表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/50

第3話 栞代の決意 後編

遅れて、道場にざわめきが戻った。

栞代は、その場から一歩も動けずにいた。視線はずっと杏子に固定されたままだ。


杏子は静かに弓を下ろし、ゆっくりと息を吐く。周囲のざわめきから切り離されたように、神棚へと向き直り、深く一礼した。

神棚から顔を上げた杏子の頬が、みるみる紅潮していくのが見えた。誰も声を掛けられない中、杏子はそそくさと弓を置き、矢取りに向かう。


たった今、圧倒的な空気を纏っていた少女とは別人のような、危なっかしい足取り。ぎこちなく歩くその背中を見ているうち、栞代の中で張り詰めていた気持ちが、ゆっくりと解けていく。


矢取りを終え、先輩のもとへ弓と矢を返す。

「ありがとうございました」

深々と頭を下げる杏子。

先輩は目をわずかに見開き、頬を赤くしながら、小さく頷いて声を掛けた。

「私、二年の三納冴子な。よろしく」

「同じく、松島沙月。凄かったねえ」

いつの間にか、ぴったりと冴子に寄り添っていた。


「は、はい。よ、よろしくお願いします。あ、あの、わ、わたし……」

「杏子ちゃん、杏子さん、いや、杏子でいいか。後輩だもんな」

冴子の声が明るい。

「どれぐらいやってるの?」

沙月の声も弾んでいた。


その光景を見て、栞代はようやく安心が身体全体に行き渡り、呪縛が解けた。すぐに杏子の元に駆けつけた。


「杏子!」

気づけば、息を切らして杏子の前に立っていた。言葉を探すが、うまく見つからない。ただ、目の前の小柄な少女をじっと見つめることしかできなかった。

しばらくして、栞代の口から絞り出すように出たのは、単純な一言だった。

「……すごいな」


杏子は、先ほどの射場で纏っていた空気が嘘のように、頬を真っ赤にして視線を落とした。

「あ、あの……、そ、その……」

その拍子抜けする反応に、栞代は堰を切ったように言葉を続けた。


「……なんだよ、これ。ずっと、やってきたんだな。努力してきたんだ。……すげえよ。あの目標、口だけじゃなかったんだな」

声がうわずり、動悸も止まらない。言葉が溢れる。

「あの雰囲気の中で()てるとか。精神力強すぎだろ。なんか、完全に見る目変わったわ」


杏子は慌てて、首も両手も必死で振っている。ぜんまい仕掛けのおもちゃのようなその仕草が、先ほどと同一人物とはとても思えない。同時に、その不器用さが栞代の目を惹きつけて離さなかった。


「ぜ、全然強くなんかないよ」

必死で声を絞り出す杏子が、栞代はもうおかしくて堪らない。


「ただ、おばあちゃんに言われてるの。『正しい姿勢で引くことだけ。中るかどうかはただ結果なだけ』って」

頼りなげだった杏子が、その言葉を口にする時だけは、どこか誇らしげだ。栞代はますます目が離せなくなっていく。


「……でも、それ、できる? 普通」

「何も考えない無心が一番らしいけど、そこまではなかなかね。今日はたまたま」

杏子は一段と顔を赤くして、照れ隠しのように頭を掻いた。

「そ、それに……」

「それに?」

「辛かったから。弓を引きたくなっちゃった」

幼子のように舌を少し見せる。

これが、つい先ほど道場の空気を支配したあの杏子か? その落差に、栞代の胸の奥から、ほんとに面白いやつだと、強烈な愛おしさが湧き上がってくる。


「なにがたまたまだよ。なにがちょっと弓を引きたくなっただよ。たまたまじゃないだろ、絶対」

興奮を抑えようと、栞代は意識して声を低くした。


「でも、きっと栞代が祈ってくれたからだよ。見ていてくれたからだよ。その気持ちが矢に乗り移ったんだね」

杏子は栞代の目を真っ直ぐに見た。

「ありがとう」


オレが来たことなんか、気がついていなかっただろうに。栞代はそう思ったが、それは口には出さなかった。


「いや……杏子の覚悟が、伝わってきたよ」

栞代は少し間を置いて、もう一度杏子を見つめた。

「なあ。弓って、楽しいか?」


「うん。すっごく、楽しいよ!」

杏子は即座に答えた。

「めんどくさいこと、煩わしいこと、嫌なこと、余計なこと、全部消えて、弓だけになるの。姿勢のことだけ考えて。静かで、気持ちよくて……大好きなの、その瞬間が」


こんなにころころと表情を変えて。どれだけ表情を持っているのか。身を乗り出し、早口で身振り手振りまで交えて話す杏子に、栞代は呆気にとられ、思わず目を瞬かせた。

……どれが本当の杏子だよ。いや、どれも本当の杏子なのか。

胸の奥で何かがじわりと熱く燃え上がるのを感じる。


やがて、栞代はゆっくりと、真剣に力強く頷いた。

「オレ、どこまでできるかわからないけど」

胸の奥が騒ぐ。足先に、力が入る。

その場で動き出しそうになるのを、かろうじて堪えた。

「全力でやってみるよ。……教えてくれるだろ」


杏子は大げさに首を振った。

「そ、そ、そんな。教えるなんてとてもできないけど」

そう言って、杏子は栞代の差し出した手を、ぎゅっと両手で包み込んだ。

「もちろん、わたしにできることは全力で協力するわ」


こんな顔もするのか。無敵だな、こいつは。

栞代も、ゆっくりと力を込めて握り返した。

その手に、栞代はふと違和感に気づく。

柔らかい掌の中に、硬い感触がある。

親指の付け根。皮膚が分厚くなっている。


さらに視線を落とす。

左手の親指と人差し指の間が、うっすらと赤い。


——ああ。

昨日は気がつかなかったな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