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第29話 県大会のあと

表彰式が終わり、光田高校弓道部のメンバーは会場の隅に集まっていた。

部員たちは団体戦の優勝以上に、口々に瑠月の健闘を称えている。拓哉コーチも「おめでとう」と声をかけ、祝福が瑠月に降り注いでいた。

自分は予備メンバーに回ったというのに、嫌な顔一つせずチームのために腐心してくれていた瑠月。彼女の優勝は、栞代にとっても自分のことのように嬉しかった。杏子のこともいつも気にかけてくれる、心から尊敬できる先輩だ。

だが、当の本人はと言えば、最後は同門対決になったからか、戸惑いを隠せない様子だった。


つぐみは既に気持ちを切り替えたようで、負けん気の強い笑顔を見せている。

「瑠月さん、全国ではお返しさせてもらいまずよっ」

おい、そんなこと言うか、と栞代は思いつつ、同時にいかにもつぐみらしいと思ったが、それは瑠月さんも同じようで、かえって安心したように

「つぐみちゃん、遠慮は要らないのよ」

と、少し笑顔が戻っていた。

だが、輪の端にいる杏子の様子がどこかおかしい。焦点の合わない目で宙を見つめ、どこか心ここにあらずといった様子だ。その痛々しい姿に、栞代は胸がきゅっと締め付けられた。

瑠月が杏子に歩み寄り、小さな声で尋ねる。

「杏子ちゃん、大丈夫?」

杏子はハッと顔を上げ、いつものように穏やかな声を取り繕って答えた。

「はい、もちろん大丈夫です。瑠月さん、本当におめでとうございます。これで全国大会ですね。私もまた一緒に練習頑張ります」

杏子はそう言って、無邪気な顔を見せて祝福の言葉をかけ続けた。


そのやり取りを見ていた栞代は、たまらず杏子に近づき、ぽんと肩に手を置いた。

「……杏子」

杏子は一瞬驚いた顔をしたが、やがて小さく、本当に小さく頷いた。

「……おばあちゃんとの約束、守れなかったな。正しい射形のことだけ考えるって……でも、瑠月さんのことやつぐみのことを思ったら、集中できなくなって……っ」

震える小さな声を聞いて、栞代はふっと笑みをこぼした。

「大丈夫、大丈夫。杏子だって、普通の人間ってことだよ」

「え……?」

「普通はな、そんなひとつのことだけ考えられないし、無心にもなれないもんだ。だからそれを目指すんだろうな。今回なんて、杏子の優しさが全面展開だろ。悪いことじゃないよ。わざと外したわけじゃないし、混乱しちゃっただけだろ?」

そして、栞代は少し真剣な顔になり、杏子の目を真っ直ぐに見た。

「ただ、これからもこういうことはあるかもしれないな。どうするかは、杏子が決めればいい。後悔しないようにしてほしい。それこそ……弓道の道からは外れるけど、わざと外す決断をしたり、辞退したりしても、オレは、味方だからな」

栞代は、そう言って、静かに杏子の肩を抱き寄せた。

杏子の身体は、微かに震えていた。


弓道部は学校に戻り、拓哉コーチの言葉通り、見事に優勝旗を持って凱旋した。簡単なミーティングをして解散した後、校門を出て帰路に着く。途中、杏子の祖父が車の横に立って待っていた。


