第38話 ブロック大会個人戦決勝
決勝の舞台となる道場には、これまでの試合とは全く異なる異質な緊張感が漂っていた。
個人戦決勝の舞台に立った選手たちの背筋は、静まり返った道場の空気をさらに張り詰めたものにしている。予選を勝ち抜いた十二名の選手たち。その一人ひとりの静かな呼吸が、栞代たち観客席にまで重くのしかかってくるようだった。
決勝は『射詰』――一本ずつ引き、中て続けた者だけが残っていく。
外せば、その時点で優勝争いから退くことになる、残酷な競射だ。
杏子が静かに射位に立ち、静かに息を整える。その所作には一切の迷いがなく、放たれた矢は的の中心を射抜いた。
つぐみもまた、鋭い眼差しを的に向け、迷いなく放った矢が見事に中心を捉える。
続く矢野慧、日比野希ら、他校のエースたちも絶対的な安定感を見せ、初巡は全員が的中させた。一切の失敗を許されない中で、選手たちの気持ちはさらに限界まで引き絞られていく。
二射目。
続く緊張感の中、じわじわと外す者がでてきた。ここで二人。
三射目で二人。
四射目で一人。
変わらない杏子とつぐみ、そして瑠月さんは、堂々と的中を続けている。
その厳しさに残った選手たちの表情が引き締まる中、杏子だけは全く変わらない。
おばあちゃんから教わった「正しい射形」だけを意識し、余計な思考を一切寄せ付けていないようだ。その姿は、まるで風一つない静かな湖面のようだった。
つぐみからは、杏子を超える。そんな強烈な願いが、ビンビンに伝わってくる。
瑠月さんも静かだった。
呼吸を整え、表情を崩さないその姿は、これまで積み重ねてきたものを全部ここに表現しているように見えた。
残るは七名。矢野慧、日比野希、前田霞、桑原美香、そして光田高校の杏子、つぐみ、瑠月さん。
ここで、的が一回り小さくなる。
直径にすれば十二センチの差。
けれど、目の前に現れた二十四センチの的は、数字以上に小さく見えた。それまで的だった場所が、急に余白に変わったようだった。
的の変更に伴い、道場の空気が一段と冷たく張り詰める。
的の変更による重圧は計り知れない。わずかに力みが見えた前田霞の放った矢は、小さくなった的の外側をすり抜けた。通常の三十六センチ的なら、的中していた軌道だ。霞は静かに頭を下げ、誇りと悔しさが交錯した顔で射場を離れた。
続いて、瑠月さんが的の前に立つ。
いつもの落ち着きを見せてはいるものの、呼吸が普段より少し荒い。精神力を総動員して矢を放ったが……これまでの疲労がピークに達したのか、わずかに的を外してしまった。
「瑠月さん……っ」
桑原美香も外し、残るは四名。
矢野慧、日比野希。そして、光田高校のつぐみと杏子。
矢野の力強い射。日比野の正確な射、つぐみの鋭い射、そして杏子の美しい射。誰一人として崩れることなく、全員が二十四センチの的を射抜いた。
矢が放たれる。
――その瞬間、場内の空気が凍りついた。
矢野の放った矢は、かすかに的を逸れた。
観客席から悲鳴のような空気が流れ、道場にどよめきが広がる。
矢野は静かに弓を下ろし、深々と一礼した。彼女の肩が小刻みに震えるのが見えた。
つぐみの肩が、ハッと微かに揺れたのが見えた。
一方、杏子は相変わらず静かだった。場内のどよめきにも一切の反応を示さない。まるで意に介していない。ただ「正しい射形」のことだけを考え、次の一射への準備を整えている。
見事に集中しているようだ。だが、ここからだ。
残されたのは、日比野希、つぐみ、杏子の三人。
三人とも的中を見せ、勝負はさらに次の一射へもつれ込んだ。
次に射位へ立った日比野希は、杏子とどこか似た静けさをまとっていた。
だが、放たれた矢は、わずかに的の外へ逸れた。
県大会では、杏子はここで動揺した。同門対決に。
杏子……つぐみ……。
オレは祈るように手を組んだ。
杏子、乱れるなよ。つぐみ、お前の願いは叶うはずだ。
そこから先は、息をするのも忘れるほどの競射が続いた。杏子もつぐみも、一切の隙を見せずに的を射抜き続ける。まるでこの時間が永遠に続くかのように、二人の姿はどこまでも凛として、美しかった。
場内にはこれ以上ないほどの緊張が張り詰めていた。オレの横で、おじいちゃんが椅子の縁をぎゅっと握りしめ、指先が真っ白になるほど震えている。対して、おばあちゃんはいつものようにただただ穏やかに、祈るように杏子を見つめていた。
そして、ついにその時が来た。
つぐみの放った矢が、わずかに的の枠を外れた。
これで、杏子が中てれば優勝が決まる。だが、視線の先にある小さな的の意味も、優勝がかかっているという事実も、今の杏子には関係ないようだ。ただ、彼女の心にあるのは……。
正しい姿勢で引くことだけ。
杏子はゆっくりと矢をつがえる。その所作には、いつもと変わらぬ、いや、今までで一番の優美さがあった。
弓が引き絞られ、放たれる。
矢は美しい軌道を描き、迷うことなく二十四センチの的の中心へと吸い込まれていった。
パァンッ。
矢が的を貫いた乾いた音が、道場全体に染み渡った。
杏子が優勝したことを告げる音だった。残心のまま、静かに的を見つめている。
一拍遅れて、観客席から拍手が起こった。それはすぐに大きな波になり、道場を包んでいく。
それでも杏子は、眉一つ動かさなかった。ただ、凛とした佇まいだけがそこにあった。
◆
オレは急いで控室へと向かった。
扉の少し開いた控室の空気は、外の喧騒とは対照的な静けさに包まれていた。声をかけようとして、栞代は控室の入口で足を止めた。
窓際に立つつぐみの背中は、まだ硬かった。悔しさを飲み込んでいるのか、それとも次を見ているのか。栞代には、すぐには分からなかった。
杏子が声をかけた。
「つぐみ、ありがとう」
つぐみが杏子を一瞥した。
「昨日、いろいろと注意してくれて。……わたし、正しい射形のことだけ考えられたし、静かな気持ちで弓を引けて、本当に気持ち良かった。つぐみのおかげ」
つぐみは少し目を伏せ、それから強い眼差しで杏子を見つめた。
「外したのは、私の力不足だ。お前のことを考えすぎた。崩れるなよって。最高のお前でいろって言ったくせに、こっちが余計なことを考えた」
つぐみは小さく息を吐いて続けた。
「杏子、本当に美しかった。いらんことを考えすぎた。ちくしょう。それを含めて、悔しいが、今日のところは完敗だ。だが、今日のところは、だからな」
つぐみ節が戻ってきた。オレは壁の陰で密かに口角を上げた。
「杏子……次は勝つから」
「うん」
杏子の声が、弾んでいた。




