第一話 夢の中のあの娘
第二章、第一話です!ここから第二章へ入ります。
夢を見た。
本当に、久しぶりの夢だった。
あの娘と、私が初めて出会った日の夢───
空腹と疲労で倒れ、泥だらけになっていた私へ───初めて手を差し伸べてくれた人。
『大丈夫ですわ。今、助けて差し上げます』
あの時の温もりを、私は今でも忘れられない。
私とそれほど歳も変わらない少女だった。
けれど、誰よりも賢く。
誰よりも優しく。
まるで物語の中から抜け出してきた女神様のようだった。
この方のためなら命を捧げても構わない───
そう決心したのも、確かあの日だった。
『あなたの名前は、スリジエ。マルグリット・ド・スリジエよ』
◇◇◇
小鳥のさえずりと共に、私はゆっくりと目を開いた。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋を柔らかく照らしている。
ベッドの横に置かれた小棚。
その上には、大切な桜のブローチが静かに置かれていた。
『桜は東洋に咲く、美しい花らしいの。本の中でしか見たことはないのだけれど……きっとあなたにぴったりだわ!』
そう言って、私の名前を呼んでくれた日、そして彼女が笑いながら私の胸元へブローチを付けてくれた日のことを思い出す。
まるで昨日のことのように鮮明だった。
「私に、ぴったり…………」
私はそっとブローチを手に取り、鏡の前へ立った。
鏡の中には、美しく整えられた少女が映っている。
綺麗なドレス。
手入れされた髪。
何不自由なく暮らす、貴族令嬢の姿。
……昔の私とは、何もかも違う。
「いいえ」
私は小さく首を振った。
「私はマルグリット・ド・ベルフルールですわ。ベルフルール以外の何者でもありません」
そう言い聞かせるように呟き、服を着替える。
最後に桜のブローチを胸元へ付けると、私は静かに部屋を後にした。
◇◇◇
しばらくは王宮へ行く必要もない。
社交教育は終わったし、ミュゲ王子と会う予定も入っていない。
「こんなにも静かな朝は、久しぶりですわね」
私は庭をゆっくり歩きながら、小さく息を吐いた。
何をしようか考えていると、その時。
ぽすっ。
何かが塀を越えて飛んできた。
足元へ転がってきたのは、薄汚れたボール。
私はそれを拾い上げる。
すると塀の向こうから、子供たちの残念そうな声が聞こえてきた。
「あーあ……飛んでっちゃった」
「破けちゃったかなあ、どうやって取りに行こう……」
私は少し考えた後、塀へ向かって声を掛けた。
「そこの方たち。正門まで回ってきてくださる?」
「え?」
「ボールを返して差し上げますわ」
しばらくして正門へ向かうと───
木の陰から、三人の子供たちが恐る恐るこちらを覗いていた。
服はところどころ擦り切れ、靴も古い。
貧しい家の子供だということは、一目で分かった。
私がボールを軽く持ち上げて見せると、三人はぱっと顔を明るくして駆け寄ってくる。
「はい、どうぞ。今度からは気を付けてくださいましね」
「あ、ありがとうございます!」
一番年上らしい男の子が、丁寧に頭を下げた。
そして受け取ったボールを確認すると、ほっと息を吐く。
「よかった……破けてない」
「ほんと!? また遊べる!?」
どうやら袋へ布を詰めて作ったボールらしい。
何度も縫い直した跡がある。
大切に使われてきたのだろう。
「あなたたちにとって、それはとても大事なものなのですね」
「うん!お父さんとお母さんが作ってくれたんだ!」
男の子は誇らしげに胸を張った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「っ………………」
彼らの苦しさが、痛いほど分かる。
私も、かつては…………
「あなたたち、お腹は空いていません?」
蘇りかけた記憶を押し込めるように、私は笑顔を作った。
「お腹は、ずっと空いてるよ!」
「でも、お父さんもお母さんも、いつも僕たちに多めにパンをくれるの」
私は膝をつき、三人と目線を合わせる。
「そうだったのですね。今まで、大変でしたでしょう」
そう言って私はポケットから小さな包みを取り出し、彼らへ差し出した。
「これは?」
「昨日、ある方からお菓子を頂いたのです。私はまだお腹が空いておりませんから、あなたたちへ差し上げますわ」
昨日のお茶会で、先生から持たせてもらった焼き菓子だ。
後でゆっくり食べようと思っていたが、今は、こちらの方が大切な気がした。
「ほんと!?いいの!?」
「うわあ、美味しそう……!」
三人は目を丸くしながら袋を覗き込む。
だが、一番上の少年だけは私へ向き直ると、深々と頭を下げた。
「僕たちみたいな貧しい人間に、こんなに親切にしてくださって……本当にありがとうございます」
とても礼儀正しい子だった。
きっと両親が、良い人なのだろう。
「またお腹が空いたり、困ったことがあれば来てくださいまし。庭へボールを投げてくだされば、また私が顔を出しますので」
これが、今の私にできる精一杯。
本来なら、貴族と庶民がこうして親しく話すことなど滅多にない。
誰かに見られれば、妙な噂になるかもしれない。
それでも───
この子たちを放っておけなかった。
「……でも、どうして僕たちにこんなに優しくしてくれるの?」
「お姉ちゃん、僕たちにも丁寧に話してくれるし」
不思議そうに見上げてくる三人の頭を、私は優しく撫でた。
「私は、身分に関係なく、人は平等に接するべきだと思っておりますの」
「え? どうして?」
「それは…………」
そこで私は言葉を止めた。
脳裏に浮かぶのは、あの日の少女。
泥だらけの私へ迷うことなく手を差し伸べてくれた、あの人。
私は少しだけ目を細め、優しく微笑んだ。
「昔、命の恩人が……そういう方だったからです」
「命の恩人?」
「ええ。その方は、貧しい人にも迷わず手を差し伸べていました。私は、その姿を真似しているだけですわ」
「……その人、すごく優しい人なんだね!」
「ええ。本当に」
三人が納得したように笑ったので、私はゆっくり立ち上がった。
「それでは、そのお菓子をご家族みんなで仲良く食べてくださいまし。もちろん、ご両親には少し多めに差し上げるのですよ?」
「「「はーい!」」」
三人は元気よく返事をすると、宝物を抱えるようにお菓子を持って走っていった。
私はその背中を、静かに見送る。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「…………あなたは、どこへ行ってしまわれたのですか。ベルフルール様」
風が吹き、長い髪がふわりと揺れる。
私はそれを耳へ掛けると、静かに屋敷の中へ戻っていった。
第二章も、どうぞよろしくお願いいたします!




