#12 遠い蓮
にわか雨があっという間に強くなり、雷雨になっていった。まだ夕方なのに部屋は薄暗く、部屋に逃げ込んだ律はベッドに突っ伏して自己嫌悪に飲まれていく。普段通りにしていないと蓮がどうしていいのか迷ってしまう。だから、蓮が少し驚いた程度ならばいつも通り笑って返していなければならなかった。なのに、蓮の怯えた顔を見た瞬間になにも考えられなかった。
頭が真っ白になって、蓮が怯えた顔をしている表情だけ鮮明に焼き付いて、苦しくなった。懸命に普段通りを意識して振舞おうとしていた分、それでもだめなのかとショックだった。
……僕がいても、蓮が元に戻る目印にはなれない。だって、蓮は僕を怖がっている。
ベッドに突っ伏して顔を隠したまま、律は涙も出なかった。どうにか元に戻りたくて気丈にしていたが、頭を撫でようとしただけで怯えさせてしまった。無力感を通り越した自己否定。自分で壊してしまったものを元に戻って欲しいなどと言うのは自己中心的な我儘なのかとさえ考え、支えになるものが何もない。
胸が苦しくなって普通に振舞おうとして押し込めていたぐちゃぐちゃが律の心を余計に乱していく。六歳からずっと蓮と一緒に育ってきて、離れたことなどなかった。もちろん、拒絶されることも怯えられることも。
初めて父が蓮を連れて来た日のことを、律は今でも覚えている。母親が亡くなって身寄りがなくなったという蓮を父が連れてきた。喪服姿だった。いま思えば葬式の帰りにそのまま連れてきたのかもしれない。その割には蓮は暗く悲しみに沈んだ表情をしていなかった。全く悲しんでいない訳ではないのだが、身寄りのない子どもの途方に暮れた感じはしなかった。そして、父が律のことを紹介するとぱっと表情が変わって嬉しそうに抱きついてきた。
「りつ!」と幼い声で呼んで、抱き締められた感覚をいまでも鮮明に覚えている。
蓮と一緒に暮らすようになってから、律の世界に色彩が増したのだから。
その色彩が、消えかけている。しかもそれを壊したのは律自身に他ならない。
「律。りーつ」
外の雷雨に交じって聞こえた声は隣に蓮が座り込むまで律の記憶の中の再生だと勘違いしていた。それでも律は突っ伏したまま、顔を上げる勇気もない。聞こえた声は怯えていなく、普段の声色に近いのに。
「律。さっきはびっくりさせてごめん」
不器用に律の背中を撫でながら、蓮は律の隣で同じく布団に突っ伏して顔だけ律に向けて言った。顔を上げられないままの律は蓮の声だけを聞く。
「……蓮が謝ることじゃないよ。僕が……悪かったんだ」
心の中にぐちゃぐちゃなものを抱えながら律はなんとか返事をした。すぐ隣に座って同じようにベッドに突っ伏している蓮の方を向いてしまうと、茶色い癖っ毛に手を伸ばしたくなりそうで顔さえ上げられない。もしまたいつものように撫でる手を伸ばして怯えさせてしまったらと思うと、怖くて仕方がない。
「なんでさー、律が悪いん? 俺が大袈裟にビビったからじゃん。……なんか、色々、へん」
「……色々、へんってなに? 蓮は、どう変だと思ってるの」
ようやく律は顔だけ蓮の方へと向けて聞き返した。そこを受け流してしまってはいけないような気がして、押し潰されそうな気持ちを押し込めた。蓮が、わかりやすく不満げな顔をしている。
「律にしか言えねーけど、みんないつもと違う。親父も修治も、兄貴たちも……それから律も。んで、俺も。頭ん中、靄かかって思い出せねーとこあってさ。なあ、律。俺、知らん間になんかやらかした? 律や親父や修治、怒らせるようなこと、した?」
言葉を紡ぐごとに蓮の表情に不安が広がっていく。やはりあの晩のことを蓮は覚えていない。それだけでなく、翌日辺りまで記憶が曖昧なのだろう。
律はごくりと息を飲んでから、口を開いた。
「蓮は、何もしていないよ。だから、大丈夫」
──そう。蓮はなにもしていない。
なのに自分を責めてしまうのは記憶の空白のせいか幼少期の経験のせいかは律には判断できない。だが、どれだけ律が無力感に襲われていようと、蓮が自責するのは違うと思った。蓮がいま感じている違和感の原因は元をたどれば律にある。蓮の不安を利用して責任転嫁をしては、本当に後戻りできない壊れ方をしてしまうと感じたのだ。
「だって、律、全然大丈夫そーじゃねーじゃん。死にそーな顔してるし」
さっきまで律の背中をぎこちなく撫でていた蓮の大きな手が縋るようにシャツを強く握った。不安に押し潰されそうな顔。記憶にないなにかが重大な過ちだったかもしれないという疑惑。蓮の不安と疑惑を言葉で解消することは簡単だが、蓮を傷付けた行為を再現しかねなく、律には選べない。
