第19話 三年生
練習試合から帰ってきたその日。白樹ヶ浜駅で部員たちを解散させた後、拓哉と顧問の滝本は連れ立って学校へと向かっていた。
連休最終日の夕方。二人は意を決して、部から足が遠のいていた三年生たちを呼び出していたのだ。
「来てますかね?」
歩きながら尋ねる拓哉に、滝本が小さく頷く。
「来てると思う。いつも通り、私は男子を、コーチは女子の説得をお願いしますね」
「わかりました」
夕暮れの弓道場の扉を開け、部室に入る。そこには三年生全員が揃っていた。
私服姿の彼女たちは、一様に不機嫌そうな、そして面倒くさそうな表情をあからさまに浮かべている。拓哉は小さく息を吐き、覚悟を決めて女子三年生たちの前に立った。少し離れた場所では、滝本が男子生徒たちを静かに話し始めているようだ。
「わざわざ休みの日に呼び出して、何なんですか?」
リーダー格の西門理子が、腕を組みながら冷たい声で口火を切った。
「どうしても来てくれって言うから来たけど……一応、うちら受験生なんですけど」
「休日に集めて、何の話があるんですか」
口々に不満を漏らす生徒たち。だが、誰も帰ろうとはしない。電話越しに伝えた『どうしても伝えたい話がある』という拓哉の真剣な声色に、彼女たちなりに何かを感じ取ってくれたのかもしれない。
「それで、鳳城との試合はどうだったんですか?」
一人の生徒が、探るように聞いた。
「負けたよ」
「……やっぱり。そりゃ無理でしょ」
呆れたような声が、乾いた笑いの中に紛れる。その冷ややかな空気から逃げることなく、拓哉は真っ直ぐに彼女たちを見据え、静かに、だがはっきりとした声で口を開いた。
「今日、君たちに集まってもらったのは、謝罪したいと思ったからだ」
「……謝罪?」
ざわついていた声がやみ、動きがピタリと止まった。
「私が去年、コーチとして来たとき、君たちの反発が大きいだろうことは、分かっていた。そのときの弓道部は“本気でやる部活”ではなかったのに、急に方針転換されたんだからな」
「……そりゃそうだろ」
誰かが小さく呟くのを受け止めるように、拓哉は言葉を重ねた。
「去年の三年生は、私が来たとたん、受験を名目にすぐに来なくなった。しかし、そのあとも時々顔を出しては、君たちが練習をしていないか確認し、練習しないように無言の圧力をかけていたよな」
女子生徒たちが、バツが悪そうにスッと視線を逸らした。どうやら図星だったようだ。
「それでも君たちは、最低限部活には来てくれていた。たとえ練習はしなくても。それだけに……私のやり方が間違っていたことを、ずっと後悔しているんだ」
「別に、ただ遊びに来てただけだよ」
西門理子はそっぽを向くようにそう言ったが、先程までの刺々しさは抜けていた。他の三年生たちは黙ったままだ。しかしその視線は足元に落ちることなく、真っ直ぐに拓哉へ向けられている。
「私自身、昔は弓道が義務だった。親に強制されてやらされているだけで、弓道が嫌いだったんだ。ただ、なまじ成績が良かっただけに、自分を騙しながら続けていた。だがそんなもの続く訳がない。そして、一度は反発して弓を捨てた」
静かな中、拓哉の声だけが響く。
「紆余曲折があり、弓に戻ったとき、本当は弓道が好きだったことに気づいた。嫌いなのは弓道じゃない。強制されることだった。その経験があるから、人に無理させるべきじゃないと思い、君たちにも強制はしないと決めていた」
拓哉は自分の過去の、ありのままの弱さを晒け出した。
「だが、それを理由にして、君たちに必要なことを伝えるのを避けてしまった。ぶつかることから逃げたのは、私の未熟さに他ならない。全て私の責任だ」
拓哉の真摯な口調が続く。
「知ってるように、去年の新入部員には徹底した基礎練習を課した。君たちも本来はそうするべきだという気持ちは、今でも間違ってはいなかったと思っている」
「コーチは厳しすぎたんだよ」
「結局、あれだけいた部員が、三人しか残らなかったじゃないか」
そんな反発の声も、拓哉は真っ直ぐに受け止めた。
そして、続けた。
「ああ。だが、『先輩』である君たちのプライドを考えれば、違うアプローチが必要だったんだ。国広花音さんがその壁を破って練習に参加したことで、私は自分のやり方が正しいのだと、間違った方に自信をもってしまった。だが、人にはそれぞれにやり方がある」
「まあ、あいつは本当に弓道をやりたがってたからな」
「何度も説得されてはいたんだよ」
少しずつではあるが、気持ちを話してくれている。
拓哉はかすかに頷き、続けた。
「当時は、逆にそれが、君たちにプレッシャーを与えてしまった。花音さんは確かに素晴らしかったが、君たちには君たちの、別のやり方があるはずだった。これは指導者としての私の落ち度としか言いようがない。本当に、申し訳ない」
深く頭を下げた拓哉に、重い沈黙が落ちた。
やがて、腕を組んでいた西門理子が、声を和らげて尋ねた。
「……それで、何が言いたいの?」
