第31話 いつも通り
杏子の、優しすぎる悲鳴が響いた日。
期末テストが迫っていて、弓道部は部内試合だけで終了していた。
帰りが遅くなるときは迎えに来ていたおじいちゃんも、今日は家でおばあちゃんとともに杏子の帰りを待っている。
「ただいま~」
玄関を開ける杏子の声に、奥からおじいちゃんがすぐにすっ飛んできた。
「おお! ぱみゅ子〜、おかえり〜!」
靴を脱ぐ杏子の後ろに栞代と紬の姿を見つけると、おじいちゃんは一瞬驚いた顔になり、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「おお、二人とも来てくれたのか。ささ、上がって上がって」
杏子が着替えるために二階の自分の部屋へ向かうと、栞代と紬はリビングに残り、おじいちゃんとおばあちゃんに向き直った。今日ここへ来た一番の理由を果たすためだ。
栞代は、今日道場で起こった出来事をありのままに伝えた。
三年生たちの必死な姿。それを前にして、先輩たちの夢を壊す処刑人になることに耐えきれず、杏子が矢を落としてしまったこと。そして、瑠月さんを連れて行ってほしいと泣いて頼んだこと――。
その話を聞くうちに、おじいちゃんの顔がみるみる険しくなっていく。
「な、なんじゃと!?」
ドンッ、とテーブルが激しく揺れるほど拳を叩きつけた。
「そんな理不尽な話があるかっ! ぱみゅ子に……ぱみゅ子に、そんな辛い思いをさせるなんてっ!」
いつもニコニコとふざけているおじいちゃんからは想像もつかない激しい怒気。栞代は思わず肩をビクッと跳ねさせ、隣で怯えるように身を縮めた紬の肩を、ぎゅっと抱き寄せた。以前、おばあちゃんが言っていた「杏子のことになると、人が変わるのよ」という言葉は本当だった。
大きな声が聞こえたのか、杏子が二階から慌てて降りてきた。
「もう~。おじいちゃん、大きな声出さないでよ。怖いんだから~」
おじいちゃんは一瞬たじろぎながらも、まだ怒りが収まらない様子で言葉を詰まらせる。
「う、うむ……だが、しかしな、ぱみゅ子……っ」
その様子を見て、おばあちゃんが穏やかに割って入った。
「おじいちゃん。杏子ちゃんが受け入れてるんだから。私たちにできることは、それを認めてあげることだけでしょう?」
「し、しかし……っ。こんなの、あんまりじゃ!」
たまらず、栞代も静かに口を開いた。
「……おじいちゃん。オレたちも、本当にびっくりしたんだ。でも、一番ショックを受けて、一番傷ついてるのは杏子だよ。杏子は優しすぎて、どうしても先輩の夢を壊す矢が引けなくなっちゃったんだ」
膝の上に置いた拳に、爪が食い込むほどぎゅっと力が入る。
「オレも、正直めちゃくちゃ悔しいよ。でも……あの状態の杏子に、無理やり弓を引かせるなんて、絶対に間違ってる。そんなことは絶対に出来ない。杏子は、一番優しい答えを出したんだよ。ただ、その代わり自分の夢を一旦諦めることになったからさ。杏子が一番傷ついてるんだ」
しばらく、リビングに重い沈黙が続いた。
やがて、おばあちゃんが杏子に近づき、その小さな肩を優しく抱き寄せた。
「杏子ちゃん。本当にありがとう。……その気持ちだけで、おばあちゃんはもう、いっぱい、いっぱい幸せなのよ」
「おばあちゃん……」
「それに、まだまだ来年もあるしね。今は何より、杏子ちゃんのその優しい気持ちが、おばあちゃんはとても嬉しいのよ。誰かのために泣けるなんて、なかなかできることじゃないもの」
「そうは言っても、おばあちゃん……」
いまだに納得しきれないおじいちゃんに、おばあちゃんがピシャリと言った。
「おじいちゃん。もう終わったこと。それでいいじゃない。今おじいちゃんにできることは……そうね、今すぐ私たちに、とびきり美味しい紅茶を淹れてくれることじゃない?」
おじいちゃんはしばらく唸るように考えた後、盛大な溜息をついた。
「ううう……これ以上言うと、へそを曲げそうじゃ。おばあちゃんを一度怒らせたら、今日はもう口をきいてくれんからのう……。明日になれば元通りとはいえ、明日まで辛いのはごめんじゃ」
