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若と忠犬と黒瀬組 ─ 進路の決まらない僕と一緒にいる幼馴染 ─  作者: 灯屋 いと


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#13 ぎざぎざの爪

「……あ。またやっちゃった」

 夜に自室で課題のプリントを解きながら思わず律は呟いた。口の中に爪の欠片。ここ数日無意識のうちに爪を噛んでしまうことが多い。元々そのような癖はなく、ごく最近のことだ。左の親指の爪がボロボロになったことに気付いてからは気を付けるようにしているのだが、なにかに集中していると注意を忘れて噛んでしまう。もう左手の爪は噛み跡でぎざぎざになってしまっている。更に、小さなささくれをむしってしまっており、爪の生え際に血の滲んだ跡がいくつか。

 律はそんな自分の手を嫌だな、と思う。ボロボロの爪のまま律の頭を撫でたら、髪を引っかけてしまいそうだ。──触れないけれど。想像するだけだが。

 隣の部屋からは微かにゲームのプレイ音が聞こえる。いままでなら律はその隣で蓮のゲームや部屋にある雑誌を眺めていた。けれどそれは蓮が律が傍にいることを無条件で許していたからだ。もうそんな風に近くにいたら、いつ蓮を驚かしてしまうか、怯えさせてしまうか予測さえできない。結果、律は蓮の部屋に入ることも少なくなり、暇を持て余して課題のプリントで気を紛らわしている。


 律の爪先にぎざぎざの歯形が増える。ささくれをむしってしまった後の小さな傷が増える。

 隣の部屋からがちゃ! と大きな音がした。ゲームの音が聞こえなくなり、ゲームオーバーになった蓮がコントローラーを苛立ち紛れに投げ出したのだろう。普段ならば「負けたー」と悔しそうに言うだけで、蓮は物に当たらない。喧嘩っ早く、武道の腕があっても粗野なのではない。それは律が一番よく知っている。


*****


 普段よりもほんの少しだけの距離。そんなことを律は気にかけていた。近付きすぎなければ普通でいられる。癖のように触れてしまって驚かすことも怯えさせることもない。蓮にくっつかれることも寄りかかられることも、触れられることも嫌ではない。ただ、律から手を伸ばしてしまうことが問題なのだ。だからほんの少しの距離が必要だった。

 それが律が蓮に普段と変わらない振りを装え、不自然にもなりすぎないラインだ。

 朝、蓮を起こす起こし方、学校での過ごし方、帰ってきて眠るまでの過ごし方が少しずつ変化する。けれどひとつひとつは些細な変化でしかないはずだった。なのに、それすらもうまくいっていないようで律に小さな不安と迷いが蓄積されていく。

 胸の奥のぐちゃぐちゃが日増しに大きくなって律の中になにもかも間違ってるのではないかという思いが膨らむ。蓮が少しずつ普段通りに振舞うことが増えるにつれ、じゃれて悪戯をしてくる些細な触れあいに律の気持ちが軋んだ音を立てる。いままで気にしたこともなかったのに、触れる温度が心地よくて離れたくないと思ってしまう。


「……なんで、なのかな……」

 ぼんやりしたまま律は無意識のうちに呟いた。

 学校の放課後の掃除当番。つい箒を握ったまま上の空で考え事をしてしまっていた。そんなことではよくないな、と思いつつ手を動かそうとするとふいに持っていた箒ごと誰かに引き寄せられた。「わっ!」と思わず声が出たがバランスを崩しただけで倒れるほどでもない。「なに?」と正体不明の相手に抗議すると、箒から片手を剝がされてしまった。

「あー! やっぱりー! ねえ、りつりつ。どーしたのこの爪。痛くないん?」

「え? 爪?」

 律がようやく引っ張られた方へと顔を向けるとクラスメイトの女子が律の爪先をまじまじと見ていた。メイクをしっかりしていて、制服を着崩したギャル。律の手を掴んでいる手の指先の爪は派手なネイルで飾られている。

「痛くは、ないよ」

「うっそ。こんな深爪しちゃって痛いじゃん。しかもガタガタ。齧っちゃったのー? うちも昔やってたよ。ストレス? とかで爪かじったりしちゃうんだってさ。怒られたなー」

「ストレス?」

「そ。うち、そん時反抗期だったからさー。いまよりもっと」

 そう言ってクラスメイトのギャルは笑う。律にはそんな自覚はなく、困惑する。

「掃除、もう終わるよ。どうせりつりつ、蓮くん待ちでしょ? 爪、手入れしてあげよっか」

「手入れ?」

「こんなガタガタの爪じゃーさー蓮くん引っ掻いちゃうよ? 嫌じゃん?」

「あ……」

 クラスメイトの言葉に律は思わず反応してしまい、そのまま人の少なくなった教室の空いた席に座らされた。クラスメイトのギャルがかばんの中からメイクポーチを出して勝手に律の手を取って爪にやすりを掛けていく。その後ろに彼女の手元を覗き込んでいる女子がもう一人。友人なのだろう。

