第18話 紬の訪問その2 杏子の軌跡。
「わしは、ぱみゅ子に言ったんじゃ」
祖父は遠くを見るように目を細め、静かに語り始めた。
「なぜ、ぱみゅ子は金メダルを獲りたいの? ってな。すると『おばあちゃんにプレゼントしたいから』と答える。
なんでおばあちゃんにプレゼントしたいの? と聞けば、『おばあちゃんを喜ばせたい。喜ぶ顔が見たいから』と。
そこでわしは言ったんじゃ。……おばあちゃんは、金メダルをプレゼントしないと喜んでくれないの? それがおばあちゃんが一番嬉しいこと? とな」
「それで……杏子さんはなんて答えたんですか?」
紬は思わず、栞代と一緒に身を乗り出していた。
「ぱみゅ子は、じーっと黙っておった」
そういったあと、祖父はゆっくりと微笑んだ。
「わしはこう言ったんじゃ。金メダルを獲らなくても、弓を引かなくても、おばあちゃんは、ぱみゅ子が笑っているだけで十分幸せなんじゃ、と」
祖父の言葉には、深い愛情が滲んでいた。
「いや、目の前にぱみゅ子が居るだけで嬉しいんじゃ。いや、目の前に居なくても、元気にさえしていれば。いやもう、元気じゃなくても、たとえ目に見えなくても、声が聞こえなくても……ぱみゅ子が居る、生きてるだけで、もうこれ以上ないくらい幸せで、嬉しいんじゃ。それは、おじいちゃんも一緒なんじゃ、とな」
紬の胸の奥がじんわりと熱くなった。無条件に、ただ存在していることだけを全肯定してくれる。そんな愛情があるなんて。
「そう言った時、ぱみゅ子はもう、ぽろぽろ泣き出してな。それでわしゃオロオロしてしまったんじゃが、その時にぱみゅ子が言ったんじゃ。『もっと喜んで欲しいもん。おばあちゃんがやってた弓をやりたいもん。いつか一緒にやりたいもん』とな。頑固の血筋が分かるじゃろ?」
祖父は嬉しそうに目尻を下げた。
「そこで、わしも諦めた。ぱみゅ子が弓をやるのは、ぱみゅ子が決めたことだから、それでいい。では金メダルは? 金メダルは所詮、誰かと比べた結果に過ぎん。ぱみゅ子の気持ちは、他の人と比べられるものかい? 誰かほかの人の物差しが必要なのかい? 違うじゃろ。自分の力だけでできること。それは、きちんと正しい姿勢で弓を射ること。そのことだけじゃ。だから、的に中るかどうかは――」
「――ただ、結果なだけ」
背後から、不意に声が重なった。いつの間にか着替えを終えて戻ってきていた杏子だった。
「んも~、おじいちゃん! 何を話してるのよ~。恥ずかしいからやめて~~」
杏子は頬を真っ赤にして口を尖らせた。
「ほっほ、すまんすまん。だが、どんなことでもぱみゅ子のことは自慢なんじゃよ。ついつい自慢してしまうんじゃ」
祖父が笑いながら肩をすくめると、部屋に和やかな笑い声が広がった。
……そうか。
杏子が言っていた「結果よりも姿勢」という言葉は、杏子自身が乗り越えて辿りついた信念でもあったんだ。
「そもそも、おばあちゃん、的に中っても褒めてくれないけど、ちゃんと姿勢が正しい時は必ず褒めてくれるんだよね」
杏子が照れくさそうに笑う。
「やっぱり褒めてもらうと嬉しいし、おばあちゃんが喜んでくれるともっと嬉しいし。もう、嬉しいだらけなんだよね」
「でも、おばあちゃんは杏子が動いているだけで嬉しいんだから。ほんと、大甘なんじゃよなあ」
「よー言うわ。おじいちゃんはもっと大甘やん。そもそも杏子がおじいちゃんに大甘だから、まさにここは『大甘一家』だな」
栞代のツッコミに、祖父と、タイミング良くクッキーを持って戻ってきた祖母が声を揃えた。
『正解っ!』
息の合った二人に、紬も思わず口元を綻ばせた。
祖母は微笑みながら、テーブルの中央にクッキーの皿を置いた。「矢が的に中るかどうかは、ほんとにただの結果に過ぎないのよ。確かに、中らないということは、どこか姿勢が崩れている証拠。本当は『どう外れたか』で『どこが悪いか』が分かるようになれば一番良いのだけれど、最初はそこまで言うと頭が混乱しちゃうでしょう? だから『正しい姿勢』のことだけを伝えるのが、中田先生流ね」
