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若と忠犬と黒瀬組 ─ 進路の決まらない僕と一緒にいる幼馴染 ─  作者: 灯屋 いと


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11/12

#11 壊れた距離

 朝、律が目を覚ました時、普段と違い頭がやけにぼんやりしていて少し頭痛がした。寝起きなのに気分が沈んでいて、昨晩のことを思い出して律はようやく納得する。──蓮が、泣いた。それだけではなく

 昨晩、蓮が泣き止むまでずっと律は抱き締めていて、そのまま眠ってしまった。ベッドにも入らず、床でまだ腕の中に蓮がいる。目元が泣いたせいで赤くなっており、心なしか寝顔に影が差しているようで律の気持ちがざわつく。修治と父の言葉が律の脳裏を掠めた。

 ──普段通りにしていれば戻ります。

 ──ああいう類のやつは本人次第ってのが一般論だろうが。

 恐らくどっちも正しいのだろう。けれど、律の不安は増す。普段通りにとは、本人次第とは。どうしていれば普段通りで、本人次第──蓮次第と言われてもまるでかわからない。律にできることがわからない。ずっと一緒にいてあのような素振りも兆候も見せたことがなかった蓮に律は戸惑っている。

 無神経に怒鳴り散らして、蓮のこと、壊しちゃったんだ。

 焦って判断力が低下していた。そんなことは言い訳にならない。後悔と罪悪感と恐怖が律の中で綯い交ぜになる。明るくて強くて活発な律の知っている蓮と、昨晩の蓮は別人のようだった。

「蓮」

 無意識に律は片手で頭を撫でようと手を伸ばした。けれど、抱いていた手が離れて茶色の癖っ毛に触れた瞬間、腕の中の蓮がびくりと震えた。手に伝う体が緊張に強張っていて、律の胸が軋む。しばらくした後に、掠れる声が小さく聞こえた。

「……り、つ?」

「うん。そう。おはよ」

 できるだけ平静を装って返事をすると、蓮がほっと溜息をつき、ゆっくりと律の手に伝う緊張がほどけていった。修治は普段通りにしていればいいと言ったが、普段通りに触れることもいまは駄目なのだと律は反射的に理解してしまった。

「おはよ。……なんで律、ここにいるん? なんか……寝落ちた?」

 昨日よりちぐはぐではないが、蓮は昨晩のことをあまり覚えていないらしい。もしかしたら、律が怒鳴り散らした後の記憶ごと。そんな予感がして律は確認できなかった。

「うん。寝落ち」

 しかし、それでは蓮を抱きしめて眠った説明がつかないが、律は蓮の安易な仮定をそのまま肯定した。ほかにもっといい回答があったのかもしれないが、眠っている無意識の間にも触れようとしただけで震えた蓮に、律も動揺していた。いまも少し、動悸がする。

「蓮、もし僕が蓮に嫌なことしちゃったら……言ってね?」

「なしたの、律。そんなことしたことねーじゃん」

「……わかんない。だから、言ってね?」

 掠れた声のまま蓮の言葉は普段とあまり変わった様子はない。ただ、昨晩のことを忘れてしまっているのか、意図的なのか触れない。そのことが律を余計に揺さぶる。発言の重みが律を普段よりも慎重にさせてしまう。

 カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が眩しくて蓮に絡めていた腕をそっと離して律は起き上がった。床で寝てしまっていて体があちこち痛いけれど、気持ちの方が痛くて身体的な痛みはあまり気にならない。ただ、普段通りに習慣で縁側に座る気にはなれなかった。そもそも今が朝であることは確かなのだが、頭が回らなく何時であるか確認しようとすることさえ律にはできていない。

 律が起こすことを急かさないからか、それともまだ昨日の影響が残っているのか蓮は床に転がったまま動こうとしない。元々、寝起きは悪いが、普段の蓮は怠惰ではないのに。

 ぼんやりと律がいつもと違う朝が普段通りに戻るのだろうかと考えているうちに、部屋の木戸がノックされた。蓮は床に丸まったまま二度寝した気配はないのに返事をしない。律もノックの音に反応が遅れたが、返事を待たずに木戸を開けてきたのは修治だった。

