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第40話 合宿前の休息から合宿地に到着

ブロック大会の全日程が終わり、栞代たちは地元へと帰ってきた。

一日休日をはさみ、その翌日から、夏合宿の予定だ。


光田高校にバスが着いたのは、昼を回った頃だった。校門のそばには、練習を終えた三年生たちが待っていた。バスの扉が開くなり、拍手が一斉に飛んでくる。

「優勝、おめでとう!」

だが、冴子さんは小さく頭を下げただけで、沙月さんも「ありがとうございます」と短く返し、すぐに弓具の方へ手を伸ばす。つぐみに至っては一瞥もくれず、弓具を抱えて歩き出した。

そんな中で、瑠月さんだけは一人ひとりの顔を見て、丁寧に頭を下げていた。

「ありがとうございます」

その声があまりに自然で、栞代は思わず感心してしまう。

ああいうところが、瑠月さんなんだよな。

杏子はというと、三年生たちに囲まれて、にこにこと笑っていた。

いや、正確には、瑠月さんのすぐ隣で、瑠月さんが褒められているのが嬉しいらしい。

瑠月さんの袖が今にも触れそうな距離にいる杏子は、今にもしがみつきそうだ。

その横で、栞代たち一年生は荷物の確認に回った。

まゆがノートを開き、弓具と矢筒の数を一つずつ指で追っていく。

あかねが読み上げ、紬が淡々と印をつける。杏子がちらりとこちらを見て、駆け寄ろうとするのを手で制した。

「はいはい、杏子はそっちで幸せそうにしててください」

栞代は小さく笑いながら、まゆの横で道具の整理を手伝った。



学校で解散になったあと、栞代は杏子と帰路を歩いていた。

「杏子、このあとどうするんだ? 明日も休みやし。家にいたら、おじいちゃんの餌食やろ」

「もー栞代ってば。ただ……」

杏子は少し考えるように言葉を止めた。

「一回家に帰って、お昼食べてから、中田先生の道場に行こうかなって」

「……え? このあと、練習すんの?」

思わずそう言うと、杏子は小さく頷いた。

「うん。やっぱり毎日引いておかないと。戻すのに時間掛かっちゃうから」

戻す?

