第4節「手紙」
客間に戻った。
テーブルの上の封筒。花茶のカップにぶつかったまま、白い封筒がそこにある。
さっきまで穏やかだった部屋が、別の場所に見えた。蹴り壊された扉。廊下から漂う血の匂い。朝の光だけが、何も変わらずに差し込んでいる。
エリカが封筒を手に取った。
指が震えていない。こういう時のエリカは怖い。感情を全部押し込めて、頭だけで動く。
封筒を開けた。中から一枚の紙。
エリカが声に出して読んだ。
「——杖を返してほしければ、十日後、異世界から来た娘を一人で寄越せ。場所は闇の森の廃神殿」
沈黙。
一秒。二秒。
「ふざけんなっ!」
俺は叫んでいた。拳がテーブルを叩く。花茶のカップが跳ねて、琥珀色の液体がこぼれた。
「エリカを渡すわけねえだろ!」
「カイト、落ち着いて」
「落ち着けるか! あいつ——衛兵を殺したんだぞ! あんな奴の言いなりに——」
「だから落ち着いてって言ってるの」
エリカの声は平坦だった。感情がない。いや、ある。押さえ込んでいるだけだ。
俺はエリカの目を見た。蒼白な顔。だが、目は据わっている。
「\...\...悪い」
「いいわよ。私だって怒ってる」
エリカは手紙を二度、三度と読み返した。
「狙いは私\...\...なぜ?」
独り言のように呟く。
「末裔はカイトとゼファー。フローさんもそう。戦えるのはカイトとゼファー。私は——戦力としては、一番いらない」
「いらなくねえよ」
「客観的な話をしてるの。黙って」
俺は口を閉じた。こういう時のエリカには逆らわない方がいい。
ゼファーが腕を組んだ。
「頭脳だろう」
短い一言。だが、重かった。
「放牧民の国で、ガルダの不正を暴いたのはお前だ。評議会を動かしたのもお前だ。ここまでの旅で、すべての策を立てたのはお前だった」
エリカの手が止まった。
「敵から見れば、お前が一番厄介な存在だ。頭を潰せば、残りは動けなくなる——そう考えたのだろう」
「\...\...なるほど」
エリカが呟く。表情は変わらない。だが、手紙を持つ指先が、かすかに白くなっていた。力が入っている。
俺は複雑な気持ちだった。エリカが「一番厄介」と敵に認められた——それは、エリカがここまでやってきた証だ。だけど同時に、一番狙われる位置に立ったということでもある。
フローが口を開いた。
「あの男\...\...衛兵を殺しました。躊躇なく」
声が震えている。さっき廊下で見た光景が、まだ目の奥にあるのだろう。
「エリカさんを渡したら、きっと\...\...」
言葉の先を、フローは飲み込んだ。言わなくてもわかる。殺す。杖を取り返しに来たエリカを、殺すつもりだ。
俺は拳を握りしめた。
あの男の姿が脳裏に浮かぶ。血に濡れた手。底の見えない目。ゼファーを一撃で吹き飛ばした腕力。衛兵の首を——。
吐き気がした。
今まで戦ってきた相手とは、レベルが違う。ガルダの不正も、競技会の妨害も、あれは「人の悪意」だった。だが、あれは違う。
あれは——化け物だ。
「狡猾、か\...\...」
ゼファーが低く呟いた。
「妖精たちが怯えていたのは、これか。宝物庫に残っていた黒い魔力の痕跡。三本の爪痕」
全部、繋がった。
宝物庫から杖を盗んだのも。爪痕を残したのも。妖精たちを震え上がらせたのも——狡猾と名乗る存在。そして今度は、エリカを差し出せと脅してきた。
計画的だ。最初から、全部仕組まれていた。
エリカが手紙を丁寧に折り畳んだ。
「十日」
静かな声。
「十日間で、考えましょう。渡すなんて論外。でも——杖を取り戻す方法は必要よ」
「ああ」
俺は頷いた。
「絶対に——お前を渡したりしない」
エリカは一瞬だけ、目を伏せた。
「\...\...知ってるわよ、そんなの」
小さな声だった。
だが、その声は——少しだけ、震えていた。




