第10節「疾走」
走った。
ひたすら走った。
草原を抜け、森に入り、川を飛び越える。景色が流れる。風が顔を叩く。木の枝が腕を掠めた。痛い。でも止まれない。
前を走るゼファーさんの背中だけを見ていた。
七割の速度。昨日の中庭では「十分だ」と言われた。だが実際に走ってみると——ギリギリだった。ゼファーさんは平地も森も山も同じ速度で駆け抜ける。俺は地形が変わるたびにつまずきそうになる。
「ペースを落とすぞ」
ゼファーさんが振り返った。
「最初から飛ばしすぎると持たん」
「\...\...っ、すんません」
息が荒い。無限の体力のはずなのに、息が上がっている。体力は無限でも、集中力は有限だ。韋駄天は全神経を足に集中させなければならない。頭が疲れる。
「謝るな」
ゼファーさんの声が穏やかだった。
「よくついてきている。初日でこれなら上出来だ」
——上出来。
その一言で、少しだけ楽になった。
ペースを落として走り続ける。それでも普通の全力疾走より遥かに速い。森の木々が後ろに飛んでいく。鳥が驚いて飛び立つ。獣が逃げる。風の中に、土と緑の匂いが混じっていた。
川に差しかかった。幅は五メートルほど。ゼファーさんは減速もせずに飛んだ。軽々と対岸に着地する。
『マジかよ』
迷う暇はない。踏み切った。体が宙に浮く。水面が下に見えた。冷たい飛沫が顔にかかる。
——着地。膝が沈んだが、転ばなかった。
「いい度胸だ」
ゼファーさんが振り返りもせずに言った。褒めてるのか呆れてるのか分からない。
日が傾き始めた頃、ゼファーさんが足を止めた。
小さな丘の上。周囲を見渡せる場所だった。
「今日はここで野営する」
俺は膝に手をついた。体は平気だ。でも頭がぼんやりする。集中力を使い果たした感覚。
「\...\...つっかれた\...\...」
「体力ではなく、頭が疲れたのだろう」
ゼファーさんが薪を集め始めた。手際がいい。さすが放牧民の国の長だ。野営は慣れたもんらしい。
焚火が起きた。乾いた木がぱちぱちと爆ぜる。干し肉を齧りながら、空を見上げた。
星空が広がっている。
三つの月が輝いていた。一つは白く大きい。二つ目は青みがかって小さい。三つ目は赤い。精霊界の夜空は、何度見ても慣れない。綺麗すぎて、ここが異世界だと思い知らされる。
虫の声が遠くから聞こえる。焚火の温もりが顔を温める。干し肉は硬いけど、走った後だと妙に旨かった。
「カイト」
ゼファーさんが焚火の向こうから声をかけた。炎が顔を照らしている。
「韋駄天のコツを教える」
居住まいを正した。
「お前は足で走ろうとしている」
「足で\...\...? 走るんだから、足で走るんじゃないんですか?」
「それでは七割が限界だ」
ゼファーさんが立ち上がった。焚火の明かりの中、ゆっくりと構えを取る。
「風を纏え」
短い言葉。でも、重い。
「韋駄天は、風の力を借りて走る技だ。自分の力だけで走るのではない。風に乗る。風と一体になる」
ゼファーさんが走った。ゆっくりと。普通の速度で。
だが——見えた。
焚火の炎が揺れた。ゼファーさんの周囲で、風が渦を巻いている。髪がなびく。マントが翻る。足は確かに地面を蹴っている。でもそれだけじゃない。風が——体を押している。
足の力だけじゃなかった。風が、一緒に走っていた。
「\...\...風が、見える」
思わず声が出た。
ゼファーさんが戻ってきた。
「それだ」
頷く。
「風を感じろ。風に身を委ねろ。自分の足で蹴るのではなく、風に運んでもらう感覚だ」
「風に、運んでもらう\...\...」
「力むな。力めば力むほど、風は逃げる」
ゼファーさんが座り直した。焚火がぱちりと鳴った。
「明日、試してみろ。意識を変えるだけで、世界が変わる」
俺は頷いた。星を見上げた。三つの月が、静かに輝いている。
——風を纏う。
体で覚えるんじゃない。風を、感じるんだ。
翌日。
朝靄の中、走り出した。
最初は昨日と同じだった。足で地面を蹴る。体を前に押し出す。七割の速度。
『違う。足で走るんじゃない』
ゼファーさんの言葉を思い出す。風を纏え。風に身を委ねろ。
意識を変えた。足から——全身へ。
風を感じろ。背中に吹く風。頬を撫でる風。全身を包む空気の流れ。
その風に——乗る。
ふわり。
体が軽くなった。地面を蹴る感覚が薄れる。足はまだ動いている。でも、それだけじゃない。風が背中を押している。体を運んでいる。まるで川の流れに乗ったような——抵抗がなくなる感覚。
速い。昨日より、明らかに速い。
しかも楽だ。足に力を入れていないのに、体が前に進む。風が味方してくれている。
「そうだ! それでいい!」
ゼファーさんの声が横から聞こえた。横——並走している。
速度が上がっていた。景色の流れが昨日と違う。木々がもっと速く後ろに飛んでいく。体が風の中にある。風の一部になっている。
「\...\...すげえ、これが韋駄天か\...\...!」
昨日までとは、全く別の感覚だ。足で走っていたのが嘘みたいだ。体が軽い。頭も疲れない。風が勝手に運んでくれる。
「八割だ。上出来だ」
ゼファーさんが笑った。走りながら、笑っていた。
二人は風のように駆け抜けた。森を抜け、山を越え、谷を渡る。昨日は必死だった道のりが、今日は景色を楽しむ余裕がある。
二日目の夕方。
遠くに小さな村が見えてきた。木々に囲まれた、静かな集落。夕日に染まった屋根が並んでいる。煙突から細い煙が立ち上っていた。
「あれがサルーラ村だ」
ゼファーさんが足を止めた。
俺も立ち止まる。息を整えた。2日間走り続けた。七割から八割に上がった。風を纏うことを覚えた。
村は——小さかった。王都とは比べ物にならない。静かで、閉じた印象。塀はないが、周囲の木々が天然の壁のように村を覆っている。
あとは——「約束の手紙」を手に入れるだけだ。
「行こう、ゼファーさん」
「ああ」
二人は村へと歩みを進めた。韋駄天ではなく、普通の歩みで。突然走り込んだら、それこそ不審者だ。
夕暮れの風が、草原を渡っていく。さっきまで敵だった向かい風が、今は心地いい。