そうか。

それに、学校の弓道場には、お昼からも三年生が練習する。

弓を握れば問題ないが、あの三年生の集団に入っていくのは、そりゃ嫌だよな。

その点、中田先生の道場なら、まさに杏子のホームグラウンドだ。

杏子が、杏子に戻れる場所だ。

「じゃあ、オレも行くよ」

杏子が驚いたように顔を上げた。

「えっ、でも、栞代も疲れてるでしょ?」

「疲れてるよ。めちゃくちゃ疲れてる。神経磨り減ったわ。ただ、体力は有り余ってるし、オレも二日練習してないしな。はやく戻さなきゃ。見てくれるだろ?」

「あ、それはもちろんだけど。中田先生にチェックして貰う方がいいんじゃない?」

「う……。なんか緊張するなあ」

「大丈夫だよ、お尻蹴られるぐらいで済むよ」

杏子がわざと真実味を出そうと冷静な顔を作っている。だが、少しつつけば爆発しそうだ。

「しつこく後を引かないなら、お尻ぐらい差し出すよ」

口にした瞬間、体育館の床の匂いが、ふっと戻ってきた気がした。

ホイッスルの音。

止まったボール。

全員の前で名前を呼ばれる、あの感じ。

——キャプテンがミスするな。

——お前が折れたら、その瞬間にチームが終わるのがわからんか。


「か、栞代?」

たった今、辛うじて笑いを抑えていた杏子の顔が、一瞬にして不安の色に染まっていた。オレがよほど辛そうな顔をしたのかな。

「やだな、杏子、冗談だよ、冗談。杏子にお返しだよ」

「そ、そう……」杏子の顔がほっとしたように緩んだ。昔のことだ。

「中田先生に挨拶できるのは楽しみだよ」

「う、うん」

杏子はそう呟き、一瞬考え込んだと思ったら、スマホを取り出し、電話をかけだした。

電話の相手はおばあちゃんだな。顔を見るだけで、一発で分かるよ。

「栞代、大丈夫だって。ご飯あるって」

「え?」

「おじいちゃんも楽しみにしてるって」

「おいおい、杏子、そこはまずオレに確認するべきだろ?」

「あ、ごめん。練習に付き合ってくれるって言ったから」

「お昼込みかよ。なんか、お昼目当てに練習付き合うって言ったみたいになってない?」

「ふふ、大丈夫」

ようやく、杏子の顔から力が抜けていってる。

「まあ、コンビニ弁当買って食べることに比べたら、よっぽど楽しいよ」

そう言うと、杏子は安心したように笑った。

その顔を見て、栞代は小さく息を吐いた。

結局、こうなるんだな。どうも杏子の手のひらって感じがするな。

「おじいちゃんが楽しみに待ってるよ」

「杏子、やっぱりオレに相手させて、ちょっと楽しようとしてるやろ」

「んも~、栞代~」


昼食の席では、いつもの光景がそのまま再現された。おじいちゃんが杏子の皿に何かを足そうとし、杏子が慌てて止める。おばあちゃんがそれを横からたしなめ、栞代はなぜかその流れに巻き込まれて、いつの間にか自分の分まで増やされていた。

昼食を終えると、おじいちゃんの車で中田先生の道場まで送ってもらった。

杏子はすぐに弓を取った。

栞代も、挨拶そこそこに、射形を見てもらった。

「まずは徒手からやな」

中田先生は、そう言って笑った。

徒手。

ゴム弓。

それから巻藁。

ひとつずつ、順番に見てもらった。

栞代は見てもらいながら、褒めてもらう一方だったこともあって、もしかして、と少し期待した。的前に立てるかもしれない。そんな気持ちが、胸の奥で勝手に浮かんだ。

しかし、中田先生はそこから先へは行かなかった。

「今日はここまで。確認までな。ちゃんとできてる。焦る必要ないで」

栞代は少し残念で、少しほっとした。

的に向かって引きたい気持ちはあったけど、恐い気持ちもある。

それでも、先生は栞代が来たことをずいぶん喜んでくれた。

「よう来てくれたなあ。栞代みたいな友達ができたのはほんま上出来や。杏子はあかんたれやからなあ。ひとりやと、余計なことまで抱え込む」

そう言って、豪快に笑った。

杏子は「そんなことないです」と頬を膨らませたが、あまり迫力はなかった。

「今日もほったらかしにされてたけど、ちゃんと練習したじゃないですかっ」

とドヤ顔をしたとたん、中田先生からいろんな点を指摘されて、ちょっとしゅんとしてた。

一つ一つの姿勢より、大きな流れを見ているようだった。杏子は小さくなっていたが、それでも、きっちりと見てもらっていたことを知ったのか、むしろ、嬉しそうにすら見えた。

中田先生にかかれば、杏子はいつまでも目の離せない子なのだろう。

けれど、考えてみれば、それは先生だけの見方でもない気がした。

杏子は、弓を持てば怖いくらいに強い。群を抜いていることは十分に分かった。

なのに、弓を置いた途端無防備になる。

守り方を知らない。


おじいちゃんが家に寄っていけとしつこく誘ってくれたが、この日は遠慮した。なぜなら、杏子は明日も中田先生の道場で練習すると言い出したからだ。

「杏子、明日、わざわざ拓哉コーチが休養日にしてくれたよね?」

「うん。やっぱり毎日引いておかないと。戻すのに時間掛かっちゃうから」

たしか同じセリフを聞いた記憶がある。

栞代は諦めたように一緒に行くと伝える。杏子は、口先では申し訳なさそうだが、喜んでいることは見え見えだ。

しかも朝から行くという。

「お昼からもするの?」

「えっ。大丈夫だよ、栞代。次の日は合宿に行く日だから、早く終わるようにするよ」

「…………」

それはお昼からも練習するってことだね。

会話を聞いていたおじいちゃんが大笑いした。

「いや、栞代、明日は休んでもいいぞ。ぱみゅ子と付き合うのも、なかなか大変やろ?」

と、どこか挑戦的な目を向けられた。杏子の取り合いしてる訳じゃないってーの。けど、ちょっと面白くない。

「いや、おじいちゃん、明日もちゃんとオレも朝から練習するって」

「おお、そうか。そしたら、朝迎えに行くから。合宿の用意もちゃんとしておくんじゃぞ」

と、明日の予定が決まってしまった。もしかしておじいちゃんの狙い通りなのか?