「……あのさ、僕が蓮のすごく嫌がることをしちゃったら、蓮は僕を嫌いになる?」
「なんない」
「どうして言い切れるの」
「律だから。それに律はそんなことしねーもん」
相変わらず蓮は条件反射のように律だからと返事をするが、律はその返事をそのまま受け取れない。それが蓮の希望に他ならないともう知ってしまっている。蓮は本心でそう思っているかもしれないが、根の深い蓮自身が自覚していないかもしれない記憶が作用してしまうことをいま目の当たりにしている。
外の雷雨が激しさを増して、雷がとても近くなっている。激しく窓に打ち付ける雨と、時々光る稲光と雷鳴。閉塞感に満ちた部屋で、心まで重苦しくなったしまう。茶色い癖っ毛を撫でて、不安も疑惑も宥めたいのに手を伸ばすのが怖い。いまの蓮には律も父も修治も──家の男たちもみんな普段と違うように映っている。律が手を伸ばしても、また怯えさせてしまうかもしれない。
「あのさー……さっき、律とかみんなへんって言ったけど、俺もへん。ビビらんでいいとこにビビってるし。だから、なんかわかんねーけど、全部へんになってるんだけど……そんでも、やっぱ……律のこと嫌になるとかない、から、律が泣きそーになってんの、やだ」
「……泣かないよ……」
普段は思ったままを率直に口に出している分、言葉を選んで話す蓮は歯切れが悪い。けれど、不安と疑念を持ちながらも、それでも蓮は律を優先して泣きそうだという。泣きたい気持ちは確かに律の内心にあって、蓮には隠し切れない。
「れん、触ってもいい?」
「ん」
少し緊張したような返事を聞くと、律は両腕を連に伸ばして茶色の癖っ毛を緩く撫でた。そうやって蓮の癖っ毛を撫でるといつも気持ちが落ち着いていた。やっと律は深く呼吸ができた気がする。
「蓮。……ごめんね」
「……なんで?」
「僕が蓮に酷いことしたから」
「そんなんしてねーよ? 覚えてないし」
「それでも、ごめん」
ゆるゆると蓮の頭を撫でながら律は繰り返した。蓮が手の下で返してくる疑問にも抗議にも明確な返事はできない。ただ、律は蓮の茶色い癖っ毛を撫でながら「ごめん」を繰り返す。一方方向の自己満足でしかない謝罪に意味はない。しかし、律には自分を保つために必要な言葉だった。
雷雨は増して酷くなり、雨音がうるさく暗くなった外に光る稲光が眩しい。雷鳴が轟く。
──僕の心の中みたいだ。
けれど、それは蓮も同じかもしれない。ふと気付けば周囲はいつもと違い、自分の中にも違和感がある。なのにどうしてなのか皆目わからない。蓮が迷子ならば、律は迷子を捜しに行って見つけられなくて迷った子どもだ。どちらも一緒に帰りたいのに、目印も見つけられなければ、迎えに行く先もわからなくなってしまっている。
*****
日曜の夜に修治が「そろそろ学校にも登校しないといけませんね」と言ったので、月曜の朝は普段通りに朝の支度をした。律は普段通りにアラームで目を覚まして、身支度をする前に水を飲んで縁側でしばらくぼんやりとして過ごす。その後、蓮を起こしに行く。
蓮の部屋の木戸を開けると蓮は頭まで布団を被ってまだ眠っている。一見、普段とまるで同じで律は勘違いしてしまいそうになる気持ちを抑え込んだ。頭まで布団を被っている姿は同じでも、それは身に染み込んだ癖でしかない。あの晩の後から、蓮はうまく眠れていない。嫌な夢も見ているようだ。それをもう律は知っている。
睡眠不足や悪夢の類は時間が薄くしていくかもしれないが、それがいつなのか判然としない以上、律は自傷のように心を痛め続ける。
「れん。れーん。起きて。朝だよ」
律は枕元に座り込んで呼びかける。布団の上からも触れる手を伸ばさない。起こす声だけ。
「蓮。おーきてー」
似たような声をかけ続けていると、もぞ、と布団の塊が動いて先に手だけが出てきて手探りでなにかを探し、なにも見つけられないとわかると寝起きの蓮が顔を出す。……本当はその探る手を取った方がいいのだろうかと律はまだ迷う。
「……りつ……」
「おはよ、蓮」
「……はよ」
寝起きの声で返事する蓮の顔色はあまり良くない。うまく眠れなかったのか、悪い夢を見ていたのかは不明だ。あるいは両方かもしれない。
「支度して、ごはん食べ行こ」
蓮が目を覚ましたことを確認すると律は蓮が起き上がるのを待たずに部屋を出て先に身支度をしに部屋を出た。まだうまくできていない、と洗面所に向かいながら律は唇を噛んだ。
