第6節「反撃の糸口」
沈黙が重かった。
使者が去ってから、誰も口を開かない。窓の外では世界樹の葉が風に揺れている。さっきまで綺麗だと思っていた景色が、今はやけに遠い。
十日。
たった十日で杖を取り戻さなければならない。しかも相手は狡猾の長。罠だとわかっている。わかっていて、飛び込むしかない。
フローシャンテリアが目を伏せていた。唇を噛んでいる。自分のせいだと思っているのだろう。違う。誰のせいでもない。
ゼファーは腕を組んだまま微動だにしない。考えている顔だ。
エリカはテーブルに視線を落としていた。指先がこめかみを叩いている。あれは考え事をしている時の癖だ。
——俺は。
正直、何も思いつかない。
「\...\...無視すりゃいいんじゃないか」
口に出してみた。
「罠なんだろ。行かなきゃいい」
ゼファーが首を横に振った。
「しかし、杖がなければフロー殿は覚醒できない」
——そうだった。
あの杖はフロー覚醒具だ。取り戻さなければ末裔としての力が目覚めない。無視するわけにはいかない。わかってる。わかってるけど。
「正面から取り返すのは難しい」
フローの声に力がない。
「狡猾の本拠は闇の森の奥深くにあります。王宮の兵を送っても、あの森では地の利が向こうにある」
『力ずくは無理。交渉もゼル相手じゃ分が悪い。じゃあどうする——』
考えろ。何か方法があるはずだ。
天井を見上げた。光の結晶がぼんやり光っている。答えをくれるわけもないのに、つい見てしまう。
「\...\...約束させられればいいのにな」
ぽつりと呟いた。
「杖を持って来いって。破ったら罰が当たるような約束」
独り言だった。深い意味はない。
——エリカの指が止まった。
横目で見る。こめかみを叩いていた手が、空中で固まっている。目が変わった。何かに気づいた時の光る目。
「\...\...待って」
エリカが顔を上げた。
「約束の手紙」
「え?」
「魔道具よ。封筒に双方の血を垂らすと、中に書いた約束が破れなくなる。図書館で読んだことがある」
全員の視線がエリカに集まった。
「双方の血?」
俺が聞き返す。
「ええ。約束を書いた封筒に、双方の血を垂らす。それだけで拘束力が生まれる。血判を押すほどの量じゃなくて、ほんの少しの血で効くとも書かれていたわ」
フローが身を起こした。さっきまでの沈んだ顔が消えている。
「それなら——サルーラ村で使っていると聞いたことがあります」
「サルーラ村?」
「辺境のエルフの村です。村長のムスクという方が、その魔道具を管理していると」
エリカの目がさらに鋭くなった。
「つまり、実在する。手に入れられる可能性がある」
空気が変わり始めていた。さっきまでの重い沈黙が、少しだけ軽くなる。
でも——問題がある。
「手紙があっても」
俺はテーブルに肘をついた。
「ゼルが自分から血を垂らすわけないだろ。どうやってゼルの血を手に入れるんだ」
核心だった。約束を強制するには相手の血がいる。狡猾の長が素直に応じるはずがない。
沈黙。
全員が考え込んだ。エリカの指がまたこめかみを叩き始める。
「——弓だ」
カイトは身を乗り出して、みんなに話した。
「ゼファーさんの矢に紐をつけて、ゼルを狙って放つ。矢が当たれば血がつく。紐で回収すれば——」
我ながら荒っぽい作戦だ。でも他に方法が思いつかない。
ゼファーが目を細めた。
「会ったこともない敵だ。顔も知らん」
「フローさんに聞けば特徴はわかります。銀髪で切れ長の目の——」
「それしか方法がないなら」
ゼファーが遮った。静かな声だった。
「やり遂げて見せよう」
四十五年分の覚悟が、短い言葉に詰まっていた。放牧民の国で最強と呼ばれた弓の腕。それを惜しみなく使うと言っている。
「ありがとうございます、ゼファーさん」
「礼はいい。問題は手紙の入手だ」
エリカは黙っていた。
指先がこめかみを叩いている。考えている。何かが引っかかっている顔だ。
「\...\...エリカ?」
「紐つきの矢を、動いている相手に当てて、回収する」
エリカは淡々と言った。
「確実とは言えないわね。でも——他に方法がないなら、それで行くしかない」
賛成でも反対でもない。消去法の結論。エリカらしいと言えばエリカらしい。
『何か別のことも考えてるのか?』
一瞬そう思ったが、深追いはしなかった。
「サルーラ村はここからどのくらいかかりますか」
フローシャンテリアが少し考えた。
「普通に歩けば\...\...片道十日以上です」
——十日。
期限と同じだ。往復したら完全にアウト。
空気がまた重くなりかけた。せっかくの糸口が、距離に潰される。
「私なら片道二日で行ける」
ゼファーの声は淡々としていた。
「韋駄天——この世界に来てから得た力だ。風を纏って走る」
「二日?」
エリカが目を丸くした。珍しい。エリカが驚く顔はあまり見ない。
「往復四日。交渉に一日使っても五日で戻れる」
「末裔は異世界に転移するたびにスキルを得る。私は精霊界に来て韋駄天を得た」
フローが深く頷いた。
「その伝承、私も聞いたことがあります」
『スキル\...\...俺にもあるのか?』
気になったが、今はそれどころじゃない。
「じゃあゼファーさんが手紙を取りに行って——」
「俺も行く」
言葉が勝手に出た。
「ゼファーさん一人じゃ危ない。道中で狡猾に襲われるかもしれない」
「お前は韋駄天を使えん。ついてこられるか?」
「なんとかします」
根拠はない。でも行かせっぱなしは嫌だった。
エリカが俺をじっと見た。何か言いたげな目。でも——口を開いたのは別のことだった。
「カイト。手紙を取ってきて」
真っすぐな声だった。
「私はここで調べ物をする。手紙の詳しい使い方を精霊界の図書館で確認しておくわ。手紙を手に入れても、使い方を間違えたら意味がない」
『さすがエリカだ。道具を手に入れるだけじゃなくて、使い方まで詰めようとしてる』
「わかった。任せろ」
立ち上がった。ゼファーも立つ。
フローが俺たちを見上げた。
「私も何かできることはありませんか」
「フローさんには、王宮の兵にゼルの動きを監視してもらいたいの。狡猾が十日の間に何か仕掛けてくる可能性がある」
エリカの指示は的確だった。四人それぞれに役割がある。
ゼファーと俺——手紙の入手。エリカ——手紙の仕様調査。フローシャンテリア——敵の動向監視。
バラバラに動いて、五日後に合流する。
「五日で戻る」
俺はエリカに言った。
「五日と六時間以内にして。計算が狂うから」
「細かっ」
「当たり前でしょ。十日しかないのに余裕なんてないのよ」
エリカの声にいつもの調子が戻っていた。
窓の外で世界樹の葉が光を弾いた。さっきまで遠く見えた景色が、ほんの少しだけ近づいた気がした。