翌日。

本来休養日のこの日、約束通り、朝からおじいちゃんが迎えに来た。車には、もちろん、杏子も、ニコニコして乗ってる。

「おはよう、栞代」

「おはよ……って、お前なぁ。今日、一応『休養日』なんだけど」

「うん、そうだねっ」

まったく厭味が通じていない。まったく悪びれる様子もなくコクリと頷く杏子を見て、栞代は小さくため息をついた。どうやらこの練習の虫の辞書には、「休養」とか「休日」という単語は載っていないらしい。


道場に着くと、栞代たちはまず、時間をかけて念入りにストレッチと体幹トレーニングを行った。それからゴム弓を引き、素引きへと移る。

栞代はまだ、的の前に立って矢を放つ前の段階だ。だから基礎練習を繰り返すのは当然なのだが、驚いたことに、杏子も午前中はずっと付き合ってくれている。

「杏子、お前は引いていいんだぞ?」

栞代が声をかけても、杏子は「うん。基礎練習好きだから」と微笑むだけだった。

結局、午前中の杏子は、栞代のペースに完全に付き合う形で、黙々とゴム弓と素引きだけを繰り返していた。


お昼になったら、相変わらずの光景が繰り広げられる。車の音と共に、おじいちゃんが道場まで栞代たちを迎えにきた。

「ぱみゅ子〜! 栞代〜! 昼飯じゃぞー!」

栞代たちは一旦練習を切り上げ、おじいちゃんの車で杏子の家へと戻った。


リビングのテーブルには、おばあちゃん特製のお昼ご飯がズラリと並んでいる。

「まったく、明日から合宿に行ってしまうというのに。今日ぐらいワシと家でスイカでも食べながら、ゆっくり寝転がっておればいいものを……」

おじいちゃんは相変わらず口を尖らせて文句を言いながらも、杏子の茶碗に嬉しそうにおかずを取り分けている。

「ごめんね、おじいちゃん。でも、合宿に行く前に、もう少しだけ体を動かしておきたくて」

「ふん! ところで、ぱみゅ子、わし、合宿所の隣にテントを張って、毎日応援に行ってもええやろか?」

「えっ、そ、それはちょっと困るかも」

「なんじゃと!? ワシの応援の何が不満なんじゃ!」

「おじいちゃん、ちょっとは自立したら?」

栞代がすかさずツッコミを入れると、おばあちゃんが「はいはい」と、涼しい顔で唐揚げの皿を差し出した。

杏子は苦笑いしながらも、出されたご飯をしっかりと平らげていく。

「ごちそうさまでした! それじゃあ、午後からもお願いね、おじいちゃん」

「おお、ちょっとは休んだ方がいいぞ。ちょっとはゆっくりする必要がある」

とかなんとか、しつこいおじいちゃん。明日から合宿という事情もあり、杏子もある程度は譲っているようだ。しばらくどうでもいいようなおじいちゃんの自慢話を聞きながら、栞代は、おばあちゃんを手伝った。おばあちゃんからは、夕食のリクエストを改めて聞かれた。

いつもは遠慮していた栞代だが、少しずつ伝えだしている。

「茶碗蒸しと、パイナップル入りの酢豚ですね」

おばあちゃんは楽しそうに笑いながら。

「杏子と好みが似てるね」と楽しそうだ。

「それは、嬉しいですね」と栞代も楽しそうに返すと、おばあちゃんはさらに口角をあげて

「つまり、おじいちゃんの好みと同じってことになるのよ」と笑った。


再び車に乗り込み、中田先生の道場へと向かう道中。

栞代は後部座席で、隣に座る杏子の横顔をこっそりと盗み見た。

……午後からは、オレが矢取りに入って、あいつに弓を引かせてやるか。

午前中、杏子はオレに気を遣って、ずっと基礎練習に付き合ってくれていた。だからこそ、午後からはオレが裏方に回って、あいつが何も気にせず、ただ気持ちよく矢を放てる環境を作ってやろう。