祖父が後部座席のドアを開けながら、にこやかに言った。

「さて、栞代は一緒に来るとして、紬さんもどうだい? ちらし寿司と茶碗蒸しが待ってるぞ」

その言葉に、紬が驚いたように首を振った。

「そ、それは、わたしの、課題では、ありません」

「そんなこと言わずにさ!」栞代がすかさず腕を引く。

「杏子のおじいちゃんと話してると、笑っちゃうからさ」

「笑う、だと? わしゃ至って真面目に産まれてこのかた、冗談なぞ言ったことないぞっ。わしの口は真実の口と言われておってな……」

祖父がわざとらしく胸を張るのを見て、栞代が吹き出した。

「ほら、でたでた! 言ってるの、自分だけやろ?」

そのやり取りに紬も思わず笑みを漏らすと、杏子が静かに言った。

「紬、おばあちゃんのちらし寿司と茶碗蒸し、美味しいよ」

まだ少し元気がないようだ。

紬は少し迷った顔をしたが、そんな杏子を顔を見て、何かを感じたのか、

「これは……私の課題ですね」

そう言って、家に連絡を入れている。そして、

「茶碗蒸し。わたしの大好物で誘うなんて、断れません。よ、よろしくお願いします」

「よし、決まり!」

祖父が笑いながら運転席に戻り、家に居る祖母に電話で人数を伝え、全員が乗ったのを確認してから車を出した。


栞代は、腫れ物に触るような態度は、かえって杏子を追い詰めると思ったので、試合の話を持ち出した。

「ねえおじいちゃん、今日の杏子の射、見てたでしょ? どうだった?」

「もちろん見てたとも。ぱみゅ子はいつも可愛いのう。あれはぱみゅ子がまだ6歳のころじゃった。それはもう光り輝いて……」

まずい。こりゃ止まらん。栞代は遮った。

「いや、それはそうなんだろうけど、試合だよ、試合」

「ああ、そうじゃったの。久しぶりじゃのう、矢を落とすなんて」

「混乱しちゃって……」

杏子は視線を落とした。

「しかし、それもまた可愛いんじゃなあ」おじいちゃんがバックミラー越しににっこりと笑った。「あんなに可愛く矢をこぼすことができるのは、世界広しといえど、ぱみゅ子しかおらん。何度でも見たいぐらいじゃ」

さすが、おじいちゃんだ。栞代はそう思いながらも突っ込んだ。

「癖になったらアカンやろっ」

「ま、それもそやのう。何しても可愛いもんやから、ついのう」

そう言っておじいちゃんは笑い声をあげた。

「ま、もう終わったことじゃ。おばあちゃんを見てみい。どんだけ機嫌が悪くても、一晩寝たら、すっかり元にもどっとる。どれだけミスしても、すっかりご機嫌じゃ」

「それ、おばあちゃんのミスじゃなくて、おじいちゃんの悪さを水に流してくれてるってことじゃないの?」

すかさず栞代がツッコむ。祖父はバツの悪そうに、ごにょごにょ言っていた。杏子を見ると、一応、笑顔が戻っている。


「紬、今日は紙一重の勝負ばかりで大変やったなあ。最後は競射だし。もう少し楽に勝ってほしいもんだよな」

栞代が横を見ると、紬はふるふると首を振った。

「それは、わたしの、課題では、ありません」

その言葉を聞いた瞬間、栞代が吹き出した。

「それを聞きたかったんや」

紬はぎこちなく笑った。

「そんなに聞きたかったら、わしが言ってやるやないか」

「おじいちゃん、このセリフは、紬が言うから値打ちあるんやで」

「紬さん、そのセリフ、わしが言ってもいいやろ?」

「それは、わたしの、課題では、ありません」

紬がぽつりと繰り返し言うと、車内はまたドッと笑い声で満たされた。


玄関に到着し、一行が家に入ると、料理の準備をしてくれていた祖母が迎えてくれた。杏子の顔を見るなり、祖母は彼女をそっと抱きしめた。

「杏子ちゃん。とても美しい射形だったわ」

耳元でささやかれたその言葉に、杏子の目が赤くなったのを、栞代が横で見守っていた


食卓は温かさに包まれていた。

「さあ、遠慮せずに食べてね、栞代ちゃん。紬ちゃんも。お二人のお口に合うかしら?」

祖母が優しく声をかけると、栞代はニコリと笑った。

「ありがとうございます! いただきます!」

そう言って全員が食事を始めた。いつも通り、祖父がぼけて、栞代が突っ込み、杏子が笑う。

祖母が「紬ちゃん、大丈夫? うるさくない?」

と気づかうと、紬は一瞬、「そ・・・」と言いかけるが、さすがに祖母に対してはまずいと思ったのか、そこでむせた。慌てた祖母が水を出してくれている。栞代は、紬もやっぱり気をつかうんだな、と新しい発見をした。


