第4話 同じことば
その日の夜、ベッドに入っても、栞代の耳の奥にはあの初めて聞いた弦音が響いていた。
瞼を閉じれば、静寂を支配する杏子の一片の無駄のない、研ぎ澄まされ、それでいて流れるような姿が鮮明に蘇る。
たまらず起き上がり、栞代は部屋の姿見の前に立った。
記憶の中の杏子の動きをなぞるように、見よう見まねで両腕をゆっくりと持ち上げる。バスケで鍛え込まれた体幹が、弓道特有の未知の重心を必死に支えようと軋む。指先まで神経を尖らせて、何度も、何度も、見た動きを、そのままなぞる。少しでも違えば、やり直す。何度も、何度も。
翌日の放課後。練習が始まる前の短い時間、道場の隅で、栞代は思い切って切り出した。
「杏子、オレ、ちょっと練習してみたんだ。見てくれるか」
「えっ?」
杏子の目が丸くなり、花が咲いたように顔がほころぶ。だが、その直後、ふっと光が消えるように表情が曇った。眉を下げるその変化に、栞代は少し戸惑いながらも、昨日部屋で繰り返した動きをゆっくりと始めた。
両足を開き、息を吸いながら腕を上げていく。
杏子の視線が、全身を隈なく這うように辿っているのがわかる。口元をきゅっと結び、瞬きすら忘れたような真剣な眼差しだ。
見よう見まねの動作を終え、栞代はゆっくりと息を吐き出した。
……どうなんだろ。焼き付けた杏子の動きと、違わぬはずなんだけど。
所詮は素人の見様見まねだ。やっぱり違ってたのかな。
不安に駆られた、その瞬間だった。
不意に、視界いっぱいに杏子が迫ってきた。ドンッ、と栞代の胸に小さな身体が勢いよく飛び込んできた。
「お、おいっ!?」
バランスを崩しかけた栞代の背中に、杏子の小さな腕がギュッと回される。
「ごめん、すっごく嬉しくて……っ」
制服越しに伝わる杏子の身体は、微かに震えていた。
杏子はそっと身体を離すと、ほんのり赤くなった目で栞代を真っ直ぐに見上げた。
「私もね……昔、一人で隠れて練習してたことがあって」
言いながら照れくさそうに、えへへ、と笑う。
「弓の練習は、もっと大きくなったらって言われてたけど、早く練習したくて」
こみあげてくるものを抑えるように、杏子は二、三度、大きく息を吐いた。
「おばあちゃんにバレた時、絶対に怒られるって思って目をギュッと瞑ったんだ。そしたら……怒る代わりに、今みたいに、ぎゅってしてくれて……今、栞代の動きを見てたら、その時のこと思い出しちゃった」
杏子の瞳が、滲んでいく。
「……そ、そうなのか」
栞代は戸惑いながらも、黙って杏子の言葉を待った。
「栞代、バスケやってたからだね。ぎこちなさはあるけど、身体の軸がしっかりしてる。体幹が強いんだね。すごく綺麗だったよ。感動しちゃった」
そ、そうなのか。良かった。安心した。栞代は首の後ろをポリポリと掻いた。
「……お、おう」
「ねえ」
杏子が少し背筋を伸ばし、自分に言い聞かせるように真剣な声色になった。
「おばあちゃんと同じことを言うよ。これからは、必ず一緒に練習しようね。慣れるまで、一人では絶対にしないで」
その真っ直ぐな言葉と、制服の袖を掴む手の強さに、栞代は、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ああ、分かったよ」
栞代は照れくささを誤魔化すように、ふっと笑って応じた。
「ふふっ」
「なんだよ、また」
「だって、わたしもおばあちゃんと同じセリフが言えて、ほんっとに嬉しいんだもん。栞代、ありがとー」
目を潤ませたまま満面の笑みでそう言うと、杏子はもう一度、栞代の腕をギュッと掴んだ。
「ほんと、思い出しちゃった」
栞代は黙って頷いた。
「おばあちゃんと一緒に練習できるようになったもん。わたしと一緒だね。……栞代の弓道、始まったんだね」
こんな嬉しそうな顔されちゃ、こっちまで嬉しくなるな。
「ところで、杏子、何歳の時から練習始めたんだ?」
杏子は、首をかすかに傾けた。
背の高い栞代を見上げながら、ほんの少し顎を上げる。
そのまま、目を細め、唇の両端を上げた。
「……ひ・み・つ」