杏子はもっと、自分のためだけにワガママに練習すればいいのに。


もっとも、その日、中田道場にいたのは杏子だけではなかった。

車が中田先生の道場に着くと、珍しく中田先生が迎えにでてきた。

おじいちゃんがちょっと緊張して挨拶を交わしたあと、杏子に向って言った。

「杏子、一緒に練習するって娘が来てるで」

その言葉に道場の方へ目を向けた。


「……なんでお前がいるんだよ」

つぐみがいた。


「別に。近くまで来ただけだ」

「弓具持って? それわざわざ学校に取りにいってまた持ってきてるやん」

「たまたまな」

「たまたま? わざわざ学校寄って弓具取ってきて、中田先生の道場の前まで来る高校生、なかなかいないぞ」

つぐみは答えず、ふいと顔を背けた。

「ここに、居たんだよ」

「つぐみは、別に中田先生と知り合いじゃないよな?」

「今日ちゃんと挨拶したから、もう知り合った」

「でも、練習したいなら、そのまま学校ですればいいやん」

「三年生がやってる中でできるか」

「つぐみなら、平気で割り込みそうやけどな」

「杏子には無理やろ?」

相変わらず目を合わせようとしないつぐみだった。だが、栞代はなんとなく分かってきた。

「つまり、杏子が練習するなら、ここやと」

杏子が学校で練習できない時は、中田先生の道場で練習する、というのは、弓道部では誰でも知ってる話だ。だが……。

「つぐみ、お前結構杏子のこと、見てるんやなあ」

「見てない」

「今の流れでそれは無理があるわ」

「うるさいわ」

つぐみはそう言って、道場の方へ歩き出した。

「負けたまま、私だけ休んでられるか」

つぐみの呟きは、はっきりと聞こえた。

振り返ると、杏子は嬉しそうだ。


つぐみは初めてだと言ったが、中田先生はどうやらつぐみのことを知っているようだった。杏子と並んで引いていると、的確な指摘が飛んでいた。

つぐみはバチバチに一つひとつに火花を散らしていたが、杏子はどこ吹く風だ。それにここは杏子のホーム中のホーム。圧倒的につぐみは不利だな。


練習を終えて、杏子が中田先生に言葉をもらいに言った後、杏子がつぐみを呼んだ。つぐみにも、中田先生は言葉をかけている。

二人はそのまま、道具の片づけをし始めた。

栞代は、ちょっと気になったので、中田先生に聞いてみた。

「中田先生はつぐみのことご存じなんですか?」

「ああ、栞代。拓哉が相談に来たからな。スカウトしたいって。あんな面白い子はなかなかおらんで。杏子にもいい刺激になるやろ」

中田先生は、いつものように本当に楽しそうに豪快に笑った。ちっちゃい身体にまったく似合わぬ、豪快さだ。


杏子とつぐみの元に行って、一緒に後片付けをする。

さっきまで一瞥もくれず、バチバチだったつぐみが表情を一変させて、杏子にいろいろと聞いていた。ここは杏子の育った場所だからな。

「学校に杏子の弓あったんやけど、まったく同じもの、ここにも置いてるのか?」

「うん。同じ銘柄で、弓力も合わせてもらってるの」

「弓力も強くはないし、カーボンにした方が矢勢は出るだろ」

「わたしには、まだ荷が重いみたい。今の弓は、中田先生が選んでくれたから。高校生になったら、学校とここで練習することになるって」

「そうか。まあ、弓道は道具でする訳ではないとはいえ、意外だな。麗霞なんか、現代の名工『飛鳥井宗仙あすかい そうせん』の特注品『白嶺』やで。ちょっと私らには手が出ないわ」

