第十三話 少女と少女
第十三話です。タイトルの意味を考えながら、お読みいただけると嬉しいです。
いつものようにお茶会を開いている庭園。
だが今日は、そこに似つかわしくない“客人”がいた。
色褪せた服。擦り切れた靴。
貴族の屋敷には到底馴染まない、貧しい身なりの少年。
周囲に召使の姿はない。
護衛すら下がらせたこの空間には、私たち二人しかいなかった。
風が花を揺らす音だけが、やけに耳につく。
「それで?」
少年は椅子にも座らず、こちらを見下ろすように笑った。
「ようやく思い出してくれましたか?」
「……ええ、そうね」
私は紅茶に一切口をつけず、静かに彼を睨み返す。
思い出した。
彼が誰なのか。
そして――自分が忘れようとしていた“過去”も。
忘れたかったはずなのに。
消えていたと思っていたのに。
あの記憶は、まだ私の中に残っていた。
胸の奥深くに、澱のように。
「昔話でもしようか」
少年が口元を歪める。
「まだお前が“スリジエ”になる前の話を」
❀
人が歩いている。
絶え間なく。忙しなく。
朝だからだろう。
皆、それぞれ仕事へ向かっているのだ。
けれど、私に見えるのは足だけだった。
行き交う靴。泥の跳ねた裾。
速足で過ぎ去っていく人々。
顔なんて、一度も見たことがない。
誰も、道端に転がる私を見ようとはしなかった。
私は石畳の隅に横たわりながら、ぼんやりと死を待っていた。
寒い。
苦しい。
お腹が空いた。
でも、それすらもう曖昧だった。
『ねえ』
……誰?
遠くから声が聞こえる。
『ねえ、聞こえてらっしゃる?』
そんなわけない。
誰がこんな薄汚れた小娘に話しかけるというのだ。
親もいない。
金もない。
名前すら、与えられたことがない私に。
『まだ生きてらっしゃる?』
その声だけは、不思議とはっきり聞こえた。
私は重たい瞼を、ほんの少しだけ持ち上げる。
そして――
「っ…………」
少女と、目が合った。
陽の光を背負ったその姿は、まるで物語のお姫様みたいだった。
綺麗な髪。
白い肌。
宝石みたいに澄んだ瞳。
彼女は確かに、私を見ていた。
汚れた地面ではなく。
通行人でもなく。
“私”を。
「ああ、良かった! 生きてらっしゃるのね!」
ぱっと花が咲いたように笑う。
……どうして、そんな顔ができるのだろう。
「お腹、空いているの?」
優しい声だった。
私は答えようとして――声が出ないことに気付く。
喉が張り付いていた。
結局、私は小さく頷くことしかできなかった。
「待っててくださいね」
彼女は慌てた様子で水筒を取り出した。
「まずはこれを飲んで」
差し出された水を、私は反射的に奪い取る。
そして夢中で飲んだ。
喉が焼けるように痛い。
けれど止められない。
生き物としての本能が、水を求めていた。
「まあ……そんなに乾いて……」
彼女は驚いたように目を丸くする。
けれど私は恥ずかしいとは思わなかった。
少しでも遅れていたら、本当に死んでいたかもしれないのだから。
「あなた……とても痩せているわ」
彼女が痛ましげに呟く。
「骨が浮き出てしまってる……」
当然だ。
貧乏人に、満足に食べられる者などいない。
「それに、お顔も泥だらけ」
彼女はそう言って、白いレースのハンカチを取り出した。
あまりにも綺麗で、一瞬見惚れる。
きっと高価な物だ。
「待ってください」
掠れた声で、私は慌てて止めた。
「そんな綺麗な物……汚れてしまいます」
すると彼女は不思議そうに瞬きをした。
「汚れたら洗えば良いだけでしょう?」
「ですが……」
「それに、どうしてそんなに遠慮するのです?」
本気で分からない、と言いたげな顔だった。
「だって、人は皆平等でしょう?」
――その瞬間。
胸の奥に溜まっていた何かが、ぐらりと揺れた。
「平等……?」
思わず、低く笑ってしまう。
何も知らない人間の言葉だ。
「人は平等だなんて、綺麗事です! あなたはお腹を空かせたこともない! 凍えながら眠ったこともない!」
この女は、ただ少し施しただけで“善人”になったつもりなのだ。
そう思うと、無性に腹が立った。
しかし彼女は怒らなかった。
悲しそうに目を伏せて、静かに言う。
「ええ。分かりませんわ」
予想外の返答だった。
「だって私は、そんな生活をしたことがありませんもの」
あまりにも真っ直ぐで、言葉に詰まる。
「だからこそ、知りたいのです」
彼女はそっと膝をついた。
汚れることも気にせず、私と同じ目線になる。
「苦しい人を見捨てるのが“正しい”とは、私は思えません」
「……っ」
何かを言い返そうとした、その瞬間。
「ゲホッ……! ゴホッ、ゴホッ!」
突然、激しく咳き込んだ。
肺が焼けるように苦しい。
空っぽの胃が痙攣する。
飲まず食わずの身体に、急激に水を流し込んだからだ。
視界がぐらぐら揺れる。
「ど、どうしたのです!?」
彼女の声が遠い。
寒い。
苦しい。
震えが止まらない。
――死ぬのか。
私は、ここで。
せっかく生きたいと思ったのに。
「怖い……」
掠れた声が漏れる。
「え?」
「死にたく、ない……」
涙すら出なかった。
干からびた身体には、涙を流す水分すら残っていない。
「怖い……怖い……」
身体が小刻みに震える。
嫌だ。
こんなところで終わりたくない。
這い上がると決めたのに。
絶対、生きてやると誓ったのに。
視界が暗くなっていく。
意識が沈む。
その瞬間、最後に聞こえたのは――
「大丈夫ですわ!」
必死に叫ぶ、少女の声だった。
「今、助けて差し上げます! だからどうか、お願い、もう少しだけ頑張って!」
泣きそうな声で。
必死に。
何度も何度も、私の名も知らない少女を呼び続けていた。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました!




