第2話 栞代の決意 前編
三年生たちの笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。入り口で、杏子は三度、深呼吸をした。足を踏み入れると、空気が、肌にまとわりついた。なんとか更衣室に向かい、杏子は一つ一つの動作に意識を向け、ジャージに着替えた。
しかし、道場に足を踏み入れた途端、杏子はすぐに三年生たちに囲まれた。彼らは、薄ら笑いを浮かべ、冷ややかな視線を絡みつけた。
「おまえ、金メダル取るってぐらいだから、相当上手いんだろ。手本見せてくれよ」
三年生たちは、じり、と間合いを詰め、逃げ場を塞ぐ。杏子は思わず息を呑む。彼らの視線がさらに粘りつく。
「あ、あの……?」
杏子はたじろぎ、身体が固まり、顔からは血の気が引いた。彼らは薄ら笑いを浮かべ、舌なべずりしていた。
(どうしよう……)
杏子の心臓が、うるさく鳴り始める。硬直した身体は動かすことができず、立ちすくむばかりだ。
その時だった。
「——ちょっと、すいません」
冴子が割って入った。
肩を引き寄せ、耳元で小さく囁いた。
「あいつら、言い出したら聞かないから。とにかく時間稼いで。
今、コーチ呼びに行ってるから」
三年生の囲みを割って入ってきた冴子。その声に、杏子の強張っていた身体に、徐々に血の気が戻ってきた。
三年生の一人が、面白くなさそうに舌打ちした。
「なんだよ。今日は、冴子がお守りか?」
「メダリストさんは、一人じゃいやだってよ」
視線が、冴子に突き刺さる。
冴子は杏子の前に立つように、わずかに体をずらした。
空気が、刃のように研ぎ澄まされる。
杏子は、冴子の背中でゆっくり息を整えた。——時間を稼ぐ。さっきの言葉を、頭の中で繰り返す。
「ありがとうございます……」杏子は呟いた。
(おばあちゃん……)
杏子は小さく一つ頷くと、顔を上げて冴子に言った。その瞳に迷いはなかった。
「弓と矢を貸してください」
杏子はいつもお守り代わりに持ち歩いている、祖母から譲り受けた胸当てと弽を取り出し、身に着け始めた。
(これでおばあちゃんと一緒)
冴子は、一瞬驚いたが、すぐに何かを悟ったように視無言で頷いた。そして、自分の弓と矢を静かに差し出した。
杏子は胸当てと弽を身に着け、弓と矢を受け取り、ゆっくりと的前に進んだ。深呼吸をしながら、ゆっくりと足踏み(立つ位置を決める動作)を行った。気持ちを落ち着けて、祖母の教えを思い出していた。
「正しい姿勢で引くだけ。中るかどうかはただ結果なだけ」
杏子は祖母の教えを心の中で繰り返し、呼吸を整える。彼女が的前に静かに立つと、道場のざわめきが、ふっと絶えた。
超然とした姿は、さきほどまで動揺を見せていた少女ではなかった。
道場の雰囲気を一変させ、その空気は三年生たちの動きをも止めた。
その時、冴子に頼まれた親友の沙月が、急いでコーチを連れて戻ってきた。
コーチは止めに入ろうとして——動きを止めた。
足踏みを終え、構えに入る杏子の姿に、目を奪われる。
「……これは……?」
「早く止めろよ!」
遅れて駆けつけた栞代が、コーチに詰め寄る。制服のまま、息を切らしていた。
だが、コーチは動かない。
「待て」
その一言だけで、栞代を制した。
杏子は、深く息を吸う。
打起し。
引分け。
淀みのない動きで、弓が引き絞られていく。
——会。
静寂。
誰も、動けない。
弦が鳴る。
矢は、吸い込まれるように——
——遅れて、的が揺れた。
道場は沈黙が支配した。しばし誰もが動けず、杏子から目を離すことができなかった。
杏子は、まるで同じ動きを繰り返した。
一本。
二本。
三本。
四本。
——的の中心に、黒い一点が生まれていた。
「……すごい……!」
やがて——
拍手が沸いた。
杏子は、我に返ったように、照れくさそうに笑った。
三年生たちは、半開きの口を閉じることもできず、ただ動けなかった。
栞代は杏子の姿を見つめたまま動けなかった。
胸の中で、何かが確かに反応した。