二人の言ってること、全然わからん。と思ったら、杏子もどうやら分かっていないようで、顔に「?」マークがはっきりとでていた。

昨日よりも早い時間だが、約束の時間通りにおじいちゃんが迎えに来た。つぐみが挨拶して帰ろうとした時

「明日早いから、栞代は泊まりに来るんじゃよ。つぐみさんもどうだい?」と声をかけた。

「あ、そうだよ、つぐみ、おいでよっ」

杏子の顔が弾んでいる。

「栞代、いいかな?」

「もちろん、つぐみも来いよ。オレ一人でおじいちゃんの相手すんの、もう疲れた」

「なんじゃとっ」

相変わらずの調子だったが、つぐみは戸惑っているようだ。

「いや、私は別に。明日の準備もあるし、家のこともあるし、それに急に行くのも迷惑だろうし、そもそも——」

「おうちの人には、今からおじいちゃんが挨拶に行くよ。ねっ、おじいちゃん」

「もちろんじゃ、さっ、乗った乗った」

つぐみは戸惑いながら、弓を慎重に車に載せていった。

「……迷惑じゃないなら」

ぽつりと呟いた。

「迷惑な訳なかろう」おじいちゃんが明るく応えた。

「あとは、お家の人が了解してくれるかどうかじゃな」

「それは問題ないよ」

つぐみの顔は少し寂しそうに見えた。


★★★


つぐみと揃って杏子の家に着くと、おばあちゃんが迎えてくれた。

「つぐみさん、いらっしゃい。遠慮しないでね」

初めてではないが、どうやら強気一辺倒なつぐみも、気をつかっているようだ。

お風呂のあとに夕食。

「ぱみゅ子〜っ! 優勝おめでとう〜っ!」

夕食の時におじいちゃんがいきなり叫ぶ。いや、これもう毎日やってる。

呆れながらも、何回目かの祝賀会兼夕食が始まった。

「ぱみゅ子の弓はワシが教えたようなもんなんじゃよ、つぐみさん」という嘘八百を並べ立ててはしゃぐおじいちゃん。

「いや、おじいちゃんは弓道やったことないやん」と、栞代は、お約束の突っ込みを入れる。

「つぐみにも聞かせたいんやな、そのボケ」呆れたように付け加える。つぐみは

「本当におじいさんが教えてたら良かったのに」と応えた。

「それ、どーいう意味じゃい?」とおじいちゃんが問いただすと

「こんなに上手くなかったって意味やん、おじいちゃん」と、後を引き取って栞代が言った。

つぐみも、ようやくこの雰囲気に慣れてきたようで、徐々におじいちゃんのボケに、栞代と共に突っ込み始めた。

「うう。二人揃うと、強力やな。ぱみゅ子、味方せんかいっ」

と、強引に杏子を味方に引き入れたが、杏子はただニコニコするばかりだ。



「……行かないでくれぇ……」


栞代とつぐみ、そして、杏子と揃って就寝の挨拶をしようとリビングに行くと、おじいちゃんがソファに突っ伏して、本気で泣きそうな顔をしていた。

「おじいちゃん、どうしたの?」

杏子が慌てて声をかけると、おじいちゃんは縋り付くように杏子の手を取った。

「ぱみゅ子……合宿じゃぞ!? こんなに長い間、わしを置いて、遠くに行ってしまうなんて……寂しくて干からびてしまうわい! 合宿なんて行かずに、家でワシとスイカでも食べよう!」