「おはようございます。いい加減朝食が冷めますよ。それから今日はゆっくり休んでください。学校には連絡を入れておきます」

 半分は小言めいていて、半分は律には理解できない。蓮はそもそも聞いているのかどうか、修治に反応さえ示さない。

「学校、どうして」

「どうしてと言いますか。愚問では?」

 それだけ言って修治は母屋の方へと戻っていった。

 愚問、と言われ律はすぐ隣の床で丸まったままの蓮に視線を向けた。寝起きに少しだけ会話らしいものをしただけで、まだ起き上がってすらいない。茶色い癖毛の寝ぐせが床で寝たせいでいつもと違う方向を向いている。その寝ぐせを直す手を伸ばしていいのか、朝食に行くよう促す手を伸ばしていいのか律は迷ってしまう。

「蓮、まだ眠い?」

 結局、律は手を伸ばせないまま問いかけた。

「……眠いって言うか、頭ぼーっとしてる。なんともないのに、ダルいみたいな……? なんか変な感じする」

 寝返りを打った蓮は片手で顔を隠しながら覇気のない声で言う。唇がかさかさになってるな、と表情が見えない分、律は普段と違うところに目が行ってしまい蓮の内面だけではない痛々しさを見つけてしまう。

「熱とか、ない? ……触っても、大丈夫?」

「ん。だいじょーぶ。律、どしたの。そんなこと態々訊かないじゃん」

「心配だから」

 曖昧で端的な言葉を返して律はそっと蓮の額に触れた。触れることを先に言ったからか、蓮は普段と同じに律の手に無防備だった。そして発熱もない。先ほどの蓮の反応は偶然だったのかまだ律には判断できないが、思わずほっと息が零れて泣きそうになった。

「りつ。律、どしたの。律の方がしんどそーじゃん?」

「僕は、大丈夫。蓮、ごはん食べに行こ。あんまり遅いと今度は父さんが小言言うよ」

 額に触れた手を掴まれて律は不器用に少し笑った。

 いつもより少し違う蓮。一見するとただの風邪かなにかで怠そうにしているようにも見える。しかし、そうやって判断を鈍らせてしまうことが、恐らく一番危ないのだろうと律の内心は不安で押し潰されそうだ。

「んー、うん。あんま、メシの気分じゃないけど」

 しなやかに動く蓮が、筋肉質の体を重そうにして起き上がった。律から見える横顔が精彩を欠いている。やつれているとか隈ができているなどの具体的な表面化は昨晩泣いて赤くなった目元だけだが、明るく活発な印象が消えた。抽象的過ぎて律は自分が心配しすぎているのだと思い込もうと努める。──そうしないと、律まで引きずり込まれる予感がしたのだ。ただひとつ、昨晩のあの無表情が消えていることだけ、律を安心させた。


*****


 時間を大幅に遅れて母屋の食堂へ行くと、そこには父と修治だけが残っていた。台所で片付けをしていた若い男が律と蓮に気付いて食事の用意を始める。他の者たちは朝食を終えてしまっているのに、味噌汁と副菜を温め直して白米と茶と一緒に並べられた。それは食事が遅れた者にいつもしている習慣なのだが、そんな普通のことがいまの律には苦しい。

「おはようさん」

 父は心なしか静かに朝の挨拶をしてきた。新聞を手にしているが、恐らく読んでいる訳ではないだろう。

「おはよう、父さん」

「おは、よ」

 律と一緒に返事を返した蓮の声が心なしか固く思えて、律はちらりと蓮を見た。普段と同じ精彩がないのは先ほどと同じだが、それ以上の変化は律には見つけられない。けれど、律の内心はざわついてしまう。

 定位置に座って用意された朝食に「いただきます」をするが、蓮にいつもの勢いはない。もそもそと味がないものを口に運んでいるようだ。つられるように律も箸が遅くなる。

 食堂の外側のざわめきは普段通りなのに、そこだけ切り取ったように別の空間のようだった。妙に空気が重苦しい。原因はわかり切っている。

 沈黙を破ったのは父だった。

「なあ、蓮。昨日はすまんかったなぁ」

 新聞に視線を落としたまま、父は独り言のようにぽつりと言った。

「昨日? 親父、それなんのこと」

 律の隣で答える蓮の言葉ははぐらかしている素振りはなかった。けれど、声の固さが増していて言葉とちぐはぐだ。反射的に緊張している気配すら感じる。思わず律は箸を置いてしまった。

