第十三話 狭い部屋で婚約者とネズミと
第十三話です。いよいよ船旅が始まります。
「さあ、行きましょうか」
そう言って、ミュゲ王子は私へ手を差し伸べた。
「はい、行きましょう」
私はその手をそっと握り返し、木造の大きな商船へ足を踏み入れる。
この船は、イリスの親戚である商人が所有する貿易船だ。
ちょうど日本近くの国へ向かう航路があり、その途中で私たちを日本まで送り届けてくれることになったのである。
「それでは、行ってきます!」
船べりから身を乗り出し、見送りに来てくれた家族や友人へ大きく手を振る。
「ベル、行ってらっしゃい!」
「ミュゲ王子、娘をよろしくお願いします!」
船員たちが舫いを解くと、船はゆっくりと港を離れ始めた。
「ベル!体には気を付けてくださいね!」
「お土産、楽しみにしてるからね!」
姿が小さくなっても、見えなくなるその瞬間まで、私たちは手を振り続けた。
やがて港が遠ざかると、私たちは案内された部屋へ向かう。
「ここが僕たちの部屋です」
ミュゲ王子が扉を開ける。
中には二段ベッドが一つあるだけの、小ぢんまりとした部屋だった。
「客船ではありませんから、このくらいしか用意できなかったそうです」
「私は十分ですよ。屋根があって、ベッドまであるのですから」
昔を思えば、贅沢なくらいだ。
「ミュゲ王子は、大丈夫ですか?」
そう尋ねると、王子は少しだけ目を伏せた。
「あなたは、もっと過酷な環境で暮らしていたのでしょう?」
「ええ。だからこそ、部屋で眠れるありがたさが分かります」
私が笑うと、王子も小さく微笑む。
「そんなあなたが文句一つ言わないのに、僕だけが不満を言うわけにはいきません」
「ふふっ」
「ベッドで眠れるだけでも、幸せですね」
「ええ。本当に」
私は下段のベッドへ腰掛けた。
「では、私は下で寝てもよろしいですか?」
「もちろんです。僕が上を使います」
王子が梯子へ足を掛けた、その瞬間だった。
「チュー!」
「ひゃあっ!」
小さなネズミが足元を駆け抜ける。
驚いた王子は反射的に私へ飛びつき、そのままぎゅっとしがみついた。
「ミ、ミュゲ王子!」
「す、すみません……!ね、ネズミが……」
震える指はネズミを指しているのに、顔は私の肩へ埋められている。
「もう。ネズミ一匹でそんなに怖がるなんて」
「だ、だって苦手なんです……」
ようやく我に返った王子は、顔を真っ赤にして飛び退いた。
「も、申し訳ありません! 思わず……!」
その慌てぶりがおかしくて、私は思わず吹き出してしまう。
「ふふっ。本当にネズミ嫌いの猫みたいですね」
「ね、猫?」
「ええ。可愛らしくて、放っておけません」
その一言で、王子の肩が少し落ちた。
「可愛い……ですか」
どうやら「格好いい」と言われたかったらしい。
その様子があまりにも分かりやすくて、また笑ってしまう。
「私は格好いい人より、可愛い人の方が好きですよ?」
「ほ、本当ですか?」
さっきまで落ち込んでいた表情が、ぱっと明るくなる。
本当に感情が顔へ出る人だ。
「この船にはネズミを捕まえるための猫も乗っているはずですよ。ネズミ対策にも、癒し効果にもなるらしいです」
廊下へ顔を出すと、どこからか「ニャー」と鳴き声が聞こえてきた。
「ほら」
「本当ですね!」
「でも、もうネズミは別の部屋へ逃げたでしょう」
「……そうですね」
王子は少し安心したように胸をなで下ろす。
私はくすっと笑った。
「それに、この部屋にはもう一匹、大きな猫がいますから」
「ぼ、僕ですか!?」
その慌てた顔がおかしくて、二人で笑い合った。
そんな穏やかな日々を重ねながら、私たちは約一か月の船旅を終えた。
「……あれが、日本ですか」
水平線の向こうに、陸地が見えてくる。
「どうやら、そのようですね」
長かった。
本当に長い一か月だった。
「ようやく着きましたね」
「ええ。でも、不思議です」
王子は少し笑う。
「長かったはずなのに、あっという間にも感じます」
「寝ぼけて私の前で服を脱ぎ始めた時は、海へ放り投げようかと思いましたけど」
「ちょ、ちょっと!本気じゃないですよね?」
「ふふっ。冗談です」
そんな他愛もない会話を交わせることが、どこか嬉しかった。
けれど、日本が近づくにつれ、胸の奥が重くなる。
ベルフルール様、一体何があったのですか。
なぜ、椿と一緒に帰って来られなかったのですか。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
胸が締め付けられ、息が浅くなった、その時だった。
そっと、私の手に温かな手が重なる。
「ミュゲ王子?」
「心配はいりません」
王子は優しく微笑んだ。
「あなたは一人ではありません。私がついています」
その一言だけで、不思議と胸の苦しさが和らいでいく。
「……はい」
私は強く、その手を握り返した。
船が港へ近づくまで、私たちは互いの手を離さなかった。
ようやく日本の物語が始まります。次回もお楽しみに。




