第十一話
「うっぷ……そこの入れ物をとって」
サカニカは完全に酔っていた。神殿に五歳から籠っている人間が船の揺れに慣れている訳もなく、ましてや船酔いに慣れることもない。
漕ぎ手の少ない帝国は人ではなく帆の力を頼って進み、船も大型化している。されども、大地と同じ状態ではないのだ。
「やっぱり勉強は陸でした方が……」
「今しか暇がないうえっぷ。戦いになれば私たちは治療と祈りで忙しくなるからね」
帝国の統治について学んでいたカーニャであるが、船酔いの人間が教育者のために度々中断せざるを得ない。
「そうですけど、無理をしたらまた倒れてしまいませんか」
「大丈夫、カーニャに全部教えるまで倒れない」
ただの意地だ。
「分かりましたサカニカ様、無理をしてしまうなら」
徐に床から立ち上がった。
「私にも権利があります。投票権のように!」
カーニャは部屋から退出し、暫くすると人を引き連れて戻って来た。
「えぇ?」
「巫女様、こちらをお飲みください。起きるころには戦地です」
ホロラムが連れてきた医者だ。体系化された医療を修得しておりあらゆる薬の効能を把握している。酔いがあまりに酷い人間には睡眠薬を処方するようにホロラムから指示が出ていた。
好物の柑橘が混じった蜂蜜水に薬が混ぜられ、手渡される。
「カーニャ?」
「飲んでください」
「まだ教え足りないのに」
「酔いながら教えられても覚えられません」
「……寝ればいいんでしょ」
薬の入った蜂蜜水を飲み干してからハンモックに横になる。瞳を閉じれば吐き気しか残らず寝つくまでの時間が無限にも感じられた。
結果としてサカニカには睡眠薬が効かなかった。
空に真っ青な月が浮かぶ夜。耐え難い酔いに部屋から静かに這い出し甲板へ歩いた。
数百人余りの軍団兵が乗る船は穏やかな波によってゆりかごのように揺れている。寝付けないのはサカニカのように船酔いに苦しむ人間か、それとも見張りや階下にいる操舵手ぐらいなものである。
「空を見上げよ、青い月より顔……なんだっけ」
遠い昔の記憶で詠われている詩の一節だ。古の信仰が遺した作品の一つで覚えやすく、歴史教養の範疇にある。大衆に迎合した信仰は形を変えて消滅したが、一度広まったものが消えるのは難しく面影が残った。
帝国が、特に皇帝が保護する神殿はその一つであり、古の信仰の守護者を代弁することも出来る。
「空をみあげよ、青い月より顔の目を。海をおよげよ、死した者に届くまで。陸をかかげよ、大火の望むるままに」
サカニカは真っ青な月を見上げた。
「どれが顔で目……?」
甲板にはサカニカの奇行を咎める人間はいなかった。見知った顔の人間が一人海上の見張りを行っているが、気付いていないならば声も欠けないことにした。
そのまま空を見上げ続け、流星群の流れをじっと目で追っていた。
神殿の黒い幕がされていない小窓から空を眺めるのは難しくない。しかし、ほとんど変わり映えしない空に興味を持ったことなどなかった。五歳の神殿に移動した日、カーニャと共に都に移送された日、白と赤の火の前で踊った日も同じだ。
されども、酔いが醒めてしまうほどの星雲の威力にサカニカは後悔した。
そこの感慨を共有できるか不明な男が一人、サカニカに気付き近付いてくる。
「ルシウス殿、見張りを放棄しても?」
「船の影も形もない。問題なかろう」
ホロラムは警戒していたが一介の兵士の認識が改まっているわけではない。
「今日は星が格別綺麗に見える。巫女よ、美しいサカニカよ。貴女の美しさは神にだって認められよう」
「世事はよせ」
「いいや!世事など俺は言わない。汚いものは汚い、綺麗なものは綺麗だ!美しい貴女は俺が出会ってきた男女の中でも群を抜いている!」
ルシウスは垂れ下がるサカニカの手を掴もうとしたが踏みとどまり、代わりに自分の両腕を広げて語った。
サカニカはふと我に返ると星ではなくルシウスを見ていた。
「巫女に求愛する奇人は珍しいな」
「認められるなら奇人にも変人にもなろう。俺の心は神殿で出逢ったときから変わらん。それが巫女であろうとも」
「元老院の貴族より優れている、私の認識はその程度だ」
率直な感想で諦めるような男ではなかった。
「……舞を見た。素晴らしい舞だった」
「集会の時か」
神殿の巫女が大臣の前で踊ったのはあれが初めてだろう。警備にこの屈強な男が配置されていてもおかしくなかった。
「国を守るために火に向かう姿、利害しか考えない元老院と大臣たちとは違う。国を守る美しい巫女を、誰かが護らねばならん」
「……必要ない」
「いや、ある。巫女だけが国を思うのは可笑しい。民全てが政に関われる国であろうに、なぜ真に守護を担うは巫女だけなのだ」
サカニカは無言になるしかない。
「俺も決めた。変えると、美しい巫女が笑って踊れる世にすると……俺でなくとも貴女を幸せにできる貴人はいくらでもいよう。俺は金がない、家も弱いし平民やら奴隷やらにだって笑われる。俺に出来るのは俺自身を馬鹿にして人を喜ばせることだけだ」
彼は再度両手を広げた。
「この戦いで俺は金持ちになる。家も復興させる。元老院に入って暗いこの国の人間全てを笑顔にしてみせる!どうかっ、ルシウス・マルキネスの隣で世を変える様を見ていてはくれまいか!」
ルシウスは神殿で一番良い顔を持つリシスよりは凡夫だ。粗も目立つ。兵士に呆れられていたが素直に従う程度には人柄がある。一応の信頼に足る人間であることは心のどこかで感じていたのだろう。
「……待て」
思わず回答しそうになったサカニカであったが思考は止まらなかった。心臓の鼓動が大きくなり視線はルシウスに釘付けになっていく。危うい思考すら浮かんでは消そうと努力するものの、一度光った景色を忘れられなかった。
「私は巫女だ。神に身を捧げると誓った身、人と同じ道は歩まない、歩めない」
「……」
サカニカは思い浮かんだ言葉に一度躊躇ったものの、少しづつしぼんでいく彼の気合に躊躇いを捨てた。
「そんな私でも良いのなら。ルシウスの覇道を見届けよう」
「……そうか!そうか!」
「これで衆目があるときに“お美しい巫女殿”を言われずに済む」
「《《美しい》》サカニカ」
とても朗らかな笑顔だった。
「……酔いも醒めた。私は寝る」
「俺も見張りに戻ろう。真面目にな」
空に真っ青な月が浮かぶ夜。
「……ルシウス」
(言わないと)
「どうした?」
「神様は私に、神託を下した」
星雲の光の隙間から星が筋となって落ちていく。
「帝国は試練を迎える。その先、カーニャと私は総てを神様に捧げよう」
「命もか」
「人の道を歩めない理由だ」
苦悶の表情を浮かべるルシウスの服と服を擦らせながらその場を離れた。変え難い感情を抱きながら甲板から静かに部屋へ戻り、何故か横になる場所が変わったカーニャの隣に寝た。




