第28話 県大会個人戦
団体戦が終わり、舞台は個人戦へと移った。
出場するのは、杏子、つぐみ。そして、瑠月。瑠月は、鳳城高校との練習試合以降、見違えるほど安定している。
だが、それでも、つぐみの目は杏子のみに向けられていた。
川嶋女子の日比野希、青竹高校の桑原美香もいい選手だし、海浜中央からの二人も全く侮れない。
だが、杏子だ。あいつを超えないと、麗霞には絶対に届かない。
杏子と瑠月が何かをチェックするように会話を重ねている中、つぐみははっきりと倒すべき相手と見なし、一人で自分のペースを作っていた。
個人戦の予選、準決勝、決勝と場面は進み、最後に残ったのは大方の予想通りの面々。競射に入る。
つぐみは最高に楽しんでいた。たぶん杏子との一騎討ちになるだろう。そして倒す。
そのシーンを想像するたび、つぐみは笑いを噛み殺すのに苦労した。
二位でも全国には行ける。だから、全国の舞台でも杏子と争える。麗霞も当然出てくるだろう。つぐみの目標はあくまで『個人優勝』だ。そして『打倒麗霞』。
杏子を見る。
あいつ……ほんと、意味が分かんないな。
刻一刻と変わるサドンデスのプレッシャーの中、杏子は他人の動向など一切気にせず、ただ『正しい姿勢』だけを考えて弓を引いている。「結果はたまたま」と言いながら、完璧に的の中心を射抜き続けている。その精神力は、もはや不気味としか言いようがなかった。
一射ごとに脱落者が出て、ついに残るは四人となった。
光田高校の三人(杏子、つぐみ、瑠月)と、川嶋女子の日比野希だ。
日比野もまた、杏子に似た「無心」の射をする見事な選手だった。
いつまでこの四人での競射は続くんや。
つぐみは不敵に口角を上げた。
たまらん。いつまでも付き合ってやる!
闘争心をむき出しにして弓を引こうとした、その時だった。
四人が互いに正確な射を続ける中――あの無心だった日比野希の矢が、わずかに的を外れた。
◆◆◆
(あ……)
日比野希の矢が外れた瞬間、杏子の心に小さな波紋が生まれた。
自分と似た匂いを感じる、あれほど無心に弓を引いていた希さんでも、外す時は外すんだ。
その事実が、ただ「姿勢」のことだけを考えていた杏子の意識を、ふっと現実世界へと引き戻してしまった。
少し落ち着こうと間を置いた時、ふと視界の端に瑠月の姿が入った。
瑠月さん、素晴らしいな……。練習通りの姿。一緒に的前に立てて、本当に良かった。
安定した射を続ける先輩の姿に、杏子は心から安堵した。
だが――杏子はふと、気がついた。
もし、瑠月さんが二位までに残れば、瑠月さんは全国大会に出場できる。
つぐみには、全国で麗霞さんと戦う夢がある。
その思いが頭をよぎった瞬間、射形のことだけを考えてきたはずの杏子の頭の中に、初めて「雑音」という強烈な意識が渦巻き始めた。
わたしの目標は団体戦での優勝。個人の勝敗は、べつにどうでもいい。……わたしがここで外したら、瑠月さんとつぐみが、二人で全国へ行けるんだ。
杏子は慌てて否定した。意識的に的を外すなんてできるはずがない。結果はどうでもいい、ただ正しい姿勢で引く。それがおばあちゃんから教えてもらったこと。
でも……瑠月さんは、栞代と一緒に、いつもわたしを守ってくれた。そんな瑠月さんを置いて、わたしが全国に行ってもいいの……? 瑠月さんは今年が最後なんだよ。
つぐみだって、夢の舞台が待ってるのに。
ぐるぐると回る。思考が支配する。大好きな先輩の事情。仲間の夢。
今まで一切の雑念を持たなかった杏子の心に強く渦巻く。弦を握る指先から少しずつ感覚を奪っていく。
一旦別のことに囚われると、もうどうしていいか分からなくなった。
弓を持つ手が震え、矢をうまく番えることができない。
だめだ。落ち着こう。あわてないで……!
そう思えば思うほど、動揺は激しくなっていった。
時間がかかりすぎている。場内がざわめき始める。
どうしよう……どうやって、引けばいいの……っ
頭が真っ白になった、その瞬間だった。
カラン……。
弓道場に、乾いた軽い音が響いた。
杏子の震える手から、矢が滑り落ちたのだ。
場内が、文字通り凍りついた。
『失』。矢を落とすことは、すなわち外れを意味する。
今まで機械のように完璧な姿を見せてきた杏子のあり得ないミスに、観客席の全員が息を呑んだ。
杏子は、静かに、深く頭を下げた。
胸の奥で何かが張り裂けそうだったが、おばあちゃんから教わった足運びだけは、無意識のうちに完璧な礼を保っていた。
◆
控室に戻った杏子のもとに、栞代が血相を変えて飛んできた。
「杏子! お前、どうしたんだよ。大丈夫か?」
「栞代……わたし……」
射場の方から、わあっと大きな歓声が聞こえてきた。どうやら決着がついたようだ。
やがて、興奮と疲労が入り混じった顔で、瑠月とつぐみが控室に戻ってきた。二人の顔から、瑠月が優勝したのだと分かった。
瑠月に、杏子は立ち上がっていつもの笑顔を見せた。
「瑠月さん、おめでとうございますっ」
瑠月は喜ぶより、杏子を気づかっていた。
一方つぐみは、眉毛をつり上げ激しく詰め寄ってきた。杏子の腕を取り、向き合った。
「お前……いったい、何があったんだよ! なんであんなところで……!」
「まあまあ、今日はもういいじゃないか。つぐみも二位、素晴らしかったぜ!」
栞代が慌てて間に入り、つぐみをなだめる。
つぐみはしばらくぐるぐると歩いたかと思うと「全国に向けて、いい教訓になったわ。何が起きても動揺したら負け。勝負から逃げるような負け犬にはもう興味はないっ」と、杏子を睨み、吐き捨てた。
杏子は自分をどう扱っていいのか分からず、ただうろたえるだけだった。
「……おばあちゃんに会いたい。おじいちゃんと話したい……」
怯えるように、ぽつりと涙がこぼれ落ちた。
栞代は、杏子の肩をぎゅっと力強く抱きしめた。
「……すぐに会えるよ。帰ろう、杏子」




