第30話 花音からの提案
県大会。光田高校弓道部は個人戦、団体戦優勝という快挙を達成した。
大会翌日。全国大会に向けた練習が再開される道場で、マネージャーのまゆから試合に出場したメンバー全員に手紙が渡された。声を出しにくい彼女が、思いを伝えるために、したためたものだ。
ユーモアを交えながら健闘を称える温かい文面に、杏子も嬉しそうに微笑んでいる。
一方で、男子部員たちに渡された手紙はすべて同じ定型文で始まり、最後には『まゆにちょっかいかけないように。あかね』というオチがつけられていた。男子たちが「ふざけんな!」と笑いながらツッコむのを見て、栞代も思わず吹き出した。
あかねとまゆらしい遊び心に満ちた、和やかな時間。
しかし、その和やかな空気は長くは続かなかった。
「……私、相談したいことがあるんだ」
それまで黙っていた花音部長が、膝の上で握っていた手をほどいた。
いつものような柔らかい笑みはなかった。唇はまっすぐに結ばれ、視線だけが、迷わず前を向いている。
栞代は思わず瞬きを忘れた。
あの花音部長が、こんな顔をするのか
そして彼女が口にした言葉に、栞代を含めた全員が耳を疑った。
「全国大会のメンバーを、もう一度、部内試合で決めてほしい」
道場の空気が止まった。
「何言ってるんですか、花音部長!」
最初に声を上げたのは冴子だった。
「私たち、このメンバーで県大会を勝ち抜いたんですよ。今さら、どうして……!」
「分かってる」
花音は全て受け止めていた。
「みんなが懸命な努力を続けてきたことも、全国への切符を掴んだのがみんなだってことも、ちゃんと分かってる。だけど」
花音の指先が、練習着の脇をぎゅっと掴んだ。
「でも、三年生たちも、鳳城との練習試合のあとから、本気で変わったの。遅すぎたのは分かってる。今さらだってことも分かってる。それでも、その努力を、もう一度試させてほしい。最後に、挑戦する場所をあげたい」
栞代は思わず拳を握った。
あの三年生たちは、入部したばかりの杏子を嘲り笑った連中だ。
確かに、地区予選に出てきたのは驚いた。県大会前日の応援には感謝した。だが、それとこれとはまるで違う。今さら少し本気になったからといって、全国を勝ち取ったメンバーの席に手を伸ばしていいはずがない。
確かに、花音部長は席を譲れと言っているのではない。
試合で決めてほしい。
そう言っている。
オレは試合には出てないから、実際に試合に出た先輩たちの気持ちは分からない。だが、とても納得できる話ではないだろう。
杏子はと見ると、驚きと戸惑いで目を丸くし、つぐみは黙っていたが、眉間には強い皺が寄っていた。
だが、花音部長は非難の声を浴びても変わらなかった。
「分かってる。今のレギュラーの方が圧倒的に強いことも分かってる。でも……いろんなことがあって、違う場所にずっと居たけど、最初からそうじゃなかった。一緒に入部したんだ。気持ちをリセットして、弓に向ってくれてたのは、本当に嬉しかった。一度だけ、一緒に的前に立たせてほしい。同じ目標に向って……」
悲痛な花音の叫びに、栞代は言葉を詰まらせた。
部長としてチームを引っ張ってきた花音が、どれだけ苦しんでこの提案をしたのか、痛いほど伝わってきたからだ。
冴子と沙月、瑠月が交互に視線を交わしていた。
栞代たち一年生も、同じように視線を交わした。
たまたま同じ場所に集まった。
たまたま同じ学年になった。
それでも、もう仲間だった。
オレたち一年生は、まだ半年も一緒にいない。
それなのに、もう誰か一人が欠けることを想像しただけで、胸の奥がざわつく。
花音部長は、二年以上もあの三年生たちと同じ道場にいた。
ずっと同じ場所にいた。でも、同じ場所に立っていたわけじゃなかった。
ただ単に、すれ違う時間を過ごしてきただけだ。
……だからこそ。
「同じ風景」を見る経験がしたい。そう願うのは、部長としてじゃなく、一人の同級生として当然のことなのかもしれない。
遅すぎだ。
でも、仲間だった。花音部長にとっては、ずっと。
拓哉コーチが引き継いだ。
「選手選考にあたっては、完全実力主義で行く。それが私の方針だ。私情、情実は一切関係ない。
春先までは人数的に、予備メンバーの選考だけだったが、現役部員である以上、三年生にも当然選抜試合に挑む権利はある。いいね、冴子さん」
指名された冴子はしかし、すぐには返事が出来なかった。
膝の上で握った拳が、わずかに震えている。
それでも、やがてコーチをまっすぐ見返し、小さく頷いた。
つぐみは鼻で笑った。
「はっきり実力で引導を渡してやればいいんだよ」
