アルト
大陸中の種族が知っている七つ国。
北の国、帝都ランドワース
南の国、王都ロンダルシア
東方諸島連合、筆頭国コルセア
西の国、聖都ピレネー
中央大自由貿易都市
魔王が治める魔都ジューダス
そして、西の小国ディアライン
様々な理由を持ち、有力国家に数えられる七つの都市の支配者の中で、悪名を轟かせる統治者。
『愚王』アルトリウス・ロンダルシア。
大陸の賢者と称された先王が崩御なされて、アルトリウスの統治に移った時、民は不安に襲われた。
大陸に名を馳せる道楽王子に統治者は務まらないと思ったのだ。
アルトリウスは幼少の頃からおかしな子供だったが、まだそれを知らなかった産婆や大臣は、世継ぎの誕生を大いに喜んだ。
生まれてすぐに、身振り手振りで意思の疎通を成立させたというその王子に、父王以上の賢才を期待した。しかしそれも初めだけだった。
初めに王子の異常に気付いたのは乳母となった女だった。王子が、乳を吸わないのだ。
病弱な王妃と良く似た顔立ちの王子は、やはり体も弱いのだろうかと乳母は大いに心配した。
乳母は美しい女だった。そして、乳母としてふさわしい素質——大きな母性を持っていた。
——この子は大丈夫だろうか?
周りの者達は天才王子を褒めそやす。生後一ヶ月にして自分でおむつを変える天才。三ヶ月にしてカタコトで「ひま」と喋り、本を読み出した人類最高の天才。
しかし皆は気付いていない。王子は乳を吸わないのだ。このままでは……。そして、乳母はそのうち違和感に気付く。
乳を吸わない、……ではない気がする。乳を必要としていないのに、腹が減っていないのに乳を求める事が多いのだ。
赤ん坊は泣くのが仕事だ。しかし天才王子にはそんな事すらなかった。乳母が仕事で疲れてウトウトとしていた時には、声を潜めて静かにしているようにさえ見えた。
生まれたばかりの赤子が他人に気を遣えるはずなどない。しかし、乳母にはそう見えた。優しい子に見えたのだ。
その優しい子は乳母によく懐き、常にその乳房に抱かれている事を好んだ。嬉しそうな目で。
——この子は、なんなんだろう
ある時の事。
乳母はついウトウトとして、王子を抱いたまま寝台で横になってしまった。
仕事中なので褒められた行為ではないが、乳母という休みなしの仕事においては仕方のない事だ。
しかし、彼女は絶対にしてはならない間違えを犯した。——そのまま寝てしまったのだ。
授乳中に母親が寝てしまい、赤子が圧死するのは時々ある事だ。乳母である彼女はその事を当然知っていたが、本当に意識が溶けるように寝てしまった。それが、彼女の犯した間違えだった。
——はっ、はっ、はぁ……
荒い息が二つ。
窓から日の光は差し込む。
乳母は、寝起きのぼんやりとした頭で、部屋に響く荒い吐息の一つが、自分の喉から出ている事に気がついた。
『な、なに? なにが……、あ、はっ……』
体の上を、何かがまさぐっている。
乳母が、横になっている自分の体を見下ろすと、紅潮してほんのりと染まる己の乳房が見えた。
そして、その大きく盛り上がった二つの山の向こうに見えるもの。
『……え? は? ちょ、ちょちょっ!!』
赤ん坊が。天才王子が。
小さくて丸っこい可愛らしい子が、同じように小さくて可愛らしいその手で、自分のスカートを脱がそうとしていた。
『『あ……』』
二人の声は重なった。そして、王子は生後半年でこう言った。
『み……、みてる、だけ』
『……ひィィィいいいいいいいいっやあああああああああああああアアアアアアアアアアッッ!!』
乳母は田舎に帰った。
……さて、順調に成長を続けた王子はすくすくと大きくなった。しかし、生後一年を越えた頃から、普通の赤子と変わらない態度を取り始めた。皆の前で本を読む事もなくなったし、赤ん坊らしい振る舞いが多くなった。
それでも周りの者達は期待していた。
——あの才は無くなった訳ではない。今は鳴りをひそめているだけで、王子は成長すればとんでもない男になる筈だ。
そして、それは本当だった。
生まれてから月日は経ち、早七年。その頃、教育係として王子に女官がついた。
十ウン歳のその少女は、ロンダルシア一の秀才と呼ばれる程の知恵を持っていた。
民間の出なのに、王宮の中でも特別な職についたその少女は、夢と希望でその大きな胸を……、十ウン歳とは思えない大きな胸を……、
王子が、「……父上、教育係としてあの者を所望します」と言った時にじっと見ていた大きな胸を、夢と希望や色々なもので膨らませていた。
王子も、色々と膨らませていた。
彼女は、たった三ヶ月で実家に帰った。
『ひょっとしたらコイツ……』
月日は流れ、別の意味でとんでもない男になったんじゃないか……。大臣や周りの者達が王子に対して不審の目を向け始めた頃、大陸の賢者と称された先王は崩御し、アルトリウスが『象徴』に名付けを行い即位した。
そして、一番初めに行った内政を布告した時に、彼の『愚王』の名は大陸中に広まった。
ロンダルシア大河を分断して西方に位置する貧民街、『楽園』。
そこを王の直轄区として宣言し、そこに住む者を己の民であると認めた。
それにより、楽園には人が流れ込んだ。
犯罪者、食い詰め者、後ろ暗い過去を持つ者達。
亜人、売春婦、弱い立場で国に貢献出来る力もない者達ばかりが増え、治安は悪化した。
王直轄となったその地では、衛兵が何をするにも上の判断が必要だ。もしも犯罪者を目の前で見つけたとしても、それが王の関係者だったら?