「姿勢が悪いから中らないんじゃなくて、中らないから姿勢が悪いってことだな」と祖父が付け足したが。
「卵が先か鶏が先か、みたいな話だな。今のオレには全くワカラン!」
栞代が笑うと、みんなも一緒になって笑った。
「でも、金メダルは絶対に獲るんだから!」
突然、杏子が真剣な瞳で言い切った。
(ああ、やっぱり杏子さんはすごく頑固だ)
紬が心の中でそう思うと、隣の栞代も呆れたように笑いながら「はいはい」と、何度も頷いていた。
「あの、それで……杏子さんはどれくらいで中るようになったんですか?」
紬はおずおずと尋ねた。どうしても聞いておきたいことだった。
「中田先生がな、なかなか弓を持たせてくれなくてな。それに、最初ぱみゅ子が弓を持った時は、中てることばかり考えてたから、ほんっとに、全くもう……矢は落とすし、届かないし。中ったと思ったら隣の的じゃったし、もう、全っ然ダメじゃったなあ」
「ちょっ、おじいちゃん、ひど~い! そこまでバラさなくてもいいじゃないっ」
「いや、だってぱみゅ子の外し方も自慢なんじゃよ~~」
祖父は笑いながら続ける。
「で、弓道を始めてから安定して中るようになったのは、ようやく去年くらいじゃないかな。つまり、ちゃんと練習を始めて五年はかかっとるな。もちろん時々中ることはあったけど、『だいたい中る』ようになるまで、時間は掛かったなあ。でも、中田先生とおばあちゃんは最初から、そしてぱみゅ子もちゃんと話をしてからは、全く焦ることは無かった。ひたすら、弓と矢を持った姿勢の練習じゃったな。弓の練習も確かにそうじゃが、焦らず続けた、というところがぱみゅ子の非凡なところじゃな。むしろ、ほんとに中る日が来るのかと、わしが心配してたわい」
「そうなんだ……焦りは禁物か」
栞代が納得したように頷く横で、紬の胸の中にあった冷たい石のような「不安」が、スッと溶けていくのを感じた。
あんなに凄い杏子さんでも、そんなにかかったんだ。焦る必要はないんだ。
「だからわたし、基礎練習が本当に好きで、正直それだけでも十分楽しいの」
杏子が笑顔で言う。
「基礎って土台で、それができてないと何も成り立たないって言われるでしょう?まるでこれから先のためだけの練習みたいだけど、そもそもわたし、基礎練習だけでも結構満足してるんだ。矢、要らないくらい」
「それに、何も持たない徒手練習なら家でもできるし、おばあちゃんに見てもらって、褒めてもらえるもんな」
栞代がニヤリと指摘すると、杏子の顔が一気に赤くなった。
「ば、ばれた?」
「杏子は、おばあちゃんが本当に好きなんだなあ」
栞代が笑うと、祖父が必死な顔で割り込んできた。
「栞代、杏子はな、ほんとはわしのことが一番好きなんじゃぞ。なんといっても、大きくなったらわしのお嫁さんになるって言い続けているんじゃからな」
とんでもない爆弾発言だが、当の杏子はいちいち反応すらしていない。もう聞き飽きているお約束のやり取りなのだろう。騒がしくて、どこまでも大甘な家族。他人に頼らないと決めている紬にとって、羨ましいとまでは言えない。けれど、この温かい空間の片隅に座っていることが、なぜかひどく心地よかった。
「でも、つぐみは全く違うな」
栞代が突然真剣な表情になる。
「あいつは中てることが命みたいなやつだからな。でも、そのためにやるべきことはちゃんとわかってる。射形もおろそかにしないし、つぐみはつぐみでやっぱり凄いよな」
「確かにつぐみさん、すごかったですね」
紬が同意すると、栞代がニヤッと笑った。
「つぐみは、あの雲類鷲麗霞さんを倒すことに命懸けてるよな」
「おお、あの美人の子か?」
祖父がすぐに食いつく。
「だからおじいちゃん、そこじゃないってば!」
栞代が勢いよく突っ込むと、またしてもみんなが笑いに包まれた。
「そういえば、紬さん」
笑いが収まった後、祖父が少し思案顔で言った。
「いや、紬さんとつぐみさん、名前の響きが似てるじゃろ。ちゃんと間違えずに言えるか心配でなあ」
「それは」
紬はすかさず、涼しい顔で返した。
