第9節「出発」
王宮の門前。朝の風が吹いていた。
門の向こうに草原が広がっている。空が高い。精霊界の空は、どこまでも透き通っている。旅には最高の天気だった。
四人が向かい合っていた。
俺とゼファーさんは旅装を整えている。背中の荷物は最小限。水袋と干し肉と地図。韋駄天で走るには、身軽な方がいい。
腰には短剣を一本。ゼファーさんは千射弓と矢筒を背負っている。旅というより、戦場に向かう装備だ。
エリカとフローシャンテリアは王宮に残る。二手に分かれるのは、精霊界に来て初めてだった。
「気をつけてくださいね」
フローシャンテリアが両手を胸の前で組んだ。祈るような仕草。
「お二人も」
ゼファーさんが短く答えた。いつもの淡々とした声だが、目は真剣だ。
「狡猾の連中が王宮を襲う可能性もある。警戒を怠らないでくれ」
「はい。女王様にも警備の強化をお願いしてあります」
フローシャンテリアが頷いた。王女の顔だ。任せていい。
ゼファーさんが俺を見た。
「カイト。準備はいいか」
「いつでも」
荷物を背負い直した。肩紐を締める。足の裏に、昨日の感覚がまだ残っている。韋駄天。風を切る、あの感覚。
エリカが俺の前に立った。
腕を組んでいる。いつもの姿勢。でも——何か言いたげだ。口を開きかけて、閉じて、また開く。
「\...\...本当に大丈夫?」
声がいつもより低い。
「当たり前だろ。誰に言ってんだ」
「あなただから言ってるのよ。災難体質のくせに」
「それ言うか」
エリカが口角を上げた。でも、目は笑っていない。
沈黙。
風が二人の間を通り抜けた。エリカの髪が揺れる。
「\...\...ねえ、カイト」
「ん?」
「必ず帰ってきてね」
——え。
一瞬、言葉が出なかった。
エリカがこんなことを言うのは珍しい。いつもは「計算上、生存率は十分よ」とか、そういう言い方をするやつだ。感情を数字で隠すのが癖みたいなもので。
だから——「必ず帰ってきてね」は、エリカにとっては相当な言葉だ。
あの狡猾の使者を見た後だ。衛兵を躊躇なく殺したあの男。エリカは頭がいい。道中に何が待っているか、俺より遥かに正確に想像できている。
だからこそ、怖いんだろう。
照れ隠しに、にっと笑った。
「約束する。絶対に帰ってくる」
まっすぐ目を見て言った。エリカの目が揺れた。ほんの一瞬。唇が震えたのも見えた。すぐにいつもの表情に戻る。強がりだ。でも、エリカの強がりは嫌いじゃない。
「\...\...うん」
小さく頷いた。
幼馴染だからこそ分かる。俺の「約束する」は、軽い言葉じゃない。今まで一度も破ったことがない。エリカはそれを知っている。
だから——「うん」の一言で、十分なんだ。
エリカが一歩下がった。腕を組み直す。いつもの姿勢。いつもの顔。
「道中の食料、足りる? 干し肉だけじゃ栄養偏るわよ」
『\...\...急に現実的になんな』
「大丈夫だって。2日で着くんだから」
「帰りも2日でしょ。計4日。干し肉だけで4日は——」
「エリカ」
ゼファーさんが静かに遮った。
「心配は無用だ。道中で食料は調達できる」
エリカが口を閉じた。分かっている。食料のことなんて、本当はどうでもいい。話していたかっただけだ。少しでも長く。
俺には、分かる。
ゼファーさんが一歩前に出た。
「行くぞ。5日で戻る」
「おう」
振り返った。フローシャンテリアが手を振っている。エリカは腕を組んだまま立っていた。手は振らない。でも、目が俺を追っている。
『待ってろ。約束の手紙、必ず持って帰る』
ゼファーさんと並んだ。
「いいか」
「はい」
構えを取る。膝を曲げ、重心を落とす。昨日の中庭で三本走った感覚が蘇る。踏み込みの角度。蹴り出しの力。風を背に受けるイメージ。
ゼファーさんが走り出した。
——追った。
風が爆発する。景色が一気に流れた。門が遠ざかる。草原が広がる。空が近い。
朝露を踏む。水滴が弾ける。草の匂いが鼻を抜けた。
七割の速度。でも、十分に速い。ゼファーさんの背中が前にある。その背中を追いかける。風を纏う感覚にも、少しずつ慣れてきた。
門前の四人が、すぐに豆粒になった。振り返る余裕はない。前を見る。ゼファーさんの背中だけを見る。
二人の姿は、あっという間に小さくなっていた。
門前に残されたエリカは、その背中を見送っていた。風がまだ髪を揺らしている。
「\...\...必ず、帰ってきてね」
小さな声。誰にも聞こえない。
フローシャンテリアがそっとエリカの手を握った。温かい手。
「大丈夫です。カイトさんは、必ず帰ってきます」
エリカは少し驚いた顔をして——それから、微笑んだ。
「\...\...ええ。分かってます」
分かっている。カイトの「約束する」は、絶対に破らない。15年の付き合いで、一度も。
だから——信じている。信じているけど、心配は別だ。
二人は王宮に向き直った。
門の向こうで、風が草原を渡っていく。二つの影は、もう見えない。
それぞれの戦いが、始まろうとしていた。