そう言うと、おじいちゃんは観念したように立ち上がった。
「ぱみゅ子の優しさはわしの遺伝だと証明されたことは良かったがな」
「うーん、それはどうかなあ。オレは絶対におばあちゃんの遺伝やと思うぞ」
もうすでに通常運転の栞代が突っ込むと、杏子と紬がクスクスと笑ってる。
「どちらの遺伝か。わしの美味しい紅茶を飲んで考えてもらおうかいっ」
「ちゃんと気持ちを落ち着けてよ。怒ってる人が淹れた紅茶は、なんか苦そうだからね」
おばあちゃんが優しく笑う。
◆
温かい紅茶が運ばれてくると、栞代は空気を変えるために話題を変えた。
「そういや、テストまであと少しだけど、杏子は何が苦手なんだ?」
「英語かなぁ」杏子は少し困った顔でカップに口をつける。「数学は小さいときからおじいちゃんが教えてくれたし、国語はおばあちゃんが本をたくさん読んでくれたから好きなんだけどね」
「英語か〜」
栞代はニヤッと笑い、少し考え込むふりをして言った。
「オレも英語は嫌いだけど、こう思うことにしてるんだ。『英語が話せたら、アメリカのかっこいい男の子と話せる!』ってさ」
その言葉に、おじいちゃんが即座に食いついた。
「ぱみゅ子!! そんな英語など、一生勉強しなくてよろしいっっ!」
その場が一瞬静かになり――次の瞬間、紅茶を飲んでいた紬がぽつりと呟いた。
「That’s not my issue. (それは、わたしの、課題では、ありません)」
「っ……ぶははははっ!!」
栞代が盛大に吹き出し、杏子もお腹を抱えて笑い出した。おじいちゃんとおばあちゃんもつられて笑い、張り詰めていた緊張はあっという間に消え去って、リビングには温かな空気が満ちた。
いつも通り、美味しい紅茶を飲んだあと、いつも通り、夕食も一緒に食べた。
いつも通り、おじいちゃんがボケて、オレがツッコミ、杏子が庇い、紬が呟く。
いつも通り、おばあちゃんがニコニコしながら見守っている。
いつも通り。
◆
食事が終わると、おじいちゃんが車で栞代と紬を送ってくれることになった。
いつも通り楽しい時間を過ごして、いつも通り帰る時は少し寂しい。
紬の家に着くと、杏子は車を降りて紬に真っ直ぐに向き合った。
「紬。今日は側にいてくれてありがとう。本当に嬉しかった」
紬は一瞬考えるようにしてから、小さく頷きながら言った。
「That’s my issue.(それはわたしの課題です)」
そして、杏子もそっと呟く。
「Thank you so much from the bottom of my heart.(心から、ありがとう)」
様子を見ていた栞代が、にんまりとしていた。
紬を見送って車に戻ると、杏子は栞代に向かっても深く頭を下げた。
「栞代も……おじいちゃんに報告してくれて、ありがとうね」
栞代は笑って肩をすくめた。
「ほんと、杏子のことになると見境なくなるって聞いてはいたけど、あんなに興奮するとはなあ」
すると、運転席のおじいちゃんが不満げに割って入った。
「栞代。わしゃいつも冷静沈着、決して感情を荒らげない『仏の生まれ変わり』と言われているんじゃぞ?」
その言葉に、栞代が思わず噴き出しながらツッコむ。
「誰が言ってるんだよ、そんなこと」
「わしじゃ」
ドヤ顔で言い切るおじいちゃんに、杏子もたまらず吹き出した。
「おじいちゃんが仏なら、オレはさしずめ天照大神かな? まったく杏子、ほんっとに大変だな。ずっと一緒にいてるんだもんなあ」
そう言いながらも、栞代はこんな温かい家族がいる親友を、少し羨ましく思って笑った。
「栞代、遠慮せんと、ずっとうちにいてもええんやで」
「本気にするで」
「栞代、わしは生まれてこのかた、冗談など言ったことはないんじゃ。真実の口と言われていて……」
まったく、このジジイは。でもいいよな。いつも、いつまでもこんなのがいいな。
ずっと。
いつも通りに。