「……いや、なんでもねえよ。気にすんな」

 父の声音に変化はなかった。律の向かいに座って茶を啜っていた修治も普段通り冷静なままだ。それが大人の態度なのかもしれないが、律にはそれがかえって怖い。

「……ごちそうさま」

「俺も。ごちそうさま。残してごめん。律、俺先に戻る」

 食事を残したことなどない蓮が居心地悪そうに、逃げるように離れへと戻っていった。

 食堂には律と父と修治が残された。そうなってしまうと、話題はひとつしかなくなってしまう。律も逃げ出したい気持ちになるが、それではなにも解決しないと膝の上で両手を握った。台所で「ごちそうさま」を聞いたのか食器を下げに来た若い男が「食えなかったかぁ」と呟いていった。きっと、この家にいる誰もが蓮を──そして、律を心配している。

「あのさ……僕、どうしたらいいの。普通にしてるってどうしたらいいの。たぶん、いまの蓮、少し混乱してる。記憶が曖昧って言うか。それで、不意打ちで触られると警戒しちゃってる。それって昨日の今日だから? それとも、そんな単純な話じゃないこと?」

 律が今朝感じた不安を吐露すると、父も修治も溜息をついた。それは“簡単な話”ではないことを肯定されたと律は受け取り、事態の深刻さに苦しくなる。俯いてしまいたくなるが、それではなにも変わらない。父と修治が朝食を終えても食堂に残っていたのは律の戸惑いを受け止めるためなのだろう。

「僕は、いつもの蓮に戻って欲しい」

 どうしたいのかを明確にしないと父も修治も困るだろうと、律ははっきりと意思を示した。蓮が不安定になっているから嫌になったのではなく、その原因の一端が自分にあると自覚しているからこそ律は蓮にどうにか手を差し伸べたい。けれど、その方法がわからないのだ。

「だったらお前がおどおどしててどうする。そんなんじゃ、蓮も戻りたくても戻れねえよ」

 父は煙草盆を引き寄せて煙草に火をつけながら淡々と言った。突き放しているのではなく、ただ事実を言っただけだが、律には苦しい。蓮の端々に覗く痛々しさを前に平然としていられるほど律は割り切れない。まして、律には蓮を傷付けたという自覚がある分、後ろめたさがある。

「若。これは子どもの喧嘩の類ではないのです。謝る謝らない、許す許さないの問題ではありません。偶発的な事故のようなものと考えなさい。それに、竜一さんの言う通り、あなたまで普段と変わってしまったら蓮は余計に迷子になってしまうでしょう。落とし穴に落ちてしまって、元の居場所に戻りたいのに目印がないようなものです。不甲斐ないですが、蓮が一番必要としている目印が若なのですよ。若は、いつもの蓮に戻って欲しいのでしょう?」

「そう……だけど」

 自信のない声で修治に返事すると、煙草をふかしていた父が「律。お前の方が先に大人になんなきゃなんなくなっちまっただけだ」と言ってきた。

「なあ、律。蓮がどうなろうと、誰も見捨てねえんだよ。あれはお前と同じで俺の息子だ。血ィ繋がんなくてもな。だからな、お前は焦んな」

「……うん」

 律は短く頷いて離れに戻った。

 父も修治も平然としているのではないと気付いた。ただ、大人だから平然としているように見えるだけで、そして見守るしかない立場をわかっているのだ。修治が目印と言ったことが律には腑に落ちた。律自身にも思い当たる節があるのだ。

 迷った時、落ち込んだ時にいつも内心で蓮を探している。そして蓮が笑っていたり、鼻歌を歌っていたり、ただそばにいるだけで気持ちが落ち着いていく。だから、いまは律が普段通りにしていないと蓮が余計に不安になってしまうのだ。──そうやって育ってきたから。