「そんなこと言ったって、部活だもん。それにわたし、みんなと一緒に弓を引くの、すっごく楽しみにしてるんだから」

杏子がなだめようとするが、おじいちゃんのストライキは止まらない。

「いやじゃいやじゃ! 練習ならここで中田先生のところに行けばいいじゃないかっ。拓哉コーチに電話して、わしが直談判してやる!」


出たよ、全国優勝レベルのめんどくささ……。

栞代は呆れるが、つぐみは、なにか珍しいものを見ているような、興味深そうな顔をしている。

おばあちゃんはもうすっかり慣れていると言わんばかりに、涼しい顔で編み物を続けている。

栞代はやれやれと肩をすくめ、おじいちゃんの前に立った。

「おじいちゃん、落ち着いてよ。中日に『休養日』があって、その日は家族が差し入れに来たり、見学に来てもいいらしいよ」

その瞬間、おじいちゃんの泣き顔がピタッと止まった。

「……なんと?」

「だから、合宿の途中で杏子に会える日があるんだよ」

栞代はニヤニヤしながら、わざと呆れたような声で付け加えた。

「でもさ、今回の合宿所、めっちゃ遠いよ? 車で何時間かかると思ってんの。いくらおじいちゃんでも、まさかあんな遠くまで、わざわざ来る気じゃないでしょ?」


栞代の挑発に、おじいちゃんはガバッと勢いよく立ち上がった。

「おお!? ぱみゅ子に会えるなら、ブラジルの裏側だろうが地獄だろうが、どこまででも行くに決まっとるわい!!」

さっきまでの涙声はどこへやら、おじいちゃんの顔にはギラギラとした活力が蘇っていた。

「おばあちゃんっ。 早速合宿所までのルートを調べるぞ! ホテルも取らないとな。泊まるところあるかなあ。差し入れは何が良いかのう! やはりワシの特製紅茶と……」


「……単純すぎるだろ」

栞代が思わず呟くと、横で杏子が「ふふっ」と嬉しそうに笑った。

「よかった。おじいちゃん、元に戻って」

「いや、戻ったっていうか、さらにパワーアップしてめんどくさくなってるけどな。」


機嫌が治ったところで、三人は今日のために用意された寝室に向った。

川の字になったところで、つぐみが呟いた。

「栞代、今日はやっぱり優勝したから特別なのかな?」

「いや、つぐみ、それがさ。いつもこの調子なんだよ。たまたま優勝があったから、それを口実にしてるけど、やれ天気が良かった、やれ杏子が始めて歩いた記念日とか、なんやかんやとあるんだよな」