そして、王直轄の地の全ては王の所有物であり、木の枝を一本折る事も許されはしない。そして、所有物には人間も含まれる。
犯罪者を殺したとしても、王の所有物を壊したと捉えられたら?
衛兵達は何も出来ない。
楽園の中には猥雑とした混沌と、自由だけが広がっていった。
そして、その最たる者達。ロックボトム。
世界に名を轟かせる大悪党を目の前にしても、衛兵は何も出来ない。楽園の顔役の彼らは、裏では途轍もない利益を得ているという噂もある。それでもその利益で国が潤う訳ではない。
治安の悪化だけを招いたその政策の他にも、愚王アルトリウスは数え切れない程の意味が分からない事ばかりを推し進めた。
町の美化。
衛兵の清掃義務。
文化や娯楽の推奨。
芸術家への圧倒的優遇。
政策以外でも奇行は数えしれない。
王以外の者を玉座に座らせる。
自分がデザインした服を女官に着用させる。
数え上げれば切りが無い奇行の数々は、彼の異名を大陸の端まで行き渡らせた。
圧倒的。
徹底的。
壊滅的。
愚王、アルトリウス・ロンダルシア
————————————————
「いやあ……、二人目の女官は眼鏡が似合ってた。あの子、いま何してんのかなあ……」
「おいクズ。おまえ、マジか? マジなのか?」
迅八はちゃぶ台を挟み、アルトリウスと向かいあっていた。
「マジかって……嘘ついてどうすんだよ。本当に可愛い子だった。オドオドとした所がまたさあ」
「黙りやがれこのクズがっ!! なあ、お前はなんの話をしてんだ!? 俺は、なんの話を聞かされてるんだ!?」
日本国領土。
戦争。
不穏な言葉を口にしたアルトリウスは、長々と関係ない事ばかりを喋った。
「そもそも、お前って本当に転生者なの!? エンジョイしすぎじゃねえのか!?」
「だからさっき言っただろ。佐伯有人だ。人がいない時はアルトって呼んでいいぞ。……ところで、そんなに余はエンジョイしてるか? 結構大変だし普通やるだろ? 異世界転生したら」
「どこが大変なんだよっ!! お前の話聞いてたら、遊んでるだけじゃねえかっ!!」
迅八とアルトが話し始めてから、クロウはずっと黙って腕を組んでいた。何かを思案するように、じっとアルトの事を観察している。
「最後まで聞けよ。最後まで」
「それに、あの、ほら、……初めに出てきた王様は!?」
「ん、あれバイト」
「バイッ……。なんで、兵士の人達はバイトのおじさんの為に怒ってたんだよ。膝を折れいっ、とか言われたぞ!!」
「兵士達は余のせいでバカにされる事が多い。その反動でナメられる事に敏感な者達が多いんだ。困ったもんだよ……」
「テメエがバカにされないように、王としてちゃんとしろよ!!」
迅八が一人で叫ぶのを聞きながら、アルトはのらりくらりと話している。その様子を見ていたクロウが声を出した。
「おうジンパチ、乗せられてんじゃねえ。テメエはテメエで気になる事があるだろうが、まずは俺様の気をスッキリさせる。……おい愚王。ジャックを消せと言った筈だ。なんだこりゃ」
クロウの視線の先では、先程と同じようにジャックが茶をすすっていた。アルトはクロウの目を覗き込む。
「……そうだな。本当はその話は後の方がいいんだけど、まあ簡単に言おう。ジャックを殺してこいなんて言っていない。世間的に消してくれれば良かった。ジャックは目立ちすぎてたからな」
「なら、なんでそう言わねえんだ」
「それは余とサジタリアからの宿題だ。オズワルドの転生者はどんなもんなのか見てみたかった。どんな風に消すのかを」
「つまり、迅八を試したって事か?」
「そうだ。そしてうまくやってくれた。転生者ギルドはとりあえず地底墳墓のヴァンパイアロードから手を引き、ジャックは余に会いに来た。……本当は、世間的には殺したっていう事にして、余のもとに連れてくれば完璧だったが、そこまで贅沢は言うまい」
「…………ほう」
クロウはその言葉を聞き、後ろで立っているサジタリアを見た。
「おうサジタリア。……迅八を試すってのはどういう事だ? まさか、その『試す』には、俺様も入っているのか?」
