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第17話 紬の初訪問

光田高校弓道部が地元の白樹ヶ浜駅に到着した。

日差しは和らぎ、辺りには穏やかな風が吹いている。極度の緊張を強いられた遠征から帰ってきたばかりの疲労感は当然あったが、それと同時に、このまま駅で解散してしまうのが少し物足りないような、名残惜しいような空気が部員たちの間に漂っていた。

それぞれ迎えを待ちながら、あちこちで笑顔の会話が弾んでいる。


「家に帰るまでが遠征だからな!」

拓哉コーチと滝本先生が冗談めかして言い、みんながドッと笑う。

いつもなら集団の輪から少し距離を置きたがる紬でさえ、今はその些細なやり取りが心地よかった。一人でできるからという理由で始めた弓道だったが、このチームの温かい空気感は、決して悪いものではない。澄み渡る空を見上げながら、紬の胸には静かな解放感が広がっていた。


「あっ、おじいちゃん!」

不意に、隣にいた杏子がパッと花が咲いたような笑顔になった。視線の先には、迎えに来ていた初老の男性――杏子の祖父の姿があった。

「ぱみゅ子~!」

祖父が大きく手を振るのに応え、杏子が小走りで駆け寄っていく。

親友の栞代も、当然のようにその隣に並んでいる。いつもこうして一緒に乗せてもらっているのだろう。


それを見届けた紬は、ふぅ、と小さく息を吐いて駅の出口へ向かって歩き出した。

紬には迎えが来ていない。というより、最初から呼んでいない。自分のことは自分で完結させるのが当たり前だ。一人でタクシーを拾って帰る。ただそれだけのことだ。


スマホを取り出し、タクシーを呼ぼうとしたその時――。

「おーい、紬!」

背後から声がして、栞代だった。

「あれ? 紬、お迎えは?」

「それは、わたしの、課題では、ありません」

「いや紬、お前自身の問題なんだよ」

栞代は相変わらずの紬に、笑いを押しとどめながら応えた。

「あ、わたしは……その、タクシーで帰るので」

「はあっ!?」

紬の答えに、栞代が信じられないというように目を丸くした。

「一人でタクシー!? アホか、はよ言わんかい。遠慮なんかしないで一緒に帰ろ!」

「えっ、でも、わたしの課題は……」

「いいからいいから!」

強引に栞代に手を引かれ、紬は祖父の車まで引きずられた

「おじいちゃん、紬も乗せてっていいやろ!?」

「もちろんじゃー!」

おじいちゃんの陽気な声が響く。


祖父の車が走り出し、見慣れた街並みがゆっくりと流れていく。

「三人とも、大分疲れたやろ?」

バックミラー越しに祖父が穏やかに尋ねた。

「杏子はすっごい疲れてると思う。でも、オレと紬は応援に行っただけだから、そんなでもないかな。紬、どう?」

「それは、わたしの、課題では、ありません」

「がははははっ。おじいちゃん、紬はさ、これを言わないと死ぬ病気らしいねん。許したって」

祖父は、「変わった病気じゃのう」と栞代に続いて大笑いした。

そして、「夜はちゃんと眠れたかい?」と軽い調子で尋ねた。


その瞬間、車内の空気がピンと張り詰めた。紬は栞代と一瞬視線を交わす。昨夜の宿の部屋での出来事――瑠月の涙と、彼女が背負っていた事実が蘇り、紬は無意識に口を結んだ。栞代と杏子も、同じように黙り込んでいる。


「あれ、なんかまずかったかな?」

心配そうな祖父に、栞代が事情を話し始めた。

瑠月が事情があって二年遅れて入学していたこと。年齢制限により、今年が最後のインターハイになること。そして、予備メンバーとなってしまったため、出場のチャンスが少ないこと。