と、栞代は呆れながらも明るく応えた。

「そうか……」

「つぐみも、遊びに来たらええやん」

つぐみの顔が少し沈んだので、思わず言ってしまった。

あわてて杏子に確認を取る。

「い、いいよな、杏子?」

「もちろんだよ。おじいちゃん、賑やかなのが大好きなんだ。というか、寂しいのが苦手なんだよね。だから、ほんとにいつでもきてね」

「そしたら、おじいちゃんの相手する時間が減って助かるもんな」

「いや、だから、栞代、それ違うってば~」

これまたお約束の会話だ。

「ほんとにいいかな」

「うんっ。もちろんっ」

「ま、明日早いから、寝よ」

栞代が最後に締めて、電気を消した。

「栞代」

つぐみが声をかけてきた。

「どうした?」

「引っ張ってきてくれてありがとな」

「それ、おじいちゃんだけどな」

「練習しに中田先生のところに行って良かったよ」

「そうやな」

栞代とつぐみが短く会話してると、すぐに杏子の寝息が聞こえてきた。

「寝つきいいなあ、杏子」

つぐみが呟いた。

「大物だからな」

栞代が返すと、暗がりの中で、つぐみが笑った気がした。



大会の余韻を乗せて、バスは山間の合宿所へと向かっていた。

後部座席に陣取る一年生たちは、思い出したように喋り続けている。

「あの競射、もう一回思い出しただけで緊張するわ~」

「あかね、あんた見てただけやん」

「つぐみ、見てる方が緊張すんねんで」

「いや、こいつ、そもそも緊張どころか、競射楽しんでたからな。異常女やで、異常」

栞代が混ぜ返すも、つぐみも負けていない。

「あほか、栞代。異常言うんやったら杏子やろ。そもそもあいつ、状況まったく分かってなかったで」

当の杏子は言うと、まゆとお菓子の交換をしている。平和なやつ。栞代は紬に振った。

「紬、どうよ?」

「それは、わたしの、課題では、ありません」


栞代が前方へ目をやると、上級生たちは静かに窓の外を眺めていた。流れていく杉林の緑が、車窓越しにその横顔を何度も横切っていく。


合宿所に到着すると、全員で手分けして荷物を運び入れた。冷房の効いた館内へ足を踏み入れた途端、沙月さんが大きく息を吐く。

「やっと着いたぁ……」

「まず部屋を確認してください。荷物を置いたら、時間までに食堂へ集合」

拓哉コーチの指示を受け、部員たちはそれぞれの部屋へ散っていった。

荷ほどきを終える頃には、山の向こうへ日が沈み始めていた。

食堂の窓からは涼しい風が入り込み、木々の青い匂いを運んでくる。長いテーブルには、川魚、そば、牛肉、山菜、色鮮やかな果物、デザートまでが並んでいた。

さすが、祝勝会を兼ねているだけはある。


部員たちから、抑えきれない声が漏れた。

「みんな、注目」

拓哉コーチが手を叩き、隣に立っていた女性を紹介した。

「こちらは神楽木綾乃さん。食事をはじめ、合宿中の生活面を手伝ってくださる」

「神楽木です。足りねえもんがあったら、遠慮しねえで言いに来ておくれ」

よく通る声だ。丸い頬を緩めて笑うと、目尻のしわがいっそう深くなる。

その笑顔を見ただけで、栞代は心地よくなった。


「食事の献立などは基本的にお願いしているが、当番の部員はしっかり協力するように。要望があれば、みんなで相談して決めてくれたらいい。……さあ、それでは約束していた祝勝会を始めよう。メンバーは立ってぐくれるか」


そう促され、杏子、つぐみ、瑠月さん、沙月さん、そして冴子さんが少し照れくさそうに立ち上がる。

「団体優勝。そして個人では、杏子さんは優勝、つぐみさんが準優勝、そして瑠月さんも六位入賞。本当に素晴らしい。おめでとう。

いつ覚めるかと思っていたら、まだずっと続いている。どうやら、夢ではないようだな」

軽く笑いが起きた。拓哉コーチも随分とご機嫌なようだ。

「綾乃さんと相談して、思いきり御馳走を用意してもらった。まずは乾杯をしよう。……花音部長」

指名された花音部長が、ジュースのグラスを持って立ち上がった。

「こういう時、大人はお酒を飲むんでしょうが、わたしたちはまだ高校生です。もしお酒なんて飲んだら、即刻大会出場が取り消しになってしまいますので……みなさん、今日はジュースで思いきり酔っぱらってください!」

少しおどけたその挨拶に、一同はドッと盛り上がった。

「乾杯っ!」

「いただきまーす!」

元気の良い声が食堂に響き渡った。ご馳走を前に次々と手を伸ばし、賑やかな笑い声を上げている。


「杏子、改めておめでとう!」

栞代は隣に座る杏子の肩をバシッと叩いた。「まさか一年生で二冠なんて、マジで凄過ぎだろ」

「ありがとう、栞代」

杏子は照れたように首を振りながら、はにかんだ。

栞代は向かいに座るつぐみにも声をかける。

「つぐみ。いよいよインターハイの個人戦出場だな。どうだ?」

「どうだっと言われてもっ。これから、練習だっ♪」

つぐみが、妙にリズミカルな古い歌謡曲のような節回しで、軽快に返してきた。

「……お前のジュースにお酒入ってないだろうな? 珍しくハイテンションだな」

栞代が呆れていると、杏子が「ふふっ、つぐみ、よくそんな古い歌知ってるね〜」と嬉しそうに笑った。

「杏子も知ってんの!?」

「うん。おじいちゃんが音楽好きで、車の中でいろいろ聴かされるから」

「紬は知ってるか?」

栞代が黙々と食べている紬に話を振ると、彼女は箸を止め、いつも通りの涼しい顔で答えた。

「それは、わたしの課題ではありません」

「出た! やっぱりそのセリフまでセットで聞かないとな〜!」

つぐみが手を叩いて笑う。ブロック大会で敗れた悔しさは当然あるはずだが、プリンの蓋を開けながら笑うその顔に、試合直後の険しさはもう残っていなかった。


ふと、杏子が静かな声でつぐみに話しかける。

「つぐみ。……ありがとう」

「へ? なんで杏子が私にお礼言うんだ?」

きょとんとするつぐみに、杏子はまっすぐな瞳を向ける。

「まさか、牛肉狙ってて、先にお礼を言う作戦か。絶対にやらんけど」

「違うよ~。つぐみが、大事なことを教えてくれたから」

つぐみは一瞬目を丸くして戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに照れ隠しのように大きな声を出した。

