第十四話 マルグリット・ド・スリジエ
第十四話です!今回は長めになりました。よろしくお願いいたします。
「……ん……」
ぼんやりと目を開ける。
最初に視界へ飛び込んできたのは、白い天井だった。
……天井?
私はしばらく瞬きを繰り返した。
不思議だった。
物心ついた時から、私に“家”なんてものはなかった。
雨風をしのげる場所を探して眠るだけの日々。
だから――天井を見上げながら眠るのは、これが初めてだった。
「まあ! 目が覚めたんですの?」
鈴のような声が聞こえる。
「良かったですわ!」
……誰だろう。
私はゆっくり目だけを動かした。
体が重い。
鉛みたいにだるい。
こんな小さな身体では、指一本動かすことすら難しかった。
そして、声の主と目が合う。
「あ……」
私は知っている。
この光みたいな笑顔を。
道端で倒れていた私を見つけた、あの少女だ。
「私のこと、覚えてらっしゃる?」
彼女は嬉しそうに身を乗り出した。
私は小さく頷く。
それだけで精一杯だった。
「急に倒れたから、本当に驚きましたの」
彼女は胸を撫で下ろした。
「ここは私のお部屋ですわ。お医者様が、しばらくは安静にして、少しずつ食事を取れば大丈夫だって」
そう言って、彼女は近くの机から器を持ち上げた。
湯気の立つお粥。
「先ほど私が作ったのです。まだ熱いかしら?」
彼女はふーっと息を吹きかけてから、そっと匙を口元へ運んできた。
「さあ、ゆっくり食べてくださいまし」
恐る恐る口に含む。
熱すぎず、冷たすぎない。
優しい温度だった。
塩気は控えめだったが、弱った身体にはちょうど良い。
胃の奥へ落ちていく感覚に、自然と肩の力が抜けた。
「美味しい?」
彼女が期待に満ちた目で覗き込んでくる。
……そんな顔をされたら、頷くしかない。
私は小さく頷いた。
すると彼女はぱっと顔を輝かせる。
「良かったですわ!」
まるで自分のことのように嬉しそうだった。
「まだありますから、いっぱい食べてくださいね」
……何なんだ、この人。
どうしてここまで優しくする。
私を売るつもりか?
何か裏があるのか?
けれど、その笑顔には打算が見えなかった。
まさか本当に――善意だけで動いているのだろうか。
理解できない。
そんな人間、今まで一度も見たことがなかった。
だが、考えるより先に限界が来た。
温かさに包まれた途端、重たい眠気が襲ってくる。
私は再び、深い眠りへ落ちていった。
それから数日後。
私はようやく、自分の足で立てるまでに回復していた。
「もう大丈夫です」
私は頭を下げる。
「ありがとうございました」
そして、そのまま部屋を出ようとした。
だが──
「どこへ行くのです?」
後ろから慌てた声が飛ぶ。
「どこか、道端にでも」
「駄目ですわ!」
彼女は即座に否定した。
「また倒れてしまいます!」
「ですが……」
私は視線を逸らす。
「私みたいな子供、雇ってくれる場所なんてありません」
数日間、一緒に過ごして分かった。
彼女は本当に優しい人だった。
だからこそ、これ以上迷惑をかけたくなかった。
汚れた私が、この綺麗な場所に長居してはいけない。
「ベッドまで汚してしまって、申し訳ありませんでした」
「それは気にしてませんわ!」
彼女はむしろ不思議そうな顔をした。
だが次の瞬間、何かを思いついたように目を輝かせる。
「あっ!」
そして勢いよく私の手を掴んだ。
「ここで働けばいいのよ!」
「……え?」
「お父様にお願いしてみますわ!」
「そこまでしていただく必要は――」
「私がしたいの!」
彼女は真っ直ぐ言い切った。
「待っていてくださいまし! 今すぐ聞いてきますわ!」
そう言うなり、彼女は部屋を飛び出していく。
私は呆然としたまま、その背中を見送った。
……変な人だ。
彼女の両親もそうだった。
娘が得体の知れない孤児を連れ込んできたというのに、誰一人として私を追い出そうとしない。
普通なら怒鳴られて当然だ。
この家族は、どこまでお人好しなのだろう。
しばらくすると、廊下を駆ける足音が聞こえてきた。
勢いよく扉が開く。
「ただいまですわ!」
満面の笑みだった。
「お父様が許可してくださいました!」
息を切らしながら、彼女は嬉しそうに続ける。
「馬のお世話をする人手が足りないんですって。だから、嫌でなければここで働いてほしいの!」
……仕事。
私に?
しかも、こんな立派な屋敷で。
「良いのですか……私なんかが」
思わず声が震える。
すると彼女は、優しく笑った。
「あなただからお願いしたいの」
その言葉に、胸が熱くなる。
「私には大切な馬がいるの。その子を、あなたに任せたいのですわ」
「っ……」
胸がいっぱいだった。
生まれて初めて、“必要だ”と言われた気がした。
「ありがとうございます……本当に……」
声が詰まる。
すると彼女は嬉しそうに笑った。
「こちらこそ嬉しいですわ。これからも一緒にいられるなんて!」
「お、お嬢様……」
何と呼べばいいのか分からず戸惑っていると、彼女がそっと私の手を握った。
「ベルフルールと呼んで」
「べ、ベルフルール……様」
「ふふっ」
彼女は本当に嬉しそうに笑う。
「あなたに名前で呼んでもらえて嬉しいですわ!」
……変な人だ。
でも、その笑顔を見ると胸が温かくなる。
「あなたのお名前は?」
「私……ですか」
私は俯く。
そんなことを聞かれたのは初めてだった。
「名前はありません。気付いた時には、もう両親はいなかったので」
すると彼女は少し悲しそうな顔をしたあと、ぱっと表情を明るくした。
「でしたら、私が付けてもいいかしら?」
「……良いのですか?」
「もちろんですわ!」
彼女は指を唇に当て、しばらく真剣に考え込む。
そして。
「決めましたわ!」
嬉しそうに顔を上げた。
「あなたの名前は――スリジエ」
彼女は優しく微笑む。
「マルグリット・ド・スリジエよ」
「マ、マルグリット!?」
私は思わず叫んだ。
「どうしてベルフルール様と同じ名前なんですか!?」
「だって、あなたは今日から家族なのですもの」
「な、なれませんよ!」
「正式には無理ですけれど」
彼女はくすりと笑う。
「私の気持ちでは、もう妹ですわ」
妹。
その言葉が、胸の奥へじんわり広がる。
「スリジエという名前、気に入ってくれた?」
「……どうして、その名前に?」
「桜という花の名前なの」
彼女はどこか夢見るように言った。
「東洋に咲く、とても美しい花らしいの。本でしか見たことはありませんけれど……きっとあなたにぴったりだわ!」
桜…………
知らない花だった。
でも、不思議と嫌ではない。
「スリジエ。今日からよろしくね」
彼女はいつも誰に対しても丁寧だった。
けれど今は、それ以上に温かかった。
“他人”ではなく、“妹”として接してくれている。
「……はい」
自然と、口元が緩む。
「ベルフルール様」
彼女の名は、マルグリット・ド・ベルフルール。
私の恩人。
そして――
私の、大切なお姉様だ。
今回もお読みいただきありがとうございました。長くてごめんなさい。このシーンはどうしても削れませんでした。