「そうだったのか……」

祖父は静かに眉を寄せ、深く頷きながら話を聞いていた。


「瑠月さんは、本当に優しくて。みんなのお姉さんみたいな存在で……だから」

助手席に座る杏子が、一つ一つ確かめるように小さくつぶやいた。

「瑠月さんと、一緒に試合したかったな……練習ではあんなに中ててたのに」

紬と栞代が、頷き合う。

「なるほどな。それは、ショックやったろうな」

信号待ちで車が停まった際、祖父が杏子の肩をそっとポンと叩いた。その何気ないしぐさを、紬は静かに見つめていた。


「それで、瑠月さんの様子はどうだったんだ?」

「いや、なんかこの表現、今の場合どうかと思うけど……やっぱり瑠月さん、大人だったな。すごく明るく振る舞ってて、これからも頑張るって」

栞代が答えると、祖父は力強く頷いた。

「ほんとに優しい人なんじゃな。でも、先のことは誰にもわからん。今聞いた限りじゃが、瑠月さんなら、みんなに何かがあったら、と支え続けてくれるじゃろう」

しみじみと言ったかと思ったら、

「ま、わしと同じ。見えないところでみんなのために努力するタイプじゃな。だから分かるんじゃよ」と、また大笑いした。

「あのさ、もうまるでタイプちゃうねん。おじいちゃんはやってないのに、やったふりするのが得意なだけやろ? 見えないところで努力する瑠月さんとはまるで逆やで」

栞代がそう突っ込むと、助手席の杏子が大笑いしつつ、

「おじいちゃんと一緒だよねえ」と、口先だけでフォローを入れていたが、祖父にとっては、それで十分なようで満足げに微笑んでいた。


車はゆっくりと走り、やがて杏子の家に近づいた。

「紬さんだったかな?」

ふいに祖父が明るい声で紬に話しかけてきた。

「栞代と一緒にお茶でも飲んでいかないかい。お家の人には電話してさ。帰りはちゃんと送って行くから。わしの淹れる紅茶は、そりゃ絶品なんじゃぞ~」

「いや、紬、これだけはほんとなんだよ。おじいちゃんの淹れる紅茶は一級品だ」

「だけはってなんじゃい」栞代のつっこみに、祖父はすぐに噛みついたが、褒められたのは分かったようで、声は弾んでいた。

「そ、それは、わたしの、課題では、ありません」

「紬、これは飲む価値あるよ。ほんとに美味しいから」

栞代に背中を押され、紬は小さく「……お邪魔します」と頷いた。


杏子の家の玄関に入ると、ふわりと温かな香りが漂ってきた。

「あら、いらっしゃい。皆でゆっくりしていってね」

杏子の祖母が、杏子そっくりの柔らかな微笑みで迎えてくれた。

紬は少し緊張しながら部屋を見回した。思わず、小さく息を漏らした。


「さあさ、遠慮しないで座ってくれ」

「ありがとうございます」

紬は一礼して椅子に腰を下ろす。栞代は「紬、緊張しなくていいからな。ま、オレの家じゃねーけど」と笑いながら隣に座った。

「慣れないうちは緊張するよね。でも、うちはほんとに大丈夫だから」

向かいに座った杏子も優しく微笑む。


しばらくすると、祖父が紅茶セットを持ってきた。ティーポットにお湯を注ぐと、香ばしい紅茶の香りが部屋いっぱいに広がった。

「栞代なんか、もう自分で紅茶まで淹れようとするくらいだからな。それはわしの役目だっての。百万年早いわ」

祖父の言葉に、テーブルが和やかな笑いに包まれる。

「この紅茶、本当に美味しいんだよ。わたし、大好きなんだ」

杏子が自慢げに言うと、祖父は照れくさそうに鼻をすする。

「ほっほ、そんなに褒められると照れるな。秘伝のブレンドじゃぞ。今日は特別にサービスじゃ」


「いただきます」

紬がカップを両手で持ち、そっと口に運ぶ。

一口飲んだ瞬間、紬の目が丸くなった。

「あ……ほんとに、香りがすごくいいです。優しい味……」

「そうだろ!」と栞代が笑い、「でしょでしょ?」と杏子も声を弾ませる。

「おじいちゃん、すごいんだよ。みんな、おじいちゃんの紅茶が大好きなんだ」

「後片付けもしてくれたら、もっと美味しく感じるんだろうけどねえ」

祖母がそう言ってクスリと笑う。


紅茶を味わいながらしばらく話した後、祖母に促され、杏子が着替えに行った。

リビングには祖父母と、栞代、そして紬が残される。


「杏子さん、家ではよく話すんですね」

紬が栞代に声をかけると、栞代は肩をすくめた。

「まあ、なんといってもこの『おしゃべりおじいちゃん』の相手せなあかんからなあ」

「ほんとに幸せなやつじゃ、ぱみゅ子は」

「とてもそうは思えんが……」

栞代がわざわざ腕を組み、わざとらしく顔をしかめ、呟く。

祖父は反撃しようと身を乗り出した。

「そやけど、ぱみゅ子の弓、めっちゃ凄かったやろ? あれも全部わしが教えたんや」

ぱみゅ子? 紬は一瞬戸惑ったが、間髪入れずに栞代がツッコミを入れた。

「どう考えても、そこはおばあちゃんやん!」

「むぐっ……」

祖父が言葉を詰まらせ、祖母が「ふふっ」と上品に笑っている。

そんな和やかなやり取りを聞いていた紬は、胸の中を口にした。

「あの……。じゃあ、杏子さんの弓道は、おばあさまが指導されたんですか?」

「あら、そうじゃないのよ。わたしの高校時代の恩師、中田先生って言うんだけど、その先生のところに一緒に行ったの」

「早く教えてくれって、そりゃあ大変だったんじゃよ」

祖父が懐かしそうに目を細める。

「でも、中田先生は最初、『小さいうちは思いっきり悪戯して、おじいちゃんおばあちゃんを困らせることが大事。それが今できる弓道の練習じゃ』って言ってなあ。『やんちゃじゃなけりゃ、弓はあたらん』そう言って大笑いしたんじゃ」

