第3節「使者」
翌朝。
王宮の客間で、俺たちは向かい合って座っていた。
テーブルの上には果物と、精霊界特有の花茶。琥珀色の液面に花びらが浮いている。甘い香り。朝の光が窓から差し込んで、部屋全体が柔らかく光っていた。
穏やかな朝——のはずだった。
「つまり、めがねでも読めなかったってことだよな」
俺はカップを置いた。
「そうよ。黒い靄みたいなものが邪魔して、何も見えなかった」
エリカが腕を組む。いつもの分析モードだ。眉間に皺が寄っている。
「精霊界の宝物庫に侵入できて、めがねの読み取りも遮断できる。相当な力を持った存在ね」
「心当たりはあるか」
ゼファーが花茶に口をつけた。四十五歳の歴戦の戦士が花茶を飲む姿は、なかなかシュールだ。
「\...\...ないわ。少なくとも、放牧民の国で出会った敵とは質が違う」
フローが静かに口を開いた。
「妖精たちがあれほど怯えるのは、私も初めてです。宝物庫は結界で守られているはずなのに\...\...」
その声にはかすかな震えがあった。自分の国で起きた異変。王女として、それが許せないのだろう。
俺は窓の外を見た。世界樹の梢が朝日を受けて金色に輝いている。こんなに綺麗な景色なのに、なんだか落ち着かない。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感——
その時だった。
遠くで悲鳴が聞こえた。
一瞬、全員の動きが止まる。
もう一度。今度は近い。金属がぶつかる音。そして——
「ぐああっ!」
男の叫び声。衛兵だ。
ゼファーが椅子を蹴って立ち上がった。
「来るな。俺が先に行く」
「待って、俺も——」
「カイト、エリカとフローを頼む」
言い残して、ゼファーは廊下に飛び出した。
俺はエリカとフローの前に立った。二人を背中に庇う形で、扉に向き直る。
廊下から聞こえてくるのは、断続的な叫びと衝撃音。何かが壁にぶつかる鈍い音。それが近づいてくる。
一つ。衛兵が叫ぶ。
二つ。鎧が砕ける音。
三つ。悲鳴が途切れた。
衛兵が吹き飛ばされている。一人、二人——抵抗できていない。
足音が聞こえた。重い。ゆっくりとした歩調。急いでいない。まるで散歩でもしているかのように。
「\...\...何者だ!」
ゼファーの声。廊下で対峙したらしい。
返答はなかった。代わりに——
衝撃。
壁にひびが走った。ゼファーが廊下から弾き飛ばされてきたのだ。背中から壁に叩きつけられ、息を詰まらせる。
「ゼファー!」
「\...\...大丈夫だ」
ゼファーは壁から体を剥がした。額から血が流れている。
「一撃——」
ゼファーの目が鋭くなる。
「一撃で飛ばされた。あれは、人間ではない」
足音が止まった。
扉の前。
蹴破られた。
木の破片が飛び散る。蝶番が弾け、扉の半分が部屋の中に倒れ込んだ。朝の光が一瞬遮られ、影が部屋に踏み込んだ。
花茶の香りが消えた。代わりに、鉄の匂い。血の匂いだ。
黒いローブの男。
フードの下に薄笑いを浮かべた顔。目は暗い。底が見えない。井戸の底を覗き込んだような、吸い込まれそうな闇。
男の手が——赤く濡れていた。
血。
誰の血だ。
俺は身構えた。拳を握る。心臓がうるさい。
男は俺たちを一瞥した。視線がエリカで止まる。ほんの一瞬——だが、確かに止まった。
「お前か」
低い声。
「——何のことだ」
俺はエリカの前に立ち塞がった。
男は薄く笑った。嗤った、というべきか。
懐から封筒を取り出した。白い封筒。それだけが、この男の持ち物の中で唯一「人間らしい」ものに見えた。
投げた。
封筒がテーブルの上を滑り、花茶のカップにぶつかって止まった。琥珀色の液体が揺れる。
「ゼル様からの手紙は渡した。これで用は終わった」
ゼル。
聞いたことのない名前。だが、その響きだけで背筋が冷えた。
男は踵を返した。
「待て」
ゼファーが前に出る。額の血を拭いもしない。
「何者だ」
男が止まった。ゆっくりと振り返る。
その目には——底知れぬ闇が宿っていた。笑みすら消えている。ただの「暗さ」だ。感情のない、純粋な闇。
「冥土のみやげだ」
男の口角がわずかに上がった。
「聞くがいい。我は世界の終焉を導く者——狡猾である」
——狡猾。
空気が凍った。ゼファーの目が見開かれる。エリカが小さく息を呑んだ。
俺は聞いたことがない。だが、その言葉の重さは分かった。「終焉を導く者」。冗談で名乗る肩書きじゃない。
「ではな」
男は部屋を出た。
「待てっ!」
俺は反射的に飛び出した。廊下に出る。
左右を見た。
——いない。
影も形もない。足音もない。まるで最初からいなかったかのように。
ただ、廊下に倒れている衛兵たちだけが、男がここにいた証拠だった。
三人、四人——壁に叩きつけられて気を失っている。
そして——
一人の衛兵が、廊下の真ん中に横たわっていた。
首が。
首の角度がおかしい。人の首は、あんな方向には曲がらない。
握りつぶされたのだ。あの男の片手で。
俺は足を止めた。止まってしまった。
動けない。足が石になったみたいだ。
血が、床を伝っている。ゆっくりと。赤黒い線が石畳の隙間を埋めていく。衛兵の目は開いたままだった。何かを訴えるように——いや、もう何も見ていない。
「カイト」
背後からフローの声。
「見ないで——」
遅かった。フローも見てしまった。
息を呑む音が聞こえた。
フローの手が口元を押さえる。目が大きく見開かれ、瞳が揺れている。王宮の衛兵。彼女にとっては、子供の頃から見知った顔かもしれない。
「\...\...っ」
フローは膝をつき、衛兵に駆け寄った。手を翳す。淡い光が灯る——癒しの力。だが。
もう、遅い。
光が届いても、衛兵の胸は動かなかった。光は行き場を失い、静かに消えていく。
フローの手が震えていた。唇を噛んで、声を殺している。
「エリカ」
俺は声を絞り出した。
「手紙を見てくれ」
声が、自分のものじゃないみたいだった。
エリカは無言で頷いた。その顔は蒼白だったが——目だけは、鋭かった。
テーブルの封筒を手に取る。
俺はもう一度、廊下を見た。
男の姿はない。血の匂いだけが残っている。甘い花茶の香りと混じって、吐き気がした。
——ゼル。
その名前を、俺は忘れないだろう。
あの男が名乗った「狡猾」。終焉を導く者。
敵は——もう、ここまで来ている。