「ねー、りつりつ。最近、なんかあった? 蓮くんとギスってんじゃん? いっつもあんなべったりなのにさ。余計なお世話だったらごめんだけど」

「……いや、そんなことないよ。ギスってるように見えるんだ」

 大人しく爪の手入れをされながら律は当り障りのない返事をした。

「んー……りつりつが普段より蓮くんに冷たくて、蓮くんはイライラしてる感じ? アタシはさー、蓮くん推しだから蓮くんイラってんのあんま見たくないし、こいつはりつりつ担だから蓮くんに冷たくしてるりつりつ見たくないんよ。アタシらの勝手で、りつりつにも蓮くんにも関係ないけどね。ホラ、推しのプライベートに入り込みすぎんなって言うじゃん?」

 手際よく手を動かしながら明るく話すクラスメイトの女子と後ろから覗き込んで頷いている女子の二人を律は交互に見てから、小さく「推し……」と呟いた。よくわからないが、ほとんど話したことのないクラスメイトに心配されていることだけはわかった。

「また齧っちゃわないよーにトップコートも塗っとくね。ネイルって地味に効果あるんだよ、爪齧り防止。なんか塗ってある爪、齧るの抵抗あるじゃん?」

「そうかも。ありがとう」

 律は両手を出してされるがままに爪先をやすりで整えられ、仕上げにトップコートまで施されていた。よく見るとトップコートを塗った爪は普段よりも随分とつやつやして見える。

「え。こんなにつやつやになるの? ……深爪、あまり目立たなくなってる。すごい」

 素直に律が感心していると、女子二人は嬉しそうに笑っていた。

「ねー、りつりつ。また爪、噛んじゃったらきれいにしてあげるよ。でもさー、そんなんなんない方がいいじゃん?」

「……うん。そうだね」

 律が苦笑を返したタイミングで「りーつー!」と言いながら蓮が入ってきた。確か成績のことで社会科かなにかの教師に呼び出されていたのだった。律が蓮を振り返ると、目が合い、蓮がものすごい勢いで律とクラスメイトの女子の座っている場所に寄ってきて上半身ごと抱えられた。

「……お前ら、律になにした?」

「蓮くん誤解ー! なんもしてないよー。襲ってないしいじめてないってば」

「マジ? なんかしてたら殺すけどな?」

「蓮。なにもないって。手の……手入れしてくれただけ」

 蓮が律の周りに女子が寄るのを嫌がるのはいつものことだが、座ったまま上半身をホールドされ、声が普段よりも少し低い。女子たちは笑っているが、蓮は冗談ではないようで律は抱えられたまま事実を伝えた。

「手? なしたん、律」

「りつりつの手え、荒れてたんだもん―。きれいなのにもったいないじゃん? 蓮くん、ウチら感謝されてもいいくらいなんだけどー?」

「え? マジ? ごめんってー」

 クラスメイトの言葉に珍しく素直に蓮は謝り、「律、手え見せて」と言ってきた。二人の女子は任務完了、とばかりに「じゃあねー。りつりつ、蓮くん、ばいばいーい」と教室を出ていく。蓮は律を抱えた手を緩め、後ろから片手で律の手を取ってまじまじと見ている。

「すげー。爪、ぴかぴか。女子ってすげーなー」

 あまり律と変わらない単純な関心の仕方をする蓮に思わす律は、ふふ、と笑った。抱えられている腕は緩くなったものの、後ろからのしかかってくる蓮の体が重い。珍しいものを見るように蓮は手入れされた律のつやつやの爪を触って遊んでいる。──そんな風にしているのがとても懐かしい感じがして、足りないものが埋められるようで嬉しいと思ってしまう。

「れーん。ねえ、そろそろ重いんだけど」

 律が抗議すると、蓮に片手を握り直された。

「んー……。あ、律。擦り傷」

「え?」

「爪も生え際。血ィ固まってる」

 そう言ったかと思うと蓮は掴んでいた律の手の指先に唇を触れた。

 がたん、と机と椅子が大きな音を立てる。蓮の腕が緩んでいるのをいいことに、律は蓮を振り払ってしまった。

 いくら普段の距離が近いとはいえ、それはさすがの律でも驚く。

「……蓮っ……! なにして……」

「あー……ごめん。びっくりした? 舐めときゃ治るかと思って」

「馬鹿っ……!!」

 そんなことはいかにも蓮が考えそうな、深い意味もなにもないことで普段なら苦笑で済ませられるのに。律は自分のかばんを乱暴に引っ掴んで教室を早足に出ていった。蓮の顔もまともに見れない。少し気を抜いたら泣いてしまいそうだった。

 指先。爪のところ。

 そんな場所でも唇が触れた。──それは、キスと呼んでいい。

 舐めときゃなんて子どもじゃなんだから! 指先だって、どこだってそんなの変わんない! 馬鹿!!

 声に出さないだけで頭の中で律は罵倒を繰り返す。そうしないと律の気持ちが収まらない。ほんの少しの時間だけ、普段の距離に戻れたようで嬉しかったのに律は別の混乱に引きずり込まれる。蓮が元に戻って欲しいという願いとは別の──自分の中のぐちゃぐちゃの中へ。


 蓮が触れた唇を、律は嫌だと思わなかった。ほっと、安心さえした。

 けれど、そんなのおかしいと理性が反発する。爪の手入れをしてくれたクラスメイトの女子の名前すら覚えていないのに。

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