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第十二話 少年

第十二話です。どうぞお読みください!


「信じられない!」



私は口元を手で覆ったまま、馬車の座席に崩れ込むように座っていた。


「確かに……あそこを見てしまった私にも非はありますけど……」


思い出した瞬間、背中に冷たい汗がじわりと滲む。



――あれは事故だ。

そう、事故だったのだ。



そう言い聞かせても、脳は容赦なく映像を再生してくる。

余計な記憶ほど鮮明なのが、本当に厄介だ。


私は馬車を降りると、半ば放心したまま屋敷へと戻った。


その途中だった。


「おや、ベル」


「お父様……?」


廊下の向こうから歩いてきたのは、療養中だった父だった。


正装をしている。歩き方も安定していて、顔色もだいぶ戻っている。

それでも、まだ無理をしているように見えて、少し胸がざわついた。


「もう歩いても大丈夫なのですか?」


「医者の許可は出ている。問題ないさ」


父はいつものように穏やかに笑う。

その笑顔に、少しだけ安心しかけた、その時だった。


私は何気なく、視線を下げた。



……ん? 違和感。



いや、まさか。


そんな初歩的な――いやいやいや。


でも視線がそこから離れない。



「……お、お父様」



私はそっと指を下へ向けた。


「ベル?どうした?」


父が不思議そうに自分の視線を追う。



そして――



それを見た瞬間、固まった。



ズボンのチャックが――全開だった。




「「……………………」」




空気が一瞬で凍る。


音が消えたような錯覚すらあった。


叫ぶべきかもしれない。

しかし叫んだら余計に地獄になる気がする。


笑うべきかもしれない。

しかし笑ったら人格が終わる気がする。


互いに視線をさまよわせたまま、完全に思考停止する。


そして同時に、何事もなかったように視線を外した。



――忘れよう。



全力で。


今ここで生まれた記憶は、存在しなかったことにしよう。




◇◇◇


自室に戻った私は、とにかく何かに集中しようと本を開いた。


ただし、イリスに押し付けられた“問題の本”ではない。

あれはもう、精神衛生上、封印対象だ。


代わりに選んだのは、先生からもらった分厚い教科書だった。

文字が規則正しく並んでいるだけで、妙に安心する。



――何も考えずに済む。



そう思ったのに。


「そういえば……」


思考は勝手に別の方向へ滑っていく。


マーガレット様と、第一王子グリシーヌ様の婚約話。


彼女は王妃候補として長く厳しい教育を受けてきた。

礼儀、教養、立ち居振る舞い――すべては“妃になるため”の準備だ。


つまり、本来ならこのまま婚約は成立するはずだった。



――本来なら。



「でも……あの人の興味は、私に……」


私は小さく息を吐く。


仕返しなどと、余計なことをしたのかもしれない。

いや、もう後戻りはできない。


すでに歯車は動き始めているのだから。 もしこのままマーガレット様と王子が結ばれたら?

そして私は、その裏で別の政治的な流れに巻き込まれたら?


「待って……それって」


最悪の未来が、ひとつの形として組み上がっていく。


ミュゲ王子を退けた私。

空白になった婚約候補の枠。

そこへ入り込む可能性がある人物。



――グリシーヌ王子。



「ま、まずいですわ……!」


背筋が冷える。

これはもう恋愛の問題ではない。



私の人生に関わる話だ。理想の穏やかな一生を過ごすためにも、絶対にあの男との結婚だけは…………



「今すぐ誤解を解かなければ!」



私は勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出した。



外は少し騒がしかった。

門の方で、誰かが言い争っている声がする。


「何事ですの!」


門番が困ったように振り返った。


「ベルフルール様……実は、この者がどうしてもお会いしたいと……」


「私に?」


そこに立っていたのは――


ボロボロの服を着た少年だった。 痩せた身体。煤けた顔。

それでもその目だけは、不気味なほど鋭く光っている。


どこかで見たことがある気がするのに、思い出せない。


「私に何の用ですの?何か困っているのなら――」


思い出せないまま、そう言いかけた瞬間。


少年は小さく鼻で笑った。


「昔話は、人目のない場所でするものだろ」


その一言で、空気が変わった。


ぞくり、と背筋が冷える。


その声。

その目。

その言い回し。


全部が記憶の奥を無理やりこじ開けてくる。


少年は一歩、ゆっくりと近づいた。


そして誰にも聞こえないほどの声で、はっきりと言った。


「なあ?」


耳元に刺さるような、冷たい呼びかけ。


そして――



「スリジエ……さん」



世界の音が、完全に遠のいた。


今回もお読みいただきありがとうございました!今回は短めになってしまい、申し訳ありません。

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