「……滅相もございませぬ」
迅八は、クロウが殺気を出す前にそこに口を挟んだ。
「クロウやめろ。……全然話が見えねえ。つまり、お前は何がしたかったんだ? もう話を濁すんじゃねえ」
「医者としてのジャックが欲しかった。外科医として高度な技術を身につけている人間なんて、ジャック以外に見た事がない。……地底墳墓の近辺住民からの訴えを聞き、切り刻まれてから墓に戻される死体を幾つも見てみた。すぐに転生者の仕業だってわかったよ。わざわざ綺麗に縫合して戻されていたからな。……この世界の種族を相手に、現代医学を試している奴がいるとすぐに理解できた」
迅八がジャックを見ると、白い肌に浮かぶ赤い瞳が嫌そうに歪んでいる。その目はアルトを見ていた。
「全く……。何回も使者を出したのに追い返されたんだ。初めに日本の転生者だって言ったのがまずかったか? 仲良くなれると思ったんだけどな」
「……フン。この体で転生し、今まで面倒事も多かった。王などという人種に呼び出されてノコノコと会いにゆく筈もない」
なんとなく。
薄っすらと話が見えてきた迅八は、視線をジャックからアルトに戻した。
「あー……、つまり、医者としてジャックをロンダルシアに迎え入れたかったんだけど、上手くいかないから俺に頼んできたって事か?」
「そういう事だ。それと、王宮庭園でお前らの話は聞かせてもらっていた。亜人の親子も助かったんだろ? なら、余に文句を言うのは筋違いだぞ。お前らは自分達だけでも情報を集めてジャックの元に向かっていたはずだ」
迅八の心の中にふつふつと湧き上がろうとしていた怒りが、その言葉で止められた。
確かに、理由や目的はどうあれ、迅八はニコルとロココを救う為ならなんでもしていたはずだ。
そして、それは叶った。
それは解っている迅八は、怒りを表に出す事はないものの、微かな苛立ちが胸を占めた。
「……チッ。踊らされたみたいで腹立つけどな。けど、なんでそんな事を俺達に頼んだんだよ」
「だから怒るなよ。お前らに頼んだ理由は、一言では言えないな。まあ茶でも飲んで落ち着けよ。リネンは……いないか。じい、茶を持ってきてくれ」
「あん?」
「いや、だから茶を……」
「誰に向かって言っとんじゃ貴様……。てェめ〜でやれ」
いそいそと。
アルトは部屋から出て行った。
「なんだよこれ……」
アルトがいなくなった部屋の中で、迅八はそんな声を漏らした。
電球に照らされた部屋の中で、テレビを前にして、畳の上で胡座をかき、男達がちゃぶ台を囲んでいる。
「ファンタジー感ゼロなんですけど……」
しかし、その場にいるのは、千年の大悪魔と伝説の勇者とヴァンパイアロード。
やはりその光景はファンタジー以外の何物でもない。そして、そこに国王がお茶を持ってやってきた。
「ほらほらお茶だ。そこの水流で冷やしてたからキンキンだぞ」
「さすがに冷蔵庫はないんだな……」
「あるよ。技術者は凄いもんだ。アイデアと知識さえあればなんでも作る。コンプレッサーを作るのが大変だったみたいだけどな」
「冷蔵庫があるんなら、なんで使わないの?」
「高価だからだよ。節約節約……」
過剰な装飾が為された煌びやかな宮殿の主が、自らその場の者達にお茶を注いだ。
迅八がそれに口をつけると、懐かしい味だった。夏になれば、迅八が毎年飲んでいた麦茶。
「で? 寺田迅八。聞きたい事はないのか?」
「……ロンダルシアが日本の領土ってどういう事だ」
「ああ、そういう訳じゃないんだが……。そうだな、そこからいくか。千年の大悪魔は言ってる事が解らなかったらあとで寺田迅八に聞いてくれ」
「どうでもいいぜ。さっさと喋れ」
アルトリウスは、アゴに手をやってから何かを考え込んだ。少しの時が経ったあとに、諭すように口を開いた。
「そうだな……。迅八、日本の総理大臣は、何人だ?」
「は? ……日本人に決まってるだろ」
「そうだ。じゃあアメリカ人は日本の総理大臣になれないのか?」
「当たり前だろ。アメリカ人なんだから」