「そうだったんですね」

紬はカップの縁を指でなぞりながら、少し視線を落とした。

「わたしは……一人でできるから、誰とも関わらなくてもできると思って、弓道部に入ったんです」

「お、紬。その動機はオレと似たところがあるな」

栞代がカラカラと笑ったが、紬は表情を変えず続けた。


「それは間違いではなかったけれど。でも、一人で完結するからこそ、誤魔化しがきかないんですよね……。杏子さんや、つぐみさんを見てたら本当に凄くて。先輩たちも、どんどん上手くなっていって……。わたし運動が苦手だし、絶対にあんな風にはなれない。いくら一人で出来るからって、やっぱり無理だったのかなって。やっぱり足をひっぱっちゃうのかなって」

なるべく、誰とも関わらずに済むと思って選んだ弓道は、結局、自分自身と深く関わらなければならない競技だった。

自分の胸の内を吐露した紬に、栞代が深く頷く。すると、祖父がにっこりと笑って言った。

「なに、ぱみゅ子という素晴らしいお手本がいるじゃないか」

紬は今度は質問した。

「あの……ぱみゅ子さん?」

「おじいちゃんはさ、杏子のことをぱみゅ子って呼ぶんだよ」と栞代が補足する。

「きゃりーぱみゅぱみゅさんのファンなんですね」

「お前、すぐ分かって凄いな」

栞代の言葉をスルーして、紬は慌てて首を振った。

「でも、杏子さんは凄すぎます。とても比べられません……」

「確かになあ。杏子の射形の美しさは、ほんと、次元が違う感じだよな」

栞代もため息混じりに同意した。


しかし、祖父は慌てた様子で手を振った。

「いやいや、ちゃうちゃう。そういう意味じゃないんじゃ。当たらなくても気にする必要はないって言いたかったんじゃ。ぱみゅ子も最初は、全然的に当たらなかったんじゃよ。そりゃもう面白いほどにな」

「えっ……」

紬と栞代の声がハモる。

「もちろん『中ることよりも姿勢が大事だ』というのが中田先生の指導じゃ。でも、実際に弓を引くからには、的に中ってほしいと思うのが人情じゃろ? 特にぱみゅ子には『金メダルを獲りたい』という大きな目標があるからな。しばらくは本当に元気がなくなって、苦しそうだったのう」


「杏子でも、そんな時期があったんですか……?」

栞代の呟きは、まさに紬の心を代弁していた。

——そっか。

杏子にも、そういう時間があったんだ。


「そうじゃ。ある日、わしはあまりにも可哀想で、思い切って『もう弓は辞めよう』と言ったんじゃ。だがぱみゅ子は『おばあちゃんに金メダルをプレゼントする』と言い張る。まったくわしの言うことをまったくきかん。ケシカラン。絶対に辞めようとしなかった。それだけ頑固なのは、おばあちゃん譲りでな。一度決めたら最後、絶対に自分を曲げないんじゃよ」

「え~、そんな風には全然見えないけど」

栞代が驚いたように祖母を見た。

「物腰は本当に柔らかいし、一見、人の言うことはよく聞くように見えるじゃろ?そやけど、一度決めたらテコでも動かん。……おばあちゃんの血をひいてしもたんじゃのう」

祖父が少し寂しそうだ。

栞代はそこで、ポンと手を打った。

「あー、そういえば鳳城との合同練習でも、鳳城のコーチのアドバイスに元気よく『はい!』って返事だけして、一切射形を変えなかったな、あいつ」

「それはおばあちゃんの必殺技『一応丁寧に返事はするけど言うこと聞く気はまったくない術』じゃ」

「そのままやんっ」

栞代がツッコミ、祖父が笑う。

「だから、おばあちゃんも、一見、わしの言うことはなんでもよく聞くんじゃよ」

祖父が言い放った瞬間に、栞代と紬は、真面目な話の途中だと言うのに、笑いが止まらなくなった。

祖母は少しバツが悪くなったのか、「クッキーか何か、探してくるわね」と席を立った。

残された祖父は、栞代たちの笑いが収まるのを待ち、少し真面目な顔になって紬に向き直った。

「話を戻すとな。わしはぱみゅ子が悲しい顔をしてると、もう死にたくなるんじゃ。涙なんか見せられた日には、辛くて辛くて、こちらが大泣きしてしまう。でも、ぱみゅ子は絶対に弓を辞めそうにない」

紅茶の湯気が、祖父の優しい瞳を揺らしている。

「そこで、わしは説得の方向を変えたんじゃ」

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