まあ、そうなるだろうな。三年生がどれだけ本気になったとしても、今のレギュラーに勝てるはずがない。
栞代はそう思っていた。
◆
今回の部内試合は、花音部長の希望で団体戦になった。
花音部長たち三年生チーム。
そして、県大会を勝ち抜いたメンバーから花音部長の代わりに瑠月を入れた下級生チーム。下級生とはいえ、それはほとんど全国大会に向かうはずだったレギュラーチームだ。
栞代は、団体戦になると聞いた時、違和感を覚えた。弓道は何が起こるか分からないという。個人なら、花音さんはもちろん可能性があるし、三年生の誰かが奇跡を起こせば、調子を落としたレギュラーチームの一人ぐらいは、上回る可能性はあったかもしれない。
しかし、今のレギュラーチームの力なら、団体戦なら、絶対に三年生チームに勝ち目はない。つぐみと杏子が居るんだ。なぜあえて団体戦なのか。
……もしかして。花音部長は、本気で三年生全員で全国に行こうとしているわけではないのか。ただ単に、同じ「風景」を見たいだけなのか。
同じチームで試合をすることで、ようやく全員揃い、納得して引退できる。
それが、花音部長の考えた最後のけじめなんだ。
だから、花音部長は自分の代わりに瑠月さんをレギュラーチームへ入れた。
三年生に最後の場所を用意しながら、瑠月さんにもまた、全国出場という最後の舞台を用意してくれたんだ。
花音部長自身は三年生側に立つ。
自分が全国に立つという夢を捨てて、三年生と、弓道部全体のことを考えたんだ。
弓道部の未来も、ちゃんと守る。
まいったな。……最後まで、部長なんだ。
道場には、県大会の時とは違う静寂があった。
誰も余計な話をしない。
弓袋を開く音、弽をはめる音、矢を確かめるかすかな音だけが、妙にはっきりと耳に届く。
栞代は、三年生たちの方を見た。
いつもなら誰か一人くらいは軽口を叩いていたはずなのに、この日は違った。
全員が黙ったまま、弦を確かめ、矢羽根に指を添え、何度も的の方へ目を向けている。
その横顔は、県大会前日の応援の時とも違っていた。
最初に、三年生チームが弓を引いた。
地区予選の時にも驚かされた。
けれど、この日の三年生たちは、あの時ともまた違って見えた。
ただ、足を置き、弓を構え、ひとつひとつの動作を確かめるように的へ向かっている。
栞代は、その姿から目を離せなかった。誰も、何かを取り返そうとしていなかった。
この場所に立てた。最後に、下級生たちの前で、自分たちの弓を見せることができる。それだけで、三年生たちはもう、十分なのかもしれない。どこか達観した雰囲気を感じた。
結果、的中数は地区予選時よりは多かったが、それでも短期間で急激に上達するのは、不可能だ。
そして、下級生チームの番。
大前の杏子が射位に進み出た。
いつもと変わらぬ、静かで美しい所作。だが、今まで何度も懸命に杏子の背中を見続けてきた栞代は、微かな異変に気づいた。
足踏みで的へ正対すると、静かに息を整える。胴造りは一見まっすぐだが、大三に移る動きは滑らかだったが、その滑らかさの奥に、微かな違和感がある。
弓手と妻手は左右に開き、弓は天へ向かって張りを増していく。引き分けに入ると、肩や肘の位置は整っているようでいて、どこか力の入り方が均一ではない。左肩はほんの少し上がり、右肘は十分に下りきらないまま、矢束が詰まり始める。
やがて会に入る。
矢は口割りのあたりで止まり、弓は張りつめ、胸の奥まで静かな圧が満ちる。視線は的に向いているのに、意識は的そのものを見ていない。呼吸は浅く、張りを保とうとするあまり、全身が微妙に硬い。
本来なら、会ではからだ全体がふくらみ、左右均等に伸び合う。だが彼女の会には、あと一歩で崩れそうだ。会で粘るほど張りは増しているのに、その張りが円く広がらず、どこか一点に偏っている。弓手の押しが足りないまま、妻手だけが離れを急かしているように見えた。なにより、いつもの空気がない。
その瞬間、矢はまだ離れていない。だが。
わずかな震え、詰まり。張り詰めた沈黙。やがて――。
カラン……。
静まり返った弓道場に、乾いた、軽い音が響いた。杏子の震える手から、矢が滑り落ちたのだ。
『失』。
「あっ……」
栞代の口から、小さな声が漏れた。
……まただ。
杏子……。
杏子は弓を下ろし、顔をくしゃくしゃにしてポロポロと涙をこぼした。その涙と『失』という事実で、レギュラー陣には、杏子の心がどう壊れたのかが痛いほど伝わっていた。
「……っ」
つぐみが、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「同情で矢を落とすな」怒りで震えていた。
