第十二話 空の鳥と地上の花
第十二話です。よろしくお願い致します。
「ミュゲ王子、いつ出発しましょうか」
私は今からでも行けます、という気持ちを込めて尋ねた。
「明後日の朝にしましょう。それまでに、僕にも済ませておかなければならないことがあります」
「そうですか。分かりました」
私が小さく頷くと、王子はゆっくりと立ち上がる。
「それでは、今日はこれで」
別れを惜しむように、王子の手がそっと私の頬に触れた。
優しく、壊れ物を扱うような手つきだった。
「旅に出たら、誰にも邪魔されず、一緒にいられますよ」
私が冗談っぽく言うと、愛しい人は照れくさそうに笑った。
「はははっ、確かにそうですね」
王子は名残惜しそうに指先を離すと、照れ隠しをするように扉へ向かった。
「それではまた。おやすみなさい、スリジエ」
「はい。おやすみなさい、ミュゲ王子」
自分の名を呼ばれた王子は、嬉しそうに微笑み、静かに部屋を後にした。
◇◇◇
だが、扉が閉まった瞬間、その表情は一変した。
穏やかな笑みは消え、宿ったのは鋭い眼差し。
獲物を逃さぬ獅子のような威圧感が、その瞳に宿る。
「兄さんに会わなければ」
低く呟き、迷いなく第一王子、グリシーヌの部屋へ向かった。
コンコン
「兄さん、入ります」
返事を待つことなく扉を開け放つ。
その姿は、先ほど婚約者へ優しい笑顔を向けていた王子ではなかった。
「ミュゲか。何をしに来た」
窓の外を眺めたまま、グリシーヌは淡々と言う。
「僕が何をしに来たのか、一番よく分かっているのは兄さんでしょう」
「さあ、何のことだか」
「単刀直入に言います」
ミュゲは兄を真っ直ぐ見据えた。
「僕の大切なスリジエに、二度と手を出さないでください」
「……いつから、お前のものになった」
「彼女があなたのものになる日は来ません。一生」
部屋に重い沈黙が落ちる。
「これはお願いではありません」
ミュゲは一歩前へ出た。
「命令です」
グリシーヌはようやく弟へ視線を向ける。
「この兄に命令だと? 自分の立場を忘れたか」
「ええ。ですが、もう昔の僕ではありません」
その一言に、グリシーヌの目が見開かれた。
「……何だ、その目は」
目の前にいるのは、幼い頃、自分の後ろをおどおどと歩いていた弟ではない。
揺るがぬ覚悟を宿した、一人の男だった。
「何故、お前はそんなにも変わった」
「守りたいと思える人ができたからです」
「……はっ」
グリシーヌは鼻で笑う。
「それは俺も同じだ」
「いいえ。まったく違います」
「違うだと?」
「あなたは、愛し方を間違えたのです」
グリシーヌの表情がわずかに曇る。
「大切なものは、手に入れて閉じ込めておくものではありません」
「ではどうする」
「ありのままの姿で、自由に生きられるよう見守るものです」
グリシーヌは首を横に振る。
「綺麗事だ」
「……」
「小鳥は籠へ入れなければ鷹に襲われる。花は花瓶へ飾らなければ踏み潰され、誰にも見向きもされない」
その瞳には迷いがなかった。
「ならば、自分の手で守り続ける方が幸せではないのか」
ミュゲは静かに首を振る。
「空を忘れられない鳥は、毎日苦しみながら死を待ちます」
一歩。
「土を離れた花は、やがて静かに枯れていく」
また一歩。
「どちらも、本来いるべき場所を失った命です」
グリシーヌは何も言えなかった。
「短くても、自分らしく生きられる人生と」
ミュゲは静かに問いかける。
「永くても、自由を奪われた人生」
兄を真っ直ぐ見つめた。
「兄さんなら、どちらを選びますか」
「…………俺は」
答えは続かなかった。
沈黙だけが部屋を満たす。
ミュゲは小さく目を伏せ、静かに言った。
「それが答えです」
踵を返し、扉へ向かう。
「彼女の幸せを本当に願うのであれば――」
そこで一度だけ立ち止まり、
「もう二度と、彼女に手を出さないでください」
振り返ることなく部屋を出ていった。
静まり返った部屋に、一人残されたグリシーヌ。
やがて彼はゆっくりと窓を開ける。
頬を撫でる風とともに、鳥たちのさえずりが聞こえてきた。
空には、何ものにも縛られない鳥たちが、大きく翼を広げて自由に飛んでいる。
その姿を見つめるグリシーヌの瞳は、どこか揺れていた。
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