拓哉は頭を上げ、一呼吸置いてから言葉を紡いだ。
「予選まであと一ヶ月もないが。もう一度、本気で弓道をやってみないか?」
「え?」
生徒たちが一斉に目を丸くする。
「今更……?」
「そうだ。今更だ。そして、最後のインターハイ予選に出てみないか」
「いや、もういいよ。無理だし」
即座に否定の声が上がる。だが、拓哉は引かなかった。
「たとえ結果として矢が中らなくても、高校の部活の総決算として、その結果を持って卒業してほしいんだ。単に遊びたいなら、わざわざ弓道部に入ることもない。君たちの中に、弓道をしたいという気持ちが、もうまったくないのならもう話は別だが」
「そりゃ、買い被りだよ」
「なんか弓道着、袴姿がはかっこいいとか、それだけで入ったんだよ」
そんな声を聞いて、拓哉は穏やかに笑う。
「君たち、杏子さんの印象が強すぎただろうが、今年の新入部員たちの入部動機を聞いてなかったのか?」
「え?」
「みんな、動機なんて大したことないんだ。そんなもの問題じゃない。杏子さんは特別だよ、特別」
三年生が顔を見合わせて、ふっと表情を弛めた。
「でも、今更そんなの格好悪いじゃん」
「確かに格好悪いかもしれない。だが、今の君たちも相当格好悪いぞ」
「な、なんだよそれ」
むっとしたように睨みつけてくる生徒たちに、拓哉は熱を込めて言った。
「一生懸命やってもダメな格好悪さを選ぶか。何もやらない格好悪さを選ぶか。それは君たちの自由だ。だが、今まで何もやらなかったのなら、一回ぐらいは『やってみる格好悪さ』を試してもいいんじゃないか?」
再び、道場に沈黙が降りた。
一生懸命やることは、それだけでもう十分に格好いいんだ。
拓哉は心の中でそう叫びながら、この思いが彼女たちに少しでも届くことを祈った。
やがて、一人の女子生徒がため息混じりに呟いた。
「……コーチの言いたいこと、分かるけどさ。でも、今更一年生に混ざって練習するなんて、恥ずかしいよ」
来たな。
拓哉は心の中で小さくガッツポーズをした。彼女たちは決して弓道が嫌いになったわけではない。思春期特有のプライドが邪魔をしているだけなのだ。
「それについては、ちゃんと考えてある」
「え?」
「この近くに、先代の顧問の先生が開いている個人の道場がある。そこで練習すれば、下級生には絶対に気づかれない」
「ほんとか?」
「もちろんだ。全員懸命にこの道場に毎日籠もるだろう。違うことを考える余裕なんてありゃしない」
そして力強く続ける。
「しかも先代の顧問なだけに、高校生を教える達人だ。さらに、私を救ってくれた恩師でもあり、また、杏子をここまで育てた立役者でもある」
「杏子を?」
予想外の名前に、生徒たちの表情がパッと変わった。
「そいえば、あいつ、試合はどうだったの?」
「皆中だったよ。見事だった。だが、たぶん、君たちの前で弓を引いた時の方がプレッシャーはキツかっただろうね」
「そっか……。さすがだね」
苦笑いしつつも、素直な感嘆の声が漏れる。
「君たちもずっと横目で見ていて、杏子さんの射法八節の美しさに目を奪われはしなかったか?
彼女の姿勢の美しさは別格だ。私自身あれほどの姿はなかなかお目にかかれない」
拓哉の言葉に、三年生たちは頷き、改改めて感嘆していた。
「その杏子さんを一から育てた恩師のところで、やってみないか」
「杏子の、妹弟子ってことになるの?」
「……それ、なんかちょっとヤだな」
冗談めかした生徒の言葉に、空気がふっと緩んだ。
「どんな初歩の練習からでもやり直せる。恥ずかしがることは何もない。そこを使えば、誰にも知られずに最後の試合に向けて練習できる」
彼女たちは顔を見合わせ、やがて西門理子が小さく息を吐いた。
「……考えておくよ」
「!……ありがとう」
拓哉は再び、深く頭を下げた。
「今日は来てくれて、話を聞いてくれて、本当にありがとう。強制はしたくないという思いから君たちを放置してしまったこと、本当に謝りたい。だが、今ならまだ時間はある。残り少ないということは、まだ時間はあるということなんだ」
「だから、一応は考えるけど……そこの練習は絶対にバレないんだよね?」
「ああ。絶対に大丈夫だ。君たち自身が言わないかぎりは」
「なるほどね」
「私に対する複雑な思いもあるだろうから、全然知らない先生に教わるのが君たちにとってもいいと思う。指導力は折り紙付きだ。明日、部活に来てくれたら、その時にタイミングを見て道場へ案内する。来るまで待つから」
拓哉は最後に、彼女たちの目をしっかりと見て言った。
「臭すぎる言葉だが……君たちには、本当に可能性がある。それを忘れないでくれ」
その言葉を聞いて、三年生たちはそれぞれ複雑な思いを胸に道場を後にした。
歩き去る彼女たちの背中を、グラウンドに落ちる夕陽が柔らかく照らしている。ふと視線を横に向けると、少し離れた場所で、滝本顧問も、男子生徒たちを、穏やかな顔で見送っているところだった。
拓哉は大きく深呼吸をし、茜色に染まる空を見上げた。