「それは優しさなんかじゃない。弓道への冒涜だ」
杏子が顔を上げる前に、つぐみは弓を下ろした。
「そんなお前を、私はもうライバルとは認めない」
そう吐き捨て、つぐみは射位を降りた。
そして杏子に挑み掛かるように近づくつぐみに、栞代は慌てて駆け寄る。つぐみはギリッと一度強く唇を噛むと、怒りを押し殺すような、冷たく低い声で杏子に呟いた。
「勝負から逃げるな、杏子。優しさに隠れて、自分を捨てるな。そんなものは優しさでもなんでもない。ただの傲慢だ」
それだけ言うと、踵を返し、礼をして部室へ向って行った。
残されたのは二年生の三人だ。冴子、沙月、そして瑠月。
三人はしばらくの間、静かに顔を見合わせた。
そして、ゆっくりと弓を下ろした。
冴子が泣き崩れる杏子に歩み寄った。冴子はいつものように「お前は本当にしょうがないやつだな」と苦笑しながら、震える杏子の身体を強く抱きしめた。
「いいんだよ、杏子。……私たちを全国に連れて行くために、そんなに苦しい矢を引かなくていい」
沙月も優しく頷く。
「それに……三年生があんな凄い射を見せたらさ。全国でどこまで通用するか、見たくなっちゃった」
「……っ、ごめんなさい……ごめんなさいっ。わたし……」
「お前が居たから、ここまで来られたんだ。いいんだよ」
冴子は杏子の髪をくしゃくしゃにしながら、笑顔で言った。
「来年は行くぞ、全国」
そして、栞代に目配せし、沙月と連れ立って部室へ戻って行った。
栞代は、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じていた。
冴子さんと沙月さんは、杏子に巻き込まれて夢を諦めたんじゃない。壊れかけた杏子の心を守るため、自らの意志で身を引いてくれたんだ。
瑠月は、呆然として立ち尽くしていた。
我に返ったとき、慌てて冴子たちのあとを追おうとした。その瞬間、杏子が瑠月の袖を握って、首を振った。
声を出せない杏子に変わって、栞代が言った。
「瑠月さん、ちょっと待ってください」
下級生チームが棄権したことで、勝負は決した。
全国への切符は三年生チームに渡ることになる。
泣きそうな顔でとぼとぼと集まってきた三年生たちに向かって、杏子は涙を拭い、深く頭を下げた。
「あ……」
杏子は、真っ赤な目を三年生たちに向け、苦しそうな呼吸の中、声を絞り出そうとしていた。
だが、声にならない。
杏子の気持ちは手に取るように分かる。
栞代が続けた。
「空いている、あと一枠のメンバーには……瑠月さんを、入れてください。お願いします。瑠月さんにとっても、この大会が最後になりますから……!」
その言葉に、瑠月がハッと息を呑んだ。
花音は「……もちろんだ」と涙を滲ませながら頷き、拓哉コーチの方を見た。コーチは静かに頷いた。
瑠月は何度も首を振った。
声にはならなかった。
ただ、杏子を心配そうに見ていた。
杏子は、ただただ、何度も何度も首を縦に振って、瑠月に抱きついた。
……ほんとに、どこまで馬鹿なんだ。
辞退することは決して優しさなんかじゃない。実力がある者として立つ責任がある。敗れた者の涙を背負わなければならないんだ。
栞代は、泣き顔をしている杏子を見つめながら、心の中で悪態をついた。
杏子は、自分が我慢すれば済むと思っている。
でもそれは違う。特に団体戦ではな。
一人が勝手に降りれば、残された全員がその穴を背負わされる。混乱するだけなんだ。それに、おばあちゃんのために金メダルを獲るんじゃなかったのか。なんで自分ばっかり傷つけて我慢するんだ。
でも、それが杏子だよな。
だからこそ。……来年は、絶対に、オレがお前を支えてやる。
大好きな親友の背中を優しく撫でながら、栞代は強く誓った。
「瑠月さん、瑠月さんも最後なんだから、みんなの分も、悔いのないようにしてください」
栞代はそう言ったが、瑠月はただただ、戸惑うばかりだった。
そんな瑠月を花音に託し、栞代は杏子を連れて、部室に戻って行った。
部室に戻ると、冴子と沙月がひたすらつぐみを宥めていた。
栞代は杏子の側にぴったりと寄り添った。
続けて部室に入ってきた紬とあかね、まゆも、杏子の側から離れようとしなかった。
しばらく時間が止まったようだった。静まり返った部室に、コーチが瑠月を連れて入ってきた。
「期末テスト明けのブロック大会は、ここに居る五人で行く。花音部長は予備メンバーとして登録する。
本来なら全国大会の前哨戦となる重要な大会だが、今回は特別だ。三年生たちは、まだレベルに達していない。練習に専念して貰う」
そうして部員たちを見渡して言った。
「勝つぞ」
その宣言に全員が静かに頷いた。




