024:川に立つ人龍
流し込んだ食事は、すべて川のなかに吐いて捨てた。
宛てもなく、感情のままに走り去った末にたどり着いたのは、俺が記憶のなかで少女と遊んだ川だ。
渡良瀬川から分岐して流れ、やがて合流する。龍ヶ棲町という秘境のなかにある遊べるスポットのひとつだ。
ただ、知るひとぞ知るスポットなため昼でも夜でも人間の気配はない。
まだその季節ではないので虫も鳴かない。川のせせらぎだけが聞こえる。
「ハァ、ハァ………ハァ………」
浅瀬で突っ伏していた俺は、どうやら転んで思い切りダイブしたようだ。顔を上げた瞬間に嘔吐して、今に至る。
春の温かな気候でも川の水温は冷たい。それが衝動を消し、意識を現世に繋ぎ止めた。
このまま浸っていては低体温症になりかねない。この水温を好きこのんでもいない。が、いつまでも俺はそこにいて、川に四肢を突っ込んだ。
漆黒に染まる水は、川底に正体不明の化物が潜んでいるかのような不気味な空気を湛える。
それでも、今の俺には丁度いい。
「ハァ………ハァ………」
いつまでも荒い息は整うこともなく、より深い水深を、ぶれ始める視界のなかで探す。
そして、それを求めて震える四肢を動かそうとした───のだが。
「いけません」
肩に手を添えられた。
知らない女の声。町の住人だろうか。俺を追ってきたか。
「渡良瀬、辰くんでしたね。人間には毒となる温度。そして、川の底にあなたの求めるものはなにもありません」
「………あなたは」
「申し遅れましたね。私は櫻子。神音………あなたのお祖母様の知り合いですよ」
「あ………」
件の櫻子が、音もなく俺の背後にいた。声をかけられるまで接近を感知できなかった。川に入れば水流を弾く音がするのに、不思議なくらい無音だった。
「さあ。まずは落ち着いて。ゆっくりと立ち上がりなさい。あなたならできるはず」
初めて聞いた櫻子の声は、俺の心に浸透する。
触れられた肩が温まる。それから全身に熱が戻り、動かせるようになった。
改めて見る櫻子という渡良瀬の英雄は、長身の女だった。俺よりも高い。
そしてなにより、目を見張るのは、水面に立っていること。俺のように沈んではいない。それでいて、和服の裾はまったく濡れていない。
俺を立たせた櫻子は、満足げに首肯する。
「移動しましょう。そのままでは風邪を引く。私の住居が近くにあります。まずは濡れた服を乾かさなければね」
体温が戻ってもすぐには喋れないほど消耗していて、返答はできなかったが………なぜか俺は櫻子にだけは素直になれて、頷くことで肯定を示した。
櫻子は歩行が困難になった俺をいつまでも支えてくれた。もう子供ではない身長の俺が、岩に躓いて傾倒しても元の姿勢に戻してくれる。
住居と呼ぶには呼べるだろうが、上流には古風な家があった。木造で、電気もガスも無さそうな。
だが思い返してみれば、櫻子は龍の父親と、人間の母親を持つ、人龍だ。龍と人間のハーフ。能力でいえば龍には劣るが、人間よりも高い。そして長寿。二百歳という人間ではありえない年齢。
であれば、掘っ立て小屋でも難なく過ごせるどころか、住み慣れているはずだ。
一人暮らしには十分なスペース。中央に囲炉裏。天井から吊るされている鍋は煮え、素朴な食材を使った料理が完成していた。
クゥ。と場違いな音が鳴る。
「あら。あらあら。元気でホッとしたわ」
「………すみません」
「いいんですよ。お勤めの後だもの。それに十五歳なら食べ盛りなはず。遠慮せず、食べて行ってください」
あまりにも素直すぎる腹の音に羞恥心を抱えるも、櫻子にとってはなぜか喜ばれる対象だったらしい。
俺は屏風の後ろで服を脱ぎ、父親のものだという浴衣を着る。ただ、あまりにもサイズが異なるため裾を引き摺った。二メートル近くある。櫻子の父親の龍族は、余程巨躯だったらしい。