食卓は笑い声で満たされていた。

祖母が片付けを始めると、栞代と紬が連れ立って手伝った。杏子を見ると、相変わらず祖父に捕まっている。これもいつもの風景だ。

栞代は祖母の方に振り返り、頭を下げた。

「おばあちゃん、ありがとう。ちらし寿司と茶碗蒸し、すごくおいしかったです」

「そう? 杏子の試合を見ながら考えてたの。夕食、何がいいかなあって」

おじいちゃんは分かりやすく杏子の一挙手一投足に反応していたのに、おばあちゃんは穏やかな表情で微動だにしなかったのは、夕食のことをかんがえてたのか。栞代はそう思うと、なにかおかしくなった。



栞代と紬をそれぞれの家に送り届け、車の中は杏子と祖父の二人だけになった。

夜道を走る車内は静かで、祖父が控えめにカーステレオのボリュームを下げた。杏子は窓の外を眺めていたが、心の中ではまだ、今日の試合の『出来事』のことが後を引いていた。


祖父はちらりと杏子を横目で見てから、静かに口を開いた。

「ぱみゅ子、今日は疲れただろう?」

「ううん、大丈夫」

杏子は笑顔を作りながら答えたが、その声にはどこか元気が無かった。

祖父はハンドルを握る手を少し緩め、落ち着いた声で続けた。

「無理するなよ。おじいちゃんには、ぱみゅ子が頑張りすぎ、急ぎすぎてるように見えるぞ」

「……そんなことないよ。わたし、まだまだだもん。もっと頑張らないと」

祖父は小さくため息をついて微笑んだ。


「ぱみゅ子、弓道は確かに大事だけどな。頑張りすぎて、自分を追い込みすぎるのはあかん。……ぱみゅ子が、弓道をいつ始めたらいいか、中田先生に聞いた時のことを覚えているかい?」

「今は、いっぱいやんちゃしろって言われたこと?」

「そうそう。あれは、当時はそんなに早く弓道だけの生活になっちゃあかんって意味だと思うんだけど、今も意外と通用する言葉じゃないかな」

「やんちゃするの?」

「そうじゃ。せっかくの女子高生なんじゃぞ。無駄遣いしちゃいかん。栞代とか紬さんとか、友達と弓だけじゃなくて、いっぱい遊ぶことも必要じゃ」


杏子は視線を前に戻し、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。

「……でも、やっぱりわたしは、もっと頑張りたい。おばあちゃんの夢だった団体戦の金メダル、どうしても取りたいんだ。おばあちゃんを喜ばせたい」

膝を握る指先が白くなるほど力がこもっている。その小さな声には、絶対に譲れない強い熱が宿っていた。

「その気持ちは素晴らしい。でも、頑張るってのは、ただ一生懸命にやるだけじゃないと思うぞ」

「……え?」

「休む時は休む、力を抜く時は抜く。遊ぶ時は遊ぶ。それも頑張るうちの一つじゃ。おばあちゃんのこと、中田先生は『やんちゃだった』って言ってただろう? ぱみゅ子は、やんちゃ方面が足らないなあ」


その言葉に、杏子は少し考え込んだ。

張りつめた糸が、今日、切れちゃった。

車内は静かになり、祖父は夜道を慎重に進んでいた。

まだまだ先は長い。

焦らないことは、必要なのかもしれないな。

やがて、杏子は、

「……うん」

とだけ返したが、祖父は満足そうに深く頷いた。


家に近づくと、玄関の明かりが暖かく迎えてくれるように灯っていた。車を停めた祖父は、杏子に微笑みかけた。

「さて、帰ったらもう一回紅茶飲むか。特別なやつを淹れてやろう。今日は頑張ったからな。ご褒美じゃ」

杏子も心の底からの笑顔を返しながら答えた。

「うん、おじいちゃん。ありがとう」


そう言って、玄関に入ろうとした杏子に、おじいちゃんが背中から声をかけた。

「そうだ、ぱみゅ子。いっぱい遊んべと言ったが、絶対に『恋愛』は御法度じゃっ! 男とは一切口を聞いたらあか~~~んっっ!」

さっきまでのいい雰囲気を台無しにする叫びに、杏子はクスリと笑った。

「コーチとも?」

「くっ……仕方ない。コーチだけは許してやろう。コーチだけじゃ」


この日の夜、全国大会の金メダルを、おばあちゃんの首にかけてあげる自分の姿を思い浮かべながら、杏子は眠りについた。

何度も、何度も。

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