
封筒を配ろうとした、その時だった。
「あの」
花音部が立ち上がった。その後ろでは、三年生たちが人数分の封筒を抱えている。
「神矢コーチ、稲垣コーチ、水上コーチ、白石コーチ。三日間、本当にありがとうございました」
花音部長が深く頭を下げる。
それに合わせ、部員たちも一斉に頭を下げた。
「私たちも、手紙を書きました。手紙というか、寄せ書きです。みんなで少しずつ言葉を出し合ってまとめています。受け取ってください」
「私たちに?」
水上コーチが目を丸くした。
花音部長は続けて、姿勢をただしながら言った。
「ちなみに、拓哉コーチと滝本顧問の分はありません」
「そこまできっぱり言われると、かえって気持ちがいいな」
拓哉コーチが肩をすくめる。
「私たちはまだ帰りませんから」
滝本顧問がそう言うと、食堂に笑いが広がった。
四人のコーチと部員たちの間で、封筒が行き交う。受け取ったカードをすぐに開く者もいれば、大切そうに鞄へしまう者もいた。
別れの挨拶を終えると、一行は合宿所の玄関前へ移動した。
駅へ向かうタクシーが待っているというのに、おじいちゃんは杏子の両手を握ったまま、なかなか離そうとしない。
「やっぱり、わしだけもう一泊ということにはならんかのう」
「なりません」
滝本顧問が即答した。
「では、明日の朝までもう一日」
「できません」
「せめてお昼まで、いや、あと10分、5分、1分、600秒っ」
「最後増えとるで、おじいちゃん」
栞代は、笑いを堪えきれなかった。
「おじいちゃん」
杏子が困ったように呼びかけても、おじいちゃんは聞こえないふりをしている。
おばあちゃんが先にタクシーへ乗り込み、開いたドアの向こうから呆れた顔を見せた。
「ほら、行くよ」
それでも動こうとしないおじいちゃんへ、杏子が背伸びをして耳元に何かを囁いた。
おじいちゃんの眉が上がる。
「本当か?」
杏子が頷くと、つい先ほどまでの抵抗が嘘のように、素直にタクシーへ乗り込んだ。
おじいちゃんがずっと手を振っている。栞代たち一年生も、全員で応えていた。
あかねが「『こがねのひと匙』は嬉しかったなあ」と、名残惜しそうに言った。
車が見えなくなってから、栞代は杏子へ近づいた。
「何て言ったんだ?」
「帰ったら遊びに行こうって言っただけだよ」
「ほー。意外と簡単だったな」
「ここ何年も、弓ばっかりしてるからなあ」
杏子はそれだけ答えて、先に合宿所へ向かって行った。
栞代は、ほんっとに面倒くさいもんだな、と思った。
けれど、あんなふうに帰るのを待ってくれている人がいる。ちょっと羨ましいとも思った。
でも、程度もんやけどな。
◆
杏子は道場脇の控え所にある長椅子へ腰を下ろした。膝の上には、四人のコーチから渡された一枚のカードがある。
表には、杏子の名前。
内側を開くと、四つに分けられた欄へ、それぞれ違う筆跡で言葉が記されていた。
最初は、稲垣コーチだった。
『対抗戦の前、自分の準備より先に、一年生たちの弓具を見て回っていましたね。人のために動けるのは、あなたの長所です。ただ、自分のことまで一人で抱えなくていい。困った時には、自分から「手伝って」と言ってください。仲間に任せることも、団体の力です』
杏子は最後の二行を、もう一度読んだ。
次は、神矢コーチ。
『あなたの落ち着きは、立に入った仲間まで静かにします。それは大きな力です。ただ、黙って支えるだけでは足りない場面も、いつか来るでしょう。必要だと思った時には、自分から声を出し、前へ出てください。あなたの言葉を待っている人がいますよ』
その言葉に、杏子の一度指が度止まった。
水上コーチの文字は、丸みがあり、ほかの三人より少し大きかった。
『あなたの射には、人を急かさない温かさがあります。正しい形だけでは生まれない、あなた自身のものです。何のために弓を引くのか。誰に、どんな射を見せたいのか。その気持ちを見失わなければ、あなたの射はこれからもっと深くなると思います』
おばあちゃんの顔が浮かんだ。
初めて弓を持たせてもらった日も、初めて矢を放った日も、そばにはおばあちゃんがいた。
最後は白石コーチだった。
『射形は、今のままで大丈夫。もうほとんど完成されています。でも、弓を置いた時の杏子さんは、もう少し冒険してもいいと思います。自分の考えを口にする。誰かに頼る。時には少しだけ、わがままを言う。次に会う時には、そんな杏子さんも見てみたいですね』
少しだけ、わがままを言う。
杏子はカードを閉じかけ、もう一度開いた。
自分はずっとわがままだって思ってた。やりたいことを、やりたいようにやり続けて、そしていろんな人に助けてもらってる。
杏子はカードを丁寧に封筒へ戻し、バッグの内ポケットにしまった。
控え所の窓から、夏の光が差し込んでいる。蝉の声に混じって、道場から部員たちの話し声が聞こえてきた。やがて栞代が弓を抱え、控え所の入口に顔を出した。
「杏子。そろそろ始まるぞ」
「うん」
杏子は立ち上がりかけ、そこで動きを止めた。
「栞代」
「ん?」
「白石コーチがね
「うん」
「わがままを言えって書いてたんだけど」
「うん」
「ずっとわたし、わがままばっかり言ってると思うんだけどなあ」
栞代が目を丸くした。
「ま、弓道については、譲らないけどな」
「う、うん」
「それ以外は、どこにいるのかもわからん時あるからなあ」
「あ、ひどーい」
杏子も小さく笑った。
二人は並んで、光の差し込む道場へ向かった。




