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第2話 栞代の決意 前編

「昨日は大変だったね」

弓具棚の前、二年生の松島沙月が矢を一本ずつ丁寧に拭きながら、隣の三納冴子にささやいた。

「うん。あの杏子って子、辞めなきゃいいけどな」


冴子は、まだどこか落ち着かない道場の空気を感じながら答えた。

新学期が始まって間もないため、2、3年生は放課後の練習開始まで時間に余裕がある。1年生はオリエンテーションを終えてから合流する手はずになっていた。

しかし、練習をするでもないのに、三年生たちは、早めに集まっている。冴子は嫌な予感がした。


「冴子、今、杏子ちゃん、更衣室に向かったみたい。真面目だよね、こんなに早く来るなんて」

沙月の言葉に、冴子はふと道場の入り口へ目をやった。


そこには、練習を始める気配など微塵も見せない一団が、壁に背を預けてたむろしていた。

中心にいるのは、3年生の西門理子。

彼女はスマートフォンを弄りながら、取り巻きの生徒たちと時折、陰湿で冷たい笑い声を上げている。


いつもは部室から出てこないのに。

冴子の胸騒ぎは強くなる。

通常なら、1年生が道場に揃ってから全体練習が始まる手はずだ。今はまだ、滝本顧問も拓哉コーチも来ていない。

その時だった。

更衣室から着替えを終えた杏子が、周りを気にしながら道場へ足を踏み入れた。


「あ……」

沙月が息を呑む。

そこには入り口を塞ぐようにして、理子たちのグループが「獲物」を待っていた。


「あら、メダリストさん。随分とお早いお着きね」

理子の低く、粘りつくような声が、静まり返った道場に響く。

スマホからゆっくりと顔を上げた理子の視線が、凍りついた杏子を真っ直ぐに射抜いていた。


「さぞお上手なんでしょうね。さ、見本を見せて貰いましょうか」


嫌な笑い声が道場に響いた。三年生たちが、いつの間にか新入生の杏子を囲んでいた。逃げ場を塞がれ、顔から血の気が引いていく杏子の姿に、冴子の胸がキリリと痛む。


またか。冴子は露骨に顔をしかめた。まだ栞代は来ていない。それに、花音さんと瑠月さんも来ていない。顧問が昨日体調を崩したから、様子でも見に行っているのか、と冴子は思った。


三年生たちは、じり、と間合いを詰め、逃げ場を塞ぐ。彼女らの視線がさらに杏子に粘りつく。


「あ、あの……?」

杏子の唇から声が漏れる。可哀想に。薄ら笑いを浮かべる三年生たちからは、今にも舌なめずりの音が聞こえてきそうだ。


冴子は、沙月に「コーチ呼んできて」と呟いた。


この部活に蔓延(はびこ)る、淀んだ空気。冴子は拳を握りしめ、空気そのものを切り裂くかのように、輪の中に割って入った。

「――ちょっと、すいません」


杏子の肩を引き寄せ、耳元で「コーチを呼んでるから時間を稼いで」と低く囁く。怯えたように冴子の背中に回って隠れる杏子の体は、小刻みに震えていた。

三年生たちの粘りつくような視線が、今度は冴子に突き刺さる。「メダリストさんは一人じゃ何もできないのかな」という嘲笑。「今度は冴子か。いいねえ、お仲間が居て」冴子はその言葉を真っ正面から受け止めるように、声の出所に向き合い、立ちはだかった。声も遮れればいいのに、と冴子は思った。せめて視線からだけでも守ってやりたかった。


早くコーチ来て。花音さんでも瑠月さんでも構わない。3年生たちの視線を浴びながら、そう冴子が願い続けていた時、ふいに、背後の杏子の気配が変わったように感じた。怯えていた空気が、ふわりと消えた。


「弓と矢を貸してください」

小さな声が耳元に届いた。小さかったが、もう震えていなかった。


振り返った冴子は、思わず息を呑んだ。さっきまで震えていた少女が、今は真っ直ぐに冴子の目を見つめている。その瞳には、恐怖も、戸惑いも、もう欠片(かけら)も残っていなかった。


冴子は何も言わず、自分の弓と矢を取りに行き、すぐに戻った。弓力、矢束は確認した。体格もほぼ同じだから、大丈夫だな。


冴子は再び、3年生たちの視線から守るように杏子の横に立った。杏子は自分のバックから胸当てを取り出し、慣れた手つきで付け、そして、古びた(ゆがけ)()めた。その手つきを見て、冴子は、杏子が経験者であることを確信した。


冴子は無言で弓と矢を差し出した。


杏子は深呼吸をしながら、ゆっくりと足踏みを行った。その瞬間、道場の澱んだ空気が、完全に変わった。


三年生たちの薄汚い笑い声が、ぴたりと止んだ。

杏子の足踏み、胴造り。その所作の一つ一つは見慣れた動作だ。だが。


その時、道場の入り口の扉が、激しく開いた。

「止めろよ!」

制服姿のまま、肩を上下させて飛び込んできたのは栞代だった。見ると、沙月が連れてきていたコーチに食ってかかってる。いつの間にコーチは来たんだろう。沙月も、じっと杏子を見つめたまま固まっていた。


「待て」

コーチの、低く、落ち着いた声が響いた。

コーチは一歩も動かず、杏子の姿を真剣な表情で見つめていた。その指先が、わずかに震えているのが見えた。息も荒い。興奮しているのが一目でわかる。あのクールなコーチが、新入生の構えに釘付けになっている。

栞代もまた、コーチに制された姿勢のまま、石像のように固まっていた。


道場が、耳が痛くなるほどの静寂に支配される。

杏子が弓を高く掲げ、ゆっくりと引き絞っていく。弦が軋む音が聞こえない。周囲がぼやけ、彼女の輪郭だけがくっきりと浮かび上がる。時間の流れさえ、切り離されているような、現実感がまるで無かった。

――離れ。


パァン。

乾いた、けれど重厚な弦音が響き渡った。

冴子は、放たれた矢が的の真ん中に吸い込まれていくのを見た。矢が的に届いたんじゃない。確かに吸い込まれていった。

一本。二本。

杏子は繰り返される映像のように、全く同じ動作を繰り返す。

三本。四本。

最後の一射が的に吸い込まれたとき、的の中心には、黒い塊が出来上がっていた。


「……すごい……」

冴子の口から、無意識に言葉が漏れた。

杏子の周りの空気が違うのがわかる。すぐそこに居るはずなのに、遙か彼方に見える。杏子の輪郭が、浮き上がってる。

コーチの目も、三年生たちの半開きの口も、そして、誰よりも早く助けに来ようとして、結局最後まで一歩も動けなかった栞代の瞳も。

そのすべてが、一人の少女、杏子という存在に、完全に射抜かれていた。


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