「いつまで言ってんだ、そんなこと。もう次の勝負は始まってんだよ」

言葉はいつも通りのつぐみだったが。

「……そんなことよりさ、このプリンすっごく美味しいから食べてみなよ!」

つぐみは、肉ではなく、プリンを強引に押し付けていた。



一方、花音たち三年生は、拓哉コーチと話していた。

「明日からは、インターハイに向けてラストスパートですね」

コーチの静かな言葉に、三年生たちは真っ直ぐに顔を上げる。

「よろしくお願いします」

誰からともなく声が揃った。

そして理子が続けた。

「私たちにこの機会をくれた後輩たちのためにも、絶対に予選を突破します。それに……本気で背中を押してくれた、拓哉コーチと滝本顧問の恩にも応えたいんです」

さくらがぽつりと言葉をこぼす。

「正直……五月までの自分たちを思い出すといやんなる」

そのため息に、花音は小さく首を振った。

「それはもう終わったこと。今、こうしてみんなが同じ目標に向かって頑張ってる。楽しいよ」

花音の声には、仲間を包み込むような深い優しさが滲んでいた。

「でも、本当にありがとう。私、みんなと一緒に全国大会に出られるなんて、ほんとに夢のよう。……後輩たちのおかげだけどね」

花音の言葉に、三年生たちの表情がグッと引き締まった。

「それに、拓哉コーチにも感謝しなきゃいけないよね。五月の練習試合の後、みんなのことに本気で向き合ってくれた。……あれがなかったら、きっと今の私たちはいないと思う」

さくらの言葉に、三年生全員が無言で深く頷いた。

「だから、今回の全国大会は私たちにとって、ほんとに大切な試合だよね」

花音が、手元のグラスを見つめながら言葉を続ける。

「これから弓道を続けるにしても、辞めてしまうにしても。この試合はきっと、私たちにとって一生の思い出になる。だからこそ、全力でやり切ろう」

「……そうだね。悔いのないように、やり切りたい」

三年生たちは互いに視線を交わし、グラスを握る手に力を込めた。

花音は一年生のテーブルを見た。

杏子、つぐみ、栞代、紬、あかね、まゆ。一年生たちが賑やかに笑い合いながら、料理を取り分けている。

「……やるだけだよね」

小さく呟き、花音はもう一度グラスを掲げて、三年生全員に向けて柔らかく微笑みかけた。



夜が更けていく中、部員たちの笑い声が静かな合宿所にいつまでも響いていた。


祝勝会がお開きになり、部員たちが三々五々、部屋へと戻り始めた頃。

杏子がそっと、栞代の袖を引いた。

「栞代。少し、付き合ってくれない?」

「ん? どうした」

「弓道場、見に行こうよ」


コーチの許可をもらい、二人は宿舎に隣接する弓道場へと足を踏み入れた。学校や中田先生の道場とはまるで違う、広々とした弓道場。

夜の冷たい空気が床板の上に沈み、外からは虫の声だけが聞こえてくる。

杏子は射位の位置まで進むと、弓を持たないまま足踏みを始めた。

胴造り。

打起こし。

引分け。

実際には何も持っていないはずなのに、その両腕の間には弓も矢も見える気がした。

「……明日まで待てんのかい」

栞代は呆れて笑い、杏子の隣へ並んだ。

そのさらに隣に、いつの間にかつぐみが立っている。杏子をぴったりマークしている女め。

「お前、いつからいたんだよ」

つぐみは答えず、黙って足を開いた。

三人分の衣擦れが、静かな射場に重なった。

じっとりと汗ばんできた頃、背後に人の気配を感じて振り返った。

暗がりの中に、花音さんをはじめとする三年生たちが立っていた。彼女たちは何も言わず、ただじっと見つめている。やがて、吸い寄せられるように列に加わった。

足が床を擦る音。

息を吸う音。

袖が動く音。

不思議な感覚だった。バラバラだった呼吸が、少しずつ、ひとつの大きなうねりのように同期していくのがわかった。


「おい、明日は早いんだ。その辺にして、もう寝る準備をしなさい」

いつの間にか背後から見ていた拓哉コーチの声で、栞代たちはようやく我に返り、道場を追い出された。



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