「その通りだ。まあ乱暴だし端折ってるけどその考え方でいいだろ。……ところでな。余はロンダルシアの国王だが日本人だ。じゃあこの国は、ロンダルシアは日本か?」
「ロンダルシアはロンダルシアだろ……。意味深なだけの禅問答みたいなのは苦手だから勘弁してくれ」
「余も苦手だ。だがな、意味深なだけじゃないんだ。現実的な問題だ」
アルトは茶を含み唇を湿らせると、クロウの方を一度見てから口を開いた。
「……そこの大悪魔が眠りについていた間に、世界はどんどん変わっていった。いいか? この世界には転生者が沢山いるんだ。余が世界にたった一人の転生者なら、国王になっても問題ないかもしれないが、転生者が他にもいっぱいいるとまずい事もある」
「なにがまずいんだ?」
「……いいか。転生者はそれぞれの立場でこの世界を見る。ファンタジー世界を楽しんでいる子供だけじゃなくて、この世界には大人もいっぱいいて人種も様々だ。そういう奴らはこう見る。——日本人がロンダルシアを取った」
「……なんで?」
「ネットゲームに例えると解りやすい。
PVP主体のゲームでは、ギルド戦や領地戦と呼ばれる物が主体となり進んでゆくものが多い。自分達の領地を増やしていくんだ」
「俺は、ゲームそんなに詳しくないから……」
「別に構わない。ゲームの話じゃないからな。現実的な話だ。いいか? もしも、もしもだ。……ロンダルシア以外にも転生者が、例えばアメリカ人が『取った』国や地域があるとする。そことロンダルシアが戦争を起こしたとしよう。……それは、日本人とアメリカ人が、この世界で代理戦争を始めたと見る奴らもいる」
「……はあ? なんでそうなるの?」
「我々はこの世界より、思想も文化も遥かに未来からやってきた。経済としての戦争なんて当たり前に知っているし、善悪なんて存在しない争いなんて腐るほど見ている。……そして、必ず無くならない争いだって知っている。民族紛争や、宗教対立だ」
「ん…………、俺は、詳しくないけど」
「アメリカじゃなくって韓国や北朝鮮、中国だったらどうなる。他の国だっていいぞ。……元の世界での民族間の感情をこの世界に持ち込み、争いを起こしたと見られる事もあるんだ。というか、普通はそう見る。——あいつらやりやがったってな。けどな、邪推するだけならまだいいが、実際にそれをやる奴がいない保証なんてどこにもないんだ」
「けど、今のこの世界は平和な時代なんじゃないのか? 戦争なんて起きないんじゃないの!?」
「……電力が、ひょっとしたら引き金になる」
迅八はその部屋を照らす光を見上げた。……人類の叡智。史上最大の発明。
「ここにある電球も発電機もロンダルシアで独自に開発したものだが、転生者が居る場所ならどこでも隠れて電力開発は進んでいるはずだ。金を欲しがる奴もいれば、電力を武器として利用する事を考える奴も絶対いる。
どこかでそれが線を越えれば、おそらくデカい戦争が起きる。この世界は今は平和かもしれないが、それがいつまで続くか分からない。……それまでに、余はこの国を世界最大の強国にしなくちゃならない」
「テメエ、戦争するつもりなのか……!?」
「違う。巻き込まれないようにするんだよ。……俺はゆりかご国家で育った日本人だぞ。戦争なんてしたくないに決まってる。なら、戦争を回避する為に必要なのは二つだけだ。——お高い理想も、気高い思想も、机上の夢想もなんの意味もない。必要なのは、喧嘩を売られない程の強さと、それを維持できる経済力だ。技術とカネだよ。……だからこそ、ジャックは是非ロンダルシアに欲しかった。この男には百億に勝る価値がある」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。頭がついていかない。……顔洗ってきていいか?」
「幾らでも待つ。余が求めてるのはお前もだからな。寺田迅八。……それと、千年の大悪魔」
迅八は立ち上がり、一度その部屋を見渡した。
目を瞑るサジタリア。
苦虫を噛み潰したような顔のジャック。
そして、じっとアルトを観察し続けているクロウ。
彼らを部屋に置いたまま、迅八は顔を洗う為に部屋から出た。




