第8節「韋駄天の習得」
翌朝。中庭に出た。
朝露が石畳を濡らしている。空気が冷たい。精霊界の朝は、人間界の秋みたいだ。吸い込むと肺が目覚める。
中庭は広かった。端から端まで五十メートルはある。周囲を白い柱廊が囲み、奥に噴水がある。水の音が静かに響いていた。
エリカとフローシャンテリアが柱廊に立って見守っている。
俺とゼファーさんは中庭の中央に立った。
「カイト。韋駄天を見せる」
ゼファーさんの声がいつもより低い。教官の声だ。
「よく見ておけ」
「はい」
ゼファーさんが構えを取った。膝を軽く曲げ、重心を落とす。両腕は自然に下ろしたまま。力みがない。
一瞬の静寂。
——走った。
風が爆発した。髪が顔に叩きつけられる。土煙が舞い上がり、目を開けていられない。
残像。
ゼファーさんの姿が、中庭の端にあった。五十メートルを——何秒だ? 一秒? 半分? 分からない。速すぎて測れなかった。
柱廊でエリカが息を呑む声が聞こえた。フローシャンテリアが口元を押さえている。
ゼファーさんは折り返しもしなかった。中庭の端で一瞬止まり、そのまま戻ってくる。再び風が吹き荒れた。舞い上がった土煙が、ゆっくりと沈んでいく。
ゼファーさんが俺の前に立った。息一つ乱れていない。汗の一滴もかいていない。
「\...\...はっや」
声が漏れた。
これが韋駄天。風の末裔のスキル。人間の走りじゃない。風そのものだった。
「もう一度見せる」
ゼファーさんが再び構えた。
「今度は足の動きに集中しろ。踏み込みの瞬間を、見逃すな」
——集中。
目を凝らす。全神経を目に集めた。
ゼファーさんが走り出す。
今度は——見えた。
足の踏み込み。地面を蹴る角度。体重が前に移る瞬間。腕が振られるタイミング。全身の筋肉が連動する流れ。
そして——風。
ゼファーさんの周囲で、風が渦を巻いていた。足で地面を蹴っているだけじゃない。風が体を押している。風を纏っている。昨日ゼファーさんが言った通りだ。
見ている間に、不思議な感覚が襲ってきた。
体が熱い。
目が動きを追っているだけなのに、足の裏がむず痒い。太腿の筋肉がぴくりと動いた。ふくらはぎが張る。腕が、振りたがっている。
昨日の茶の所作の時とは違う。あの時は無意識だった。でも今は——狙っている。意識して「見て」いる。
だからか。流れ込んでくる情報量が、段違いだ。
踏み込みの深さ。蹴り出しの角度。腰の回転。肩の開き。一つ一つの動きが、体の中に刻まれていく。
——体が、覚えていく。
まるで自分が走っているかのように。筋肉の一つ一つが、動き方を記憶していく。昨日の侍女の所作と同じだ。見ただけで、体が知る。
「\...\...来た」
声が出た。
ゼファーさんが戻ってきた。俺の顔を見て、僅かに目を細めた。
「感じたか」
「ああ。体が、覚えてる」
足の裏に、さっきの踏み込みの感触が残っている。地面を蹴る角度。体重の移動。腕の振り。全部——ここにある。
「試してみろ」
ゼファーさんが道を空けた。
中庭の端まで、五十メートル。
構えを取った。膝を曲げる。重心を落とす。ゼファーさんと同じ形。
体が知っている。
『行ける』
深呼吸。一つ。
——走った。
最初の一歩で、世界が変わった。
風を切る感覚。景色が流れた。足が勝手に動く。地面を蹴る。体が前に飛ぶ。空気が顔を叩く。耳元で風が唸っている。
速い。今までの全力疾走とは、次元が違う。体が軽い。まるで風に押されているみたいだ。
——これが韋駄天。
一瞬で中庭の端に到達した。
「\...\...っ!」
止まれない。壁に——
咄嗟に足を踏ん張った。石畳を擦って、壁の手前で何とか止まった。膝が笑っている。靴の底が焦げ臭い。
心臓がばくばく鳴っていた。速度じゃない。興奮だ。
「\...\...すげえ!」
振り返った。スタート地点が遠い。五十メートルを——一息で駆け抜けた。自分の足で。
ゼファーさんが頷いていた。腕を組んで、俺を見ている。いつもの無表情だけど——目の奥に、何か温かいものがある気がした。
「本家には及ばんが、七割といったところか」
七割。ゼファーさんの七割。初めてで七割なら——
「十分だ。これならついてこられる」
エリカとフローが柱廊から拍手を送ってきた。
「すごい\...\...一度見ただけで\...\...」
フローが目を丸くしている。
「やるじゃない」
エリカが微笑んだ。だが、すぐにいつもの顔に戻る。
「でも、油断しないでね。七割は七割よ。本番でバテたら意味がない」
『そこで釘刺すか\...\...』
まあ、エリカらしい。正論だし。
ゼファーさんが俺の前に戻ってきた。
「もう一度走れ。今度は止まり方を教える」
「はい」
再び構える。さっきの感覚がまだ体に残っている。踏み込み。蹴り出し。風を切る——
走った。二度目は、さっきより楽だった。体が既に覚えている。修正が入る。足の角度が少し変わる。腕の振りが滑らかになる。
中庭の端が迫る。今度は早めに意識した。減速。足を前に出して——
ずざざざっ。
石畳の上を滑って、壁の三歩手前で止まった。さっきよりはマシだ。
「まだ荒い」
ゼファーさんが横に立っていた。いつの間に追いついたんだ。
「減速は、風を前から受けるイメージだ。走る時は風を背に受ける。止まる時は逆。風に逆らう」
「風を前から——」
「もう一本」
三度目。風を前から受けるイメージ。体に向かってくる空気の壁を意識する。
——止まれた。壁の五歩手前。膝が震えているけど、止まれた。
「よし」
ゼファーさんが短く言った。
それだけだった。でも、その一言の重みは分かる。ゼファーさんの「よし」は、十分に褒め言葉だ。
ゼファーさんが俺の肩を叩いた。大きな手。重い。でも温かい。
「止まり方がなっていないな。壁に激突するところだった」
「\...\...すんません」
「道中、さらに鍛える」
ゼファーさんの口元が緩んだ。
「2日後には、八割まで引き上げる」
八割。ゼファーさんの八割。
「おう!」
拳を突き上げた。体の奥がまだ熱い。足の裏に、さっきの感覚が残っている。風を切った、あの一瞬。
——これが俺のスキル。
見て、覚えて、走る。学習能力。
悪くない。全然、悪くない。