季節外れの寒中水泳で濡れた服は絞られることなく、すべて囲炉裏の近くに干された。「えいっ」と可愛い声を上げて触れると、垂れていた水滴が少なくなり、やがて完全に落ちなくなった。
「これで帰る時になれば乾くでしょう。あ、いけない。それよりもご飯ですね。今すぐ用意しますからね」
櫻子は本当に嬉しそうに支度を始めた。
二百歳と十五歳。比べるまでもなく俺は小僧どころか赤ん坊………いや、母親の子宮のなかにいる小さな生命かもしれない。そこまで構ってくれるほど面白くもなければ、ヘタレた渡良瀬家の当主後継者候補のひとりだと呆れられてもおかしくないのに。
それなのに櫻子は嬉しそうに笑っている。
「さ、どうぞ」
「いただきます」
おそらく父親の茶碗だ。俺が持つと丼ぶりほどある。そこに並々と注がれた魚と野菜の汁物を、大きな箸に苦戦しながら啜る。
「………うまい」
「それはよかった」
本当にうまかった。味噌をスープに溶いた味。出汁は魚と野菜。シンプルにして素朴。胡椒もコンソメもブイヨンも使っていないはずなのに、この香りときたら。
トラウマを抉られたダメージが内臓を圧迫していたはずが、疲労困憊になった体と、空になった胃を優しく癒す風味。温かな汁物が心さえ癒やしていく。特別な食材を使っていないはずなのに、特別な味がする。
俺は櫻子に勧められるまま三杯を完食した。櫻子は一杯で済ませる。なんだか自分のために用意したはずの食事を俺だけが食べてしまったので罪悪感があった。
「いいんですよ。予感がしたから、今晩は四倍の量を作ったんです」
「予感?」
「ええ。私のことは神音から聞いていますか? 人龍と呼ばれる、龍と人間の交配種であると。父が龍でして。父ほど力を使えるわけではないのですが、堕ちた存在の気配の察知や、水の管理、そして予知夢を見ることができます。とは言っても、そこまで先の未来を見通すことはできないのですが」
なるほど。予知夢か。
それで俺がこの川に逃げることや、食事が必要なことも察知して、夕飯を多く調理していたというわけだ。
「辰くん、とお呼びしても?」
「あ、はい。どうぞ」
「では辰くん。龍ヶ棲町は………好きですか?」
「え?」
「故郷から単身で出てきたのでしょう? 詳しくはわかりませんが、なにやら深い事情がある様子。そしてあなたは、この龍ヶ棲町に今でも馴染めずにいる。違いますか?」
「い、いや………それは」
「隠さなてもいいのです。………私の言い方も悪かった。たった二週間ほどで馴染めるはずがないですものね。あなたは精一杯馴染める努力をしているというのに」
「そうでしょうか………」
「そうですよ。あなたは学校でお友達を作りましたね。たったひとり孤独に生きることの方が楽でしょうに、他人との繋がりを持とうとした。まだそれは希薄なものなのでしょうが、いずれ絆を深めると信じている。しかし、いくら繋がりを持っても解消できずにいる問題がある。弊害といってもいい。渡良瀬家のお勤めが、あなたを苦しめる原因。神音はいい子なのですべて背負おうとしていますが、鹿波との問題はふたりで解決するしかない。………辛いでしょう。お察しします。あなただけではない。誰が悪いわけでもないのに。あなたは戦うためにここに来たわけではない。それが戦う宿命を課せられた。あなたはここにいるために戦って………それでも、まだなにも掴めていない。お辛いでしょう」
「あ………」
櫻子には俺の悩みを打ち明けていない。これは祖母であっても話せない。俺だけの問題だったはず。
予知夢があるからか。俺の悩みを察し、慰めてくれたひとは初めてだった。
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