第八話
「視力を失うなんて、どう償えばよいか……」
「わたくしの我儘のせいにございます。日々に困らぬように手配を」
「大丈夫だ。それよりも酒に漬けた剣を手元に、服の模様は紙に写せたか?」
視力を失ったサカニカの両目は白く濁っている。幸いにも神殿で燈明の暗い空間で生きてきた彼女にとっては対処できる範囲内に収まっていた。
服の着替えや水分補給、歩くことすら補助が必要だが大した問題では無い。重要なのは白い炎が齎す神託であった。
初めてのことでどんな残酷なことが書いてあろうと、今のサカニカは夫妻、もしくは奴隷から聞くしか方法がなく神託を捻じ曲げて伝えることも出来ない。
「文字が浮かんでいるはずだ」
「え、ええ。これが……神託」
血を垂らて文字が動く様は初めて見た人間は誰しも驚くに値する。
その文字列に何が書いてあるのか、とサカニカは聞かなかった。
「生き残れば万事上手くいく。そう書いてあるね」
少し声が震えてしまっている。
「もう一つは……明後日には目が見えるようになるって。あぁ、良かった。良かった」
目が見えない二人は誰かの手を持って地面を踏みしめた。目の前に壁があるように何度も勘違いして立ち止まってしまったが、誰かは決して急かさなかった。
部屋はリャクサの妻が言った通りに冷えており、まだ熱い身体がじんわりと元の体温に戻っていくのを感じた。そのまま柔らかい羽毛の敷物の上にゆっくりと腰を落ち着ける。
部屋と言えどもどこの部屋なのか見当もつかない。
「何か必要なものはありますでしょうか」
「カーニャは無事なのか」
「ここにいます。巫女様」
声のする方向に腕を伸ばすとカーニャのか細い手のひらに当たった。優しくてを掴み、身体を擦って互いに寄せ合う。
「水を、出来れば蜂蜜水がいい」
柑橘系の果汁を加えた蜂蜜水はサカニカのお気に入りである。お香も要求しようとしたが水分が最優先だ。加えてお香は安値ではなく高値のものを出されてしまう可能性があった。
「すぐお持ちします」
受け答えが丁寧な奴隷は足音を響かせてどこかへ移動した。
「誰かほかに」
返事がない。
「……どうして白くなったか分かりそう?」
「いいえ、分かりません」
「そうだよねぇ」
「ただ、前と同じようにあの女が傍にいました。憎んだ眼で睨んで、その隣には弟と妹が。ずっと私を指さしてるんです」
掴んでいた手が小刻みに震えており、我慢しきれなくなったサカニカにはカーニャの身体をまさぐってから膝の上に乗せた。以前より少し重くなっている。
「神はきっと、忘れるなと教えたいんです」
「……深呼吸して」
一回、二回。
三回と深呼吸を繰り返していると複数の足音が聞こえてきた。音の軽さや重さの違いを分別出来たが、それを個人に当てはめるのは難しかった。
「サカニカ。蜂蜜水を持ってきたよ」
片手にコップを渡される。
「そこは寝具だから寝たくなったら横になってね。花を摘みたくなったら誰かがここに居るから呼んでくれたら手伝うよ」
「何から何まで感謝しかない」
「個人のために神託を得てくれたんだ。これくらいはしないと」
「二人だけで話し合える場所はあるか?」
「……あるね。エルナ、ここを頼んだ」
「任せて。カーニャ様。少し重いのですけど飲み物ですよ」
複数人いると思っていた人はリャクサの妻であった。
膝の上が軽くなり、カーニャが敬称をこそばゆく思っている声が聞こえる。
「旦那様、火はいりようでしょうか」
「いや、ない。よし、片腕を貰うね」
「頼む」
「他の家にはないだろうけど、酒の補完する蔵があるんだ。頑丈で涼しい、何より他の人が入ることは無い。盗むにしても石の蓋が動かせないからね」
リャクサは新興とはいえ貴族であり、都における土地の広さもそれなりにある。庭や家が小さいのは他の建物を優先したためであった。
神殿は人が住んでいる関係で大気の循環を考慮した構造である一方、蔵は真逆の構造をしておりサカニカが想像した以上の涼しさと淀んだ空気だ。
むせ返るような強い酒の匂いがするが、暫くすると慣れて何も感じなくなる。近場の石の柱を掴み、リャクサから手を離した。
「ここならどうかな。見えないだろうけど、暗いし誰もいない」
声の反響すら無い。
「……いい」
「神託のことだよね」
「カーニャには聞かせて良いものか」
(もっと大きくなってからでいいはず?)
いつか知らせる必要があるだろう。しかし、今である必要はないとサカニカは考えていた。
「神託の内容はさっき言った通り、生き残ればナーラムント家は栄光の階段を登れる」
リャクサは一度呼吸を整理した。
「でも、生き残るためには巫女と共に試練を乗り越える必要があるらしい。神の与える試練はどれほど過酷なのか想像も出来ないし、家の繁栄のためだけに今の家族を危険に晒せるのか……」
声は再び震えている。生きながらえる願いを聞き届けられなかったのだろうか、と。
「一つ、方法がある」
「……それは?」
「帝国を捧げる。冠があれば」
編んだ髪からぽろぽろと出てきたのは分解された冠だった。隠れていたのは葉のモチーフが数枚、それを繋ぐ糸のような金糸が髪留めとして表側に使われていたようだ。
「……偽物じゃないとしたら、一体どこで」
「二の妃から、第三者を通じて」
「ほ、本当だとしよう。今の皇帝に冠が無いことになる。それはつまるところ」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「選定が始まる」
ある危機の最中、独裁官が元老院の基盤と自らの同胞によって皇帝を名乗り、国家の礎として定め置かれた法の一部を改正した。終身独裁官、改め皇帝の選定は一定水準以上の財産を持つ者に権利が限る、と。
その後も多くの“皇帝”によって法に改正が加えられたが、元老院によって皇帝に制限が設けられることも多かった。その一つが金の月桂冠が関わる。
——これを失った場合は選定を執り行う。
「次にこれが使われるのは建国記念日、もう一ヶ月後……」
「戦争に行けば出席は免除される」
皇帝は基本的に軍事力に秀でている家系が務めていることが伝統的に多い。そのため反乱の鎮圧に取り掛かるのは不思議ではなかった。
「クラデンスが呼ばれなかったのはわざと出征を遅らせるためで……元老院が紛糾して放置したのは皇帝」
「これが精巧に作られた偽物でない限り」
「今の皇帝は武闘派と一味も二味も違うかもしれないね」
バラバラになっている月桂冠をサカニカは服の布のあまりにどうにか仕舞い込んだ。また髪に中にいれるには目が見えるようになったカーニャの助けが必要だった。
(今しかない!)
「リャクサ」
必死に探した彼の両腕を鷲掴んだ。
「野心があるなら私を助けて欲しい」
「……」
「秘教の巫女など信ずるに値しないと断じても、どうか、どうかっ」
声が裏返る。
「神託が必ずその通りになる保証はない。そうでなければただの浪費でしかない」
神託が必ず未来を決定しているのかの証明など今のサカニカは出来なかった。そもそも、不可思議な力であっても一般的な人間が考えるならば従う必要もない。
「それに共に試練を乗り越えるっていっても、どんな状況が来るか分からない。生半可なものじゃないだろうね」
(うっ)
「神の意思でもだ。なんぴとだって危ない橋は渡りたくないよ」
「……そうだな」
「でも、君は心の底から神託に従っているようにみえる。巫女だとしても、まぁ、普通じゃない」
リャクサの腕を握る力がどんどん弱くなっていった。するすると手が滑っていく。
「私が神託に従うのは……そうしなければ大事なものを神様に奪われるからだ。父が死んだように、カーニャが死んでしまうのが恐ろしくて怖い」
ついに膝から崩れ落ちてしまった。
「帝国と一人の巫女見習い、どちらが大事か考えれば分かるはずもさ。神殿の巫女」
帝国を守護するために神に身を捧げるのが巫女である。
巫女が神に帝国を捧げてしまうのは役割を見失っているようにリャクサからは考えられた。
「巫女一人の……二人の犠牲で帝国が救われるなら元老院は間違いなく二人を生贄に捧げるよ」
サカニカの肩にごつごつとした手が置かれる。
「月桂冠が出てきたときは驚いたけどね。無理だ」
「そんなことは――」
「——帝国は皇帝一人で動いてる国とは違う。元老院、民、奴隷もだ。巫女が帝国を捧げるのを良しとする人はいないだろうね。自分は家族さえ安全であればいいけど、保証はない」
「……神は」
「うん」
「神は嘘をつかない」
絞り出すようなか細い声だった。
「残酷でも、悪戯でも、神は嘘をつかなかった。私が信じているのはそこだけだ。私の総てを捧げろと託すなら、私は捧げることが出来るはずなんだ。冠が運命を導くなら、そうなるはずなんだ」
静かな時間が流れる。サカニカが動かずにリャクサの服布を掴んでいるにも関わらず、彼はじっと辛抱して立っていた。
「……忘れてくれ、何もかも、忘れてくれ」
「“帝国を捧げろ”と神託が降りたわけじゃないんだね」
頷いた。
「冠が運命を導く……」
リャクサは思考に耽る。
ブツブツと何百となる言葉にならない思考の欠片が口の端から飛び出しては消えた。
「だとしたら、やっぱり君の神は帝国を守ろうとしているのかもしれない」
サカニカを力強く引き揚げた。
「帝国の危機を乗り越えるのに巫女が必要。そう“解釈”できる」
「……そんな神様じゃない」
「君を助ける理由になるさ。家族を“守る”ために」
無理矢理サカニカを引っ張って冷たい蔵から飛び出し、大声で人を呼んだ。
「おおい!人を集めよう!」
理解していないサカニカは見えない目で見ようと首を振ったり瞬きを繰り返した。
「君の行動が、考えが、努力総てが捧げ物だ。確かにある意味帝国を捧げる結果に繋がるかもしれないけど、さっきまで考えていたものと違う」
両肩を掴まれた。
「未来は不確か。神託もそう。でも一定の方向性があるね。巫女、冠、そして試練」
「……それは」
「帝国が落ちていくのさ」
帝国が崩壊するときは彼の守らねばならない家族も同様に死の川を渡るときだ。
至極冷静を装って言葉にしたリャクサは、しかし落胆と同様の色を隠せないでいた。