できるだけ普段通りに。でも、自分から蓮には触れない。
修治が言う蓮が戻れる目印でいることと、蓮がこの家の全員に持っている疑念と不安を緩和することと、反射的に怯えさせないこと。その三つの条件を同時に満たせる方法を考え抜いた末、律が出した結論はそれだった。もっと父や修治に相談していれば違う方法もあったかもしれないが、最初に蓮にきっかけをつくったのは律で、自分で考えなければ意味がないのだろうと思った。
結局、律はどうしても蓮がこのままひとりで閉じてしまいそうな現状が嫌で、元のように戻って欲しい気持ちを諦められない。その反面、拒絶されることも怖がってしまっている。矛盾しているが、だからこそ普段通りを装ったまま触れないという選択になった。
「……本当に、これでいいのかな」
顔を洗って鏡に映る自分の姿が偽物のように見えて、律は不安になる。胸の中のぐちゃぐちゃが存在感を増して、些細なことで迷い気持ちが不安定になってしまう。そんなことではだめだと理性ではわかっていても、感情がついていかない。
*****
制服を着て学校にいると、まるでなにもなかったかのように普通の高校三年生の日常に引きずり込まれた。課題の話、教科の先生の話、クラスメイトの話──進路の話。先週の二日間、律と蓮が同時に休んだことにクラスメイトに突っ込まれると、律は苦笑して誤魔化した。
「家の事情だよ。だから蓮も一緒」
そんな言い訳をする律を蓮がじっと見ている。
けれど家の事情とは便利な言い訳で、どうとでも取れる。クラスメイトに詳しい事情など話す必要もない。特別に親しくしている友人もいない。だから、構わない。
登校すると蓮は律の心配が杞憂だったかのように平気そうにしていた。律に話しかけてくるクラスメイトを威嚇し、追い払う。特に女子は禁止と言い放つ。普段と同じ学校にいる時の蓮だった。
一時間目、二時間目と授業を受けて合間の休み時間に律はふいと教室から出た。移動教室でもなく、ただのサボり。屋上の日陰にくったりと大の字になってぼんやりと空を見上げる。昨日の夕方の雷雨が嘘のように晴れている。
「……全部嘘だったらいいのに……」
無意識のうちに呟いてしまったと気付くのと、屋上の鉄扉が鈍い音を立てて開く音がしたのが同時だった。授業をサボって教師の目につきにくい屋上にいる者はたまにおり、律はその音を特に気にしなかった。だからこそ、足音が近づいてくるのにも気付かない。
「りーつ、みーっけ」
悪戯っぽい声が降ってきて、律の視界に不器用に笑う蓮が入り込んだ。
「……見つかっちゃった」
かくれんぼの鬼のような口ぶりの蓮に合わせて律は苦笑した。そのまま蓮は律の隣に転がってしばらく無言でいたが、隣り合った方の手を恐る恐る握ってきた。触れ方に迷いがあって、律はまだ怖いのだろうと勝手に予想する。
「なー……律。なんで一人でサボりに来たん? 俺、来ない方がよかった?」
「違うよ。昨日、あんま寝れなくて眠かったから。僕が寝ちゃったら、蓮、暇でしょ?」
「全然。律、寝てていいから、俺、いてもいい?」
「なんでそんなこと言うの。いいよ」
いることをいいかと確かめる蓮は初めてだ。律の嘘に気付いているのかもしれない。それとも、別の不安に触れてしまったのか。
こうして普段のふりを装うことは蓮に小さな嘘を重ねていくことなのかと思うと、律は嫌だなと思う。重なって膨大になった嘘の上には本当の言葉の意味が薄くなってしまう気がする。ぐちゃぐちゃに胸に居座り続ける不安定なものの中に大事なものが隠されている様な気がするのに、律はまだそれがなにかも見つけられていない。隠されている大事なものを見つける前に嘘の山が詰み上がってしまったら、どれだけ大事なものをほんとうだといっても伝わらないのではないかと思う。
「……れん、ごめんね……」
無意識のうちに蓮は呟いていた。握られた片手の力が強くなった。
「最近、律、謝ってばっか……」
「うん。ごめん」
なにもうまくできていない、と律は空いた片手で眩しい日差しを遮って目を伏せた。片手は蓮に握られたまま、握り返せもしない。それでも伝う蓮の温度に僅かな安堵を感じているのだから、律は雁字搦めのままだ。
目を伏せたままでいると、小さく囁くように蓮が歌い出した。クロース・トゥ・ユー。風が吹いたらかき消えてしまうような小さな囁く低い歌声は、切なさを滲ませたままで律まで苦しくなってしまう。




