第3話 栞代の決意 後編
遅れて、道場にざわめきが戻った。
栞代は、その場から一歩も動けずにいた。視線はずっと杏子に固定されたままだ。
杏子は静かに弓を下ろし、ゆっくりと息を吐く。周囲のざわめきから切り離されたように、神棚へと向き直り、深く一礼した。
神棚から顔を上げた杏子の頬が、みるみる紅潮していくのが見えた。誰も声を掛けられない中、杏子はそそくさと弓を置き、矢取りに向かう。
たった今、圧倒的な空気を纏っていた少女とは別人のような、危なっかしい足取り。ぎこちなく歩くその背中を見ているうち、栞代の中で張り詰めていた気持ちが、ゆっくりと解けていく。
矢取りを終え、先輩のもとへ弓と矢を返す。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる杏子。
先輩は目をわずかに見開き、頬を赤くしながら、小さく頷いて声を掛けた。
「私、二年の三納冴子な。よろしく」
「同じく、松島沙月。凄かったねえ」
いつの間にか、ぴったりと冴子に寄り添っていた。
「は、はい。よ、よろしくお願いします。あ、あの、わ、わたし……」
「杏子ちゃん、杏子さん、いや、杏子でいいか。後輩だもんな」
冴子の声が明るい。
「どれぐらいやってるの?」
沙月の声も弾んでいた。
その光景を見て、栞代はようやく安心が身体全体に行き渡り、呪縛が解けた。すぐに杏子の元に駆けつけた。
「杏子!」
気づけば、息を切らして杏子の前に立っていた。言葉を探すが、うまく見つからない。ただ、目の前の小柄な少女をじっと見つめることしかできなかった。
しばらくして、栞代の口から絞り出すように出たのは、単純な一言だった。
「……すごいな」
杏子は、先ほどの射場で纏っていた空気が嘘のように、頬を真っ赤にして視線を落とした。
「あ、あの……、そ、その……」
その拍子抜けする反応に、栞代は堰を切ったように言葉を続けた。
「……なんだよ、これ。ずっと、やってきたんだな。努力してきたんだ。……すげえよ。あの目標、口だけじゃなかったんだな」
声がうわずり、動悸も止まらない。言葉が溢れる。
「あの雰囲気の中で中てるとか。精神力強すぎだろ。なんか、完全に見る目変わったわ」
杏子は慌てて、首も両手も必死で振っている。ぜんまい仕掛けのおもちゃのようなその仕草が、先ほどと同一人物とはとても思えない。同時に、その不器用さが栞代の目を惹きつけて離さなかった。
「ぜ、全然強くなんかないよ」
必死で声を絞り出す杏子が、栞代はもうおかしくて堪らない。
「ただ、おばあちゃんに言われてるの。『正しい姿勢で引くことだけ。中るかどうかはただ結果なだけ』って」
頼りなげだった杏子が、その言葉を口にする時だけは、どこか誇らしげだ。栞代はますます目が離せなくなっていく。
「……でも、それ、できる? 普通」
「何も考えない無心が一番らしいけど、そこまではなかなかね。今日はたまたま」
杏子は一段と顔を赤くして、照れ隠しのように頭を掻いた。
「そ、それに……」
「それに?」
「辛かったから。弓を引きたくなっちゃった」
幼子のように舌を少し見せる。
これが、つい先ほど道場の空気を支配したあの杏子か? その落差に、栞代の胸の奥から、ほんとに面白いやつだと、強烈な愛おしさが湧き上がってくる。
「なにがたまたまだよ。なにがちょっと弓を引きたくなっただよ。たまたまじゃないだろ、絶対」
興奮を抑えようと、栞代は意識して声を低くした。
「でも、きっと栞代が祈ってくれたからだよ。見ていてくれたからだよ。その気持ちが矢に乗り移ったんだね」
杏子は栞代の目を真っ直ぐに見た。
「ありがとう」
オレが来たことなんか、気がついていなかっただろうに。栞代はそう思ったが、それは口には出さなかった。
「いや……杏子の覚悟が、伝わってきたよ」
栞代は少し間を置いて、もう一度杏子を見つめた。
「なあ。弓って、楽しいか?」
「うん。すっごく、楽しいよ!」
杏子は即座に答えた。
「めんどくさいこと、煩わしいこと、嫌なこと、余計なこと、全部消えて、弓だけになるの。姿勢のことだけ考えて。静かで、気持ちよくて……大好きなの、その瞬間が」
こんなにころころと表情を変えて。どれだけ表情を持っているのか。身を乗り出し、早口で身振り手振りまで交えて話す杏子に、栞代は呆気にとられ、思わず目を瞬かせた。
……どれが本当の杏子だよ。いや、どれも本当の杏子なのか。
胸の奥で何かがじわりと熱く燃え上がるのを感じる。
やがて、栞代はゆっくりと、真剣に力強く頷いた。
「オレ、どこまでできるかわからないけど」
胸の奥が騒ぐ。足先に、力が入る。
その場で動き出しそうになるのを、かろうじて堪えた。
「全力でやってみるよ。……教えてくれるだろ」
杏子は大げさに首を振った。
「そ、そ、そんな。教えるなんてとてもできないけど」
そう言って、杏子は栞代の差し出した手を、ぎゅっと両手で包み込んだ。
「もちろん、わたしにできることは全力で協力するわ」
こんな顔もするのか。無敵だな、こいつは。
栞代も、ゆっくりと力を込めて握り返した。
その手に、栞代はふと違和感に気づく。
柔らかい掌の中に、硬い感触がある。
親指の付け根。皮膚が分厚くなっている。
さらに視線を落とす。
左手の親指と人差し指の間が、うっすらと赤い。
——ああ。
昨日は気がつかなかったな。