 離れに戻ると蓮は縁側で鼻歌を歌っていた。囁くような低く柔らかい歌声。ムーン・リバー。いつもの蓮の癖なのだが、歌声に優しさよりも切なさを感じた。蓮の無意識なのか、律が過敏になっているせいなのか判断がつかない。ただ、律は蓮の歌に胸が苦しくなる。

 もっとわかりやすく拒絶されていれば、きっとどうしたらいいのか明確で踏ん切りがつく。けれど蓮は普段の大胆さと真逆に繊細に傷付き、律にも全容がわからない。

「れーん」

 呼びかけながら律は蓮の隣に腰を下ろした。無言で近付いて驚かせてしまうのではないかと思ったのだ。蓮の歌が静かに終わる。

「今日、どうしよっか。学校、行かなくていいって言われちゃったし」

「んー……ダルいし、したいこととか……ない」

 俯き加減で蓮は歯切れ悪く答えた。

 朝言っていたことは寝起きのせいではないのだと律は唇を噛みそうになって、自制した。先ほど父と修治に言われた言葉を思い出す。

「二度寝でもする?」

 できるだけ軽く言って蓮の顔を覗き込むと、表情が不安と苦しさが混ざったように揺れていた。辛いのは僕じゃない。律は蓮の顔を見てはっきりと自覚した。蓮の口元が迷って、ぽつりと呟く。

「律は?」

「一緒に寝る。床で寝ちゃったから体痛いし」

「……うん……」

 蓮の返事はほっとしたようにも聞こえたが、その裏には複雑に絡み合った感情が見え隠れする。ゆっくりと時間をかけてしかほどけない種類のもの、なのだろう。


*****


 平日二日学校を休み、土日を入れて四日目。

 律と蓮はずっと離れずに──けれど、普段の当然のように一緒に行動しているのとは違った意味で──神経質な空気を纏い、少しでも間違ってしまえば共に底のない虚無に飲み込まれてしまいそうな不安を抱えながら過ごしていた。元々慎重な律が慎重さを増す分、表面上は普段通りを装いながら摩耗する。蓮は、少しづつ怠いと言うこともなくなり表情の幅も戻りつつあったが、それでも律は安心できなかった。

 蓮が時々歌う鼻歌が、切ない悲しい歌声から変わらない。柔らかく優しい歌に戻っていない。

 そんなことを基準にしていいのかわからなかったが、律には癖で無意識に歌う鼻歌が一番蓮の状態をわかりやすい形で表しているように思えた。


 日曜の午後、夕方前ににわか雨が次第に強くなっていった。蓮は縁側で他にすることがないように鼻歌を歌っている。律はキッチンに麦茶を取りに行っていた。

 普段は蓮の部屋に律が転がり込んでいることが多いが、この数日はそれも息が詰まるのか蓮はよく縁側にいる。夜はそれぞれ自室で眠っているが、一人になると律の不安は膨れ上がってしまい寝不足が続いていた。蓮もうまく眠れないのか、あまり顔色が良くない。

「蓮。雨強くなってきたから、中、入ろ? 濡れちゃうよ」

 麦茶のグラスを乗せた盆を片手に、もう片手で律は蓮の背後から茶色い癖っ毛に手を伸ばしてそっと撫でた。声をかけてからならば大丈夫だと思っていたのだ。しかし──

 律の手が蓮の頭に触れた瞬間、蓮はびくりと大きく震え、怯えた顔で律を振り返った。

 その反動で律は片手に持っていた盆ごと麦茶のグラスを床に落とした。グラスの割れる音と、盆の落ちた乾いた音が遠くに聞こえる。

「りつ、ごめ……」

「ごめん」

 蓮の言葉を聞く余裕もなく、律は短く言うと踵を返して自室に逃げ込んだ。

 頭が真っ白になってどうすることもできなかった。驚かさないように、怖がらせないように細心の注意を払っていたつもりだった。けれど雨の音が律の声をかき消してしまったのか単純に背後からかけた声が届かなかったのかはわからない。確かなのは、蓮の怯えた顔。

 ──蓮が、僕を怖がっている。

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