「わたしの、課題では、ありません」
その一言に、今日一番の笑い声が響き渡った。
それからは、五人でたわいもない話に花を咲かせた。
好きなドラマや俳優の話、学校でのちょっとした出来事。何気ない会話がこんなに楽しいものだったのかと、紬は心の中で静かに驚いていた。
三人の話をニコニコして聞いては、杏子の祖父が時折冗談を交え、祖母がそれに笑顔で相槌を打つ。紬は、この家の居心地の良さにすっかり引き込まれていた。
気づけば、窓の外は夕方の柔らかな光に包まれていた。
「そろそろお暇しなきゃ」
栞代と紬が席を立った。
「お、おい。なんじゃ? ご飯食べて行かんかいっ」
祖父が声をかけるも、
「いえ、今日はこれで失礼します」
と二人は声を揃えた。
「次はちゃんと夕食込みで遊びにおいでよ」
祖父がちょっと寂しそうだ。
「今日はありがとうございました。本当に楽しかったです」
二人が礼を言うと、杏子が慌てて立ち上がる。
「あっ、ほんとごめんね、引き止めちゃって! おじいちゃんと一緒に送るね」
祖母は玄関先まで出てきて見送ってくれた。ほんのり冷たい夕方の風が心地よい。
「紬さんも栞代ちゃんも、杏子のこと、よろしくお願いしますね」
祖母の優しい声に、紬は深く頷いた。
「いや、こちらこそ、いつもお世話になりっぱなしで」
栞代が恐縮しながら答えると、祖母は柔らかく微笑んで手を振った。
「またいつでも遊びにきてね」
車に乗り込むと、祖父がエンジンをかけながら、言った。
「弓道ってのは、狙う的だけじゃなくて、自分の心と向き合う道でもあるんじゃな。他人と比べることは誰にでもあるけど、最終的には『自分にとっての的』を見つめるのが大事なんじゃよ」
「おじいちゃん、いま、いいこと言ったと思ってるでしょ」
栞代がすかさず突っ込む。
「いい言葉やったやろ?」
祖父が照れ隠しのように笑う。
「ほんっと、口だけは上手いんだから」
「栞代、失礼よ。おじいちゃん、紅茶を淹れるのも上手なんだよ」
杏子が横から口を挟む。
「あ、そうだった。あと美人を見つけるのも早いよね」
栞代の一言に、車の中は一気に笑い声で溢れた。
紬は、後部座席で笑いながら窓の外を流れる夕暮れの景色を眺めていた。
やがて車が紬の家の前に止まると、祖父はドアを開けて紬の両親に挨拶をしてくれた。
「またいつでも紅茶を飲みにいらっしゃいよ」
祖父の言葉に、紬は深く頭を下げ、少し照れくさそうに微笑んだ。
それは、わたしの、課題ですね。
誰にも聞こえないように心の中でそう呟くと、紬は静かに家の中に入っていった。
◆
紬を送り届けた後、祖父の車は栞代の家へと向かっていた。助手席に座る杏子は、静かに流れる窓の外の景色を見つめている。車がいつもの場所に止まると、祖父がハンドルから手を放して言った。
「栞代、練習の後は、毎日うちに来るのが義務じゃぞ」
「ありがと、おじいちゃん」
栞代は笑顔で応え、車を降りながら振り返った。
「ところで、わたしも結構美人だと思わない?」
祖父は笑いながら、「もちろんじゃ」と答えた。
「杏子、また明日ね!」
そう言い残し、栞代はゆっくりと家路に向かっていった。
車の中は静かになり、杏子は少し疲れたように座席にもたれかかった。
窓の外には、赤く染まった空が広がっている。
「今日は、いっぱい話したなあ……」
小さな声で呟く。今日の笑顔や会話の熱が、まだ頭の中を駆け巡っていた。
そっと目を閉じる。
みんなの顔が浮かぶ。不安を抱えていた紬。いつも支えてくれる栞代。そして、残酷な運命に直面しながらも、それでも前を向いて歩き出した瑠月さん。
次の瞬間には、明日への確かな熱が胸の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
誰かと一緒に弓を引くということは、誰かの不安も、誰かの悔しさや悲しみも、全部、自分のことになるんだ。
「おじいちゃん」
杏子は、窓の外を見たまま静かに口を開いた。
「みんなで、って……ほんとに素敵だね」




