第25話 県大会一週間前
地区予選が終わった。中間テストも無事に乗り越えた。
全国大会出場を掲げた光田高校弓道部の挑戦は、いよいよ一週間後に迫った県大会へ向けて、さらに熱を帯びていた。
早朝の冷気とともに、部員たちが道場に集まってくる。時計の針は、まだ六時を指していない。
準備運動を終え、徒手練習を始めようとしていた栞代と杏子に、道場に入ってきたつぐみが目を丸くした。
「おはよう……ってか二人とも、いつも早いけど今日は特別早いな」
「つぐみもやん」
ぽんわかと笑う杏子に、つぐみが肩をすくめる。
「栞代は選手として試合に出るわけじゃないのに、大変だな」
「……まあ、この緊張感が好きでさ」
栞代は苦笑しながら答えた。
早朝練習の開始時間を早めての特別練習。「自由参加」とされていたが、結局は全員が早朝から顔を揃えている。誰もが、県大会突破という目標に向けて必死だった。
「今日から、朝練と放課後でこれまでの倍は引くぞ」
コーチの声に、全員が力強く頷く。
県大会という高い壁を越えるためには、圧倒的な積み重ねが必要だ。
だが、地区予選が終わっても、そんな杏子には一つだけ「偏り」があった。
これまでの通常練習では、杏子は頑なに「基礎練習」に徹し、複数人で流れを合わせる団体戦用の「立ち稽古」には朝練と居残りでしか参加しようとしなかったのだ。
あいつ、もう三年生はここに居ないっての。
団体戦において、他の選手と呼吸を合わせる練習は絶対に欠かせない。だが、杏子のあの頑固な性格を正面から説得するのは、普通の人間には無理だ。
そこで栞代は、ある「最強のカード」を切ることにした。
つまり、おばあちゃんへの根回しだ。
『おばあちゃん、杏子が通常練習に出るように言ってくれない?』と、栞代がこっそり直談判したのである。
その効果は、てき面だった。
「……三年生、いないから、バレないよね」
杏子は誰に言い訳するでもなくそう呟くと、あっさりと団体練習の輪に加わったのだ。
よしよし。全く世話が焼けるぜ……。
日を追うごとに、射位に並ぶ五人の呼吸がぴたりと合い始め、離れの弦音が美しいリズムを刻むようになっていく。この空気の同調ばかりは、一緒に的の前に立つ時間を重ねるしか道はなかったのだ。
「杏子ちゃん……やっぱりすごいわね」
瑠月が思わず感嘆の声を漏らす。
「なんというか、こっちもひっぱりあげられる感じ」
冴子も圧倒されたように見つめている。
栞代は、そんな杏子の姿を心底頼もしく見守っていた。
「花音部長! 私たちにできることがあれば、なんでも言ってください!」
一年生のあかねの言葉に、栞代が大きく頷き、紬はかすかに二度頷いた。
「ありがとう。でも、一年生は基礎練習をしっかりやってね。それが一番の助けになるから」
それでも、矢取りや、道具の手入れは積極的に手伝っている。紬は相変わらず無口ではあるが、黙々と道具のメンテナンスをこなしていた。
もちろん栞代も、約束通り杏子の専属サポーターとして、弓具の調整や矢の回収に走り回っていた。
最後の大会となる三年生の花音と二年生の瑠月の顔色は、栞代にもはっきりと分かるぐらい気合が入っている。
だが、そんな張り詰めた空気の中にも、光田高校らしい「笑い」は健在だ。
「ねえ、まゆ。今日の私、トップじゃない?」
練習を終えたつぐみが、記録をつけているマネージャーのまゆの元へやってきた。
だが、杏子が恐ろしいほどの連続的中を出しているため、つぐみは追い付けない。引いている本数自体も差がある。つぐみは、皆の前で冗談めかして言った。
「ねえ、まゆ。好きなチョコあげるから、私の外れた記録を『成功』に書き換えてよ。一回につきチョコ一個でどう? ×を〇に変えるだけで、チョコだよ?」
その言葉に、道場の空気が一気に和んだ。
「ちょっとつぐみちゃん! じゃあ、わたしなんてトラックいっぱいのチョコが必要になるじゃない!」
すかさず瑠月がツッコミを入れ、さらに笑いが広がる。
買収を持ちかけられたまゆは、声を出さずにクスクスと笑いながら、両手の人差し指で「×」を作ってつぐみに突き出した。
「あははっ! まゆ~、今の『ダメ』のポーズ、可愛すぎ〜!」
あかねが声を張り上げ、道場は温かい笑い声に包まれた。
真剣な練習と、リラックスした空気。
辺りが暗くなっても、道場の熱気は冷めなかった。
拓哉コーチが終了の合図を出す。
杏子が最後の一本を放ち、ゆっくりと弓を下ろす。
「今日は何本?」
片付けをしながら栞代が尋ねた。
「百は引いたと思うけど。まゆに確かめないと」
「すっげ。疲れない?」
「ちょっとね。でも、もっと引きたいくらい」
杏子の瞳は、真っ直ぐに輝いていた。
「でも、無理は禁物だぞ」
ふいに背後から拓哉コーチの声が降ってきた。
「明日もまた早いから、今日はしっかり休むように」
「はいっ」
道場を出て歩き始めた時、杏子がふと口を開いた。
「ねえ、栞代」
「ん? なに?」
「……いつもありがとう」
「……」
栞代は照れくさそうに頭を掻いた。
「おいおい。いちいち、いいって。杏子の頑張りを見てると、オレも負けてらんないって思うからさ」
肩を並べて歩き出す二人。
「おーい、杏子! 迎えに来てるぞー!」
校門の前で、冴子が声を張った。
見ると、そこには杏子のおじいちゃんが車を停めて待っていた。最近、練習で帰りが遅くなるため、毎日迎えに来てくれているのだ。
栞代はニヤニヤしながら杏子を小突いた。
「杏子、これからまたおじいちゃんの相手か。疲れるだろな〜。ほどほどにしろよ?」
「また栞代ったら~。わたし、おじいちゃんと話してると疲れが取れるのよ」
「無理するな。無理。絶対逆のはずや……」
「んも〜!」
杏子が頬を膨らませたその時、車の窓から身を乗り出したおじいちゃんが叫んだ。
「栞代! 聞こえとるぞっ!!」
「あら! 正直なもんで、すんません!」
その掛け合いに、部員たちがどっと吹き出した。




