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第五話 かつて何も持っていなかった者

第五話です。もうそろそろ終盤に入ります。

ベルフルール様によれば、ポンセと出会ったのは、このスラム街だったらしい。

本当なら、ベルフルール様自身がポンセに会って話をしたいとおっしゃっていた。


けれど――


「ごめんなさい、スリジエ。あなたに任せてしまって」


「お気になさらないでください。今はゆっくり休んでいてください」


長旅を終えたベルフルール様の体調は、あまり良くなかった。


椿様によれば、もともと体の弱かったベルフルール様の体は、私の魂が入ったことによって、この五年間で少しずつ回復していたらしい。

私がこの体で日本まで船旅をすることができたのも、そのおかげだった。


けれど――


強力な術を使って魂を戻したうえ、長い航海までしたことで、ベルフルール様の体にはかなりの負担がかかってしまった。


今は無理をせず、休む必要がある。


だから私は、ポンセに会いに一人で行くつもりだった。


――だったのだが。


「どうしてミュゲ王子までいるんですか?」


「もちろん、婚約者を守るためです」


ミュゲ王子は当然のように答えた。


「何が起こるか分かりませんからね」


「ありがたいのですが……」


私はミュゲ王子の姿を上から下まで見る。

私たちは今、お金を持っていることを悟られないよう、わざとボロボロの服を着ていた。


顔にも泥をつけ、髪も整えていない。

見るからに貴族には見えない姿だ。


「ミュゲ王子、本当に大丈夫ですか?」


「何がです?」


「こういう場所で一日も過ごしたことがないでしょう?」


「…………」


ミュゲ王子が少しだけ黙った。


「それは……否定できませんね」


「ですよね」


「ですが、心配はいりません」


ミュゲ王子は前を向く。


「僕も今の国の現状を、きちんと知っておく必要がありますから」


「…………」


「王族だからこそ、知らなければならないことがあると思っています」


その言葉を聞いて、私は少しだけ微笑んだ。


「それなら……よろしくお願いします」


「こちらこそ」


私たちは並んで、スラム街の奥へと進んでいった。

道端には、家すら持てない人たちが布団一枚で横たわっている。


食べ物もない。

働く場所もない。


ただ、生きている。

それだけだった。


横になっているのは、少しでも体力を使わないためだ。


私も昔、よくそうしていた。

空腹を紛らわせるために、何もせず横になっていた。

眠ってしまえば、少なくとも空腹を感じずに済むから。


「…………こんなにも、酷いとは」


隣を見ると、ミュゲ王子が口元を押さえ、呆然としていた。


「彼らは毎日、いつ死ぬか分からない恐怖の中で生きているんです」


私は足を止めずに言った。


「どれだけ願っても、どれだけ祈っても、誰も助けに来ない」


「…………」


「だから、いつしか助けを求めることすら諦めてしまうんです」


昔の自分を見ているようだった。


あの頃の私は、今日食べるものがあるかどうかさえ分からなかった。

明日も生きていられる保証なんて、どこにもなかった。


それでも――


「私は幸せでした」


「え?」


「今では食べるものがあります。帰る家もあります」


私は胸元のブローチに触れる。


「家族も、友人も、大切な人もいます」


だから私は、ここまで来ることができた。


そして今度は――


私が誰かを助ける番だ。

しばらく歩いた、その時だった。


「…………!」


道端に、一人の少女が座っていた。

ボロボロの服を着て、膝を抱えている。


その姿を見た瞬間――


私は足を止めた。


なぜだろう。

顔も知らない少女なのに。


どうしても、放っておけなかった。

私は少女の前にしゃがみ込む。


そして、そっと頭を撫でた。


「…………」


少女の肩が、ピクリと動いた。

ゆっくりと顔が上がる。


「ポンセ……?」


「…………」


少女が私を見る。

その瞳を見た瞬間、確信した。


――この子だ。


顔はまったく違う。

体も違う。


それなのに、なぜか分かる。


「初めまして」


私は笑った。


「私はスリジエ」


「……スリジエ?」


少女は首を傾げた。


「どこかで聞いたことがあるような気がする……」


「…………」


ベルフルール様の体にいた時とは、まるで違う。

あの時のポンセは、強い言葉を使い、私たちを巻き込んで死のうとした。


けれど――


目の前にいる少女は、とても大人しかった。


もしかしたら、あの時ベルフルール様の体に残っていたのは、ポンセの魂の中でも特に強い感情の部分だったのかもしれない。


私は少女の目を見つめる。


「あなたは、昔ある貴族の女性から、魂を交換してほしいと言われたんじゃない?」


「うん。言われたよ」


少女は素直に頷いた。


「でも、できなかった」


「そう……」


私は懐から小さな布袋を取り出す。


「その時、あなたの魂の一部が、その人の体に残ってしまったの」


「…………」


「これが、その魂よ」


私は袋を開く。

少女は不思議そうに覗き込んだ。


「食べてもらえる?」


「うん」


少女は躊躇することなく、魂を口にした。


その瞬間――


「っ……!」


少女の顔が苦痛に歪む。


「ポンセ!」


「…………っ」


けれど、それはほんの一瞬だった。

すぐに少女の表情が穏やかになる。


「ああ……」


少女は自分の胸に手を当てた。


「本当に……戻してくれたんだ……」


「ポンセ……!」


「ありがとう、スリジエ」


ポンセは、優しく微笑んだ。


「本当にありがとう」


「いいのよ」


私は笑って首を横に振る。


「約束したもの」


あの夜。

彼女に言った。


――私があなたを助ける。


その約束を、ようやく果たすことができた。


「それより、ポンセ」


「なに?」


「お腹、空いていない?」


「…………うん」


ポンセは少し恥ずかしそうに頷いた。


「すごく空いてる」


「それなら――」


私は手を差し出した。


「屋敷で一緒に食事をしない?」


「え?」


「ベルフルール様も、ぜひあなたと食事をしたいとおっしゃっていたの」


「…………」


ポンセはしばらく黙っていた。


そして――


「ありがとう」


「うん」


「でも……」


ポンセは周囲を見渡す。

そこには、彼女と同じように空腹に耐えている人たちがたくさんいた。


「他の人たちも、一緒じゃダメ?」


「…………!」


思わず胸が熱くなった。


やっぱり。

この子は、あの時のポンセと同じだ。


貧しい人たちを救いたい。

その願いだけは、魂が離れても変わっていない。


「もちろんよ!」


私は笑った。


「あなたの知り合いも、知り合いの知り合いも――みんな呼びましょう!」


「……本当に?」


「ええ!」


「本当に、本当にいいの?」


「もちろんよ!」


「ありがとう!」


ポンセは嬉しそうに笑った。

その笑顔を見ていると、不思議と胸が温かくなる。


かつて私は、誰かに助けてもらう側だった。


食べるものも。

住む場所も。

明日を生きる希望も。


何も持っていなかった。


けれど今は違う。


私には、与えてくれる人たちがいる。


だから――


今度は私が、誰かに手を差し伸べる。


ポンセの魂を元に戻した。

そして、残されていた少女たちの魂も、一人ずつ元の体へ戻していった。


救える命があるのなら。

私は、何度だって手を伸ばそう。


それが――


かつて何も持っていなかった私が、今できることなのだから。

今回もお読